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第1章
【対応記録:第29回】
しおりを挟む十一月の新宿、その地上は異様な静寂に包まれていた。
普段であれば、路地裏の影から下級魔物の気配が漂い、ギルドの観測網には何らかの微弱な魔力反応が常に記録されているはずだった。しかし、今朝のデータは、計器の故障を疑うほどに「無」を指し示していた。
「……久我さん、不気味すぎます。新宿エリアの魔物検知数がゼロ。一匹もいないんです。まるで、みんな一斉に夜逃げでもしたみたいに」
佐藤が震える手でタブレットを操作し、観測マップを表示する。いつもなら警告の赤や黄色で埋め尽くされている画面が、今は冷たい青一色に染まっていた。
地下三階の執務室。久我は、芝から回収した「不正の証拠」を整理し、ギルド内部告発用の公式フォーマットに入力する作業を淡々と続けていた。
「佐藤さん。野生の動物が嵐の前に山を下りるように、魔物もまた、自らの生存を脅かす巨大な『不備』を察知すれば、即座に避難を選択します。……彼らが逃げ出したということは、ここ新宿に、彼らの本能が拒絶するほどの何かが近づいている証拠です」
(ワンッ! おじさん、地面の底から嫌な震えが伝わってくるよ。とっても大きくて、とっても古い、怒りの震えだ)
「ボクの鑑定眼で見ても、今の新宿の空気は『空虚』だね。想い出も未来も、すべてを飲み込んで白紙に戻しちゃうような、そんな恐ろしい存在の影が差している」
クラとコトの言葉に、久我は一度だけキーボードを叩く手を止め、窓のない壁を見つめた。
彼が対峙しているのは、組織の闇だけではない。この世界の理そのものが生み出す、人智を超えた「災害級の苦情」が、すぐそこまで迫っている。
その時、廊下から複数の足音が近づいてきた。
それは魔物の足音ではない。完璧に統制された、軍靴の響き。そして、抜き放たれた刃が空気を切る鋭い音。
「……久我。そこにいるのはわかっている。……理事会の命により、貴殿を重大な背任罪、および魔物との不適切な共謀の疑いで拘束する。……抵抗すれば、その場で処分しても構わないとの許可も得ているぞ」
扉が蹴破られ、なだれ込んできたのは、ギルド本部が誇る精鋭暗殺部隊「粛清課」のメンバーだった。彼らは魔導装備を身に纏い、一瞬で久我のデスクを包囲した。
「……お客様。弊部署へのご訪問、並びに殺意の提示、ありがとうございます」
久我は椅子から立ち上がることなく、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「ですが、あいにく本日の訪問予約リストに皆様のお名前はございません。また、当ギルドの就業規則第十五条によれば、執務室内での武器の抜刀は、安全管理上の重大なマナー違反、並びに懲罰対象となりますが」
「黙れ! 屁理屈を並べるのもそこまでだ。……そのデータを渡せば、命だけは助けてやる」
暗殺部隊のリーダーが剣を久我の喉元に突きつける。
佐藤は恐怖で声を失い、壁際に追い詰められていた。だが、久我の表情は、まるで納期を遅らせてきた取引先を相手にしているかのように、冷淡で事務的なままだった。
「命、ですか。……私は、自分の命よりも『提出期限』を重んじる性質(たち)でして。……それに、皆様。……私の後ろにいる『先客』の方々に、きちんと挨拶はされましたか?」
「……何?」
リーダーが怪訝そうに久我の背後――影に沈んだ執務室の奥を見つめた。
そこには、いつの間にか、数え切れないほどの「光る瞳」が並んでいた。
地下五階の排水管を直してもらったアースドール。有給休暇を勝ち取ってもらったゴーレム。聖女の光から守られたスケルトン・ナイト。そして、久我の窓口に相談に来ていた、数多の魔物たちの「影」が、執務室の壁を埋め尽くすようにうごめいていた。
(……おじさんを、いじめるな。……ぼくたちの、大切な窓口を壊させない)
(……死霊を、侮るな。……この男を守ることは、我らの誇りである)
魔物たちが放つ圧倒的なプレッシャーが、狭いオフィス内に充満する。精鋭であるはずの暗殺部隊が、その異様な光景と、魔物たちが放つ「守護の意志」に圧倒され、一歩、また一歩と後退りした。
「……バカな。魔物が人間を守るだと!? 貴様、一体どんな魔法を使った!」
「魔法など使っていません。……ただ、真摯に苦情をお聞きし、適切なサービスを提供しただけです」
久我はゆっくりと立ち上がり、暗殺部隊のリーダーを冷徹に見据えた。
「皆様。……現在、新宿エリアは『不気味な静寂』の中にあります。これは、巨大な魔力災害……ストーム・ドラゴンの接近による避難現象です。……そのような非常時に、私怨のために戦力を割き、内部抗争に明け暮れる。……これこそが、組織としての最大の『不備』であり、『欠陥』です」
久我の放つ「正論」という名の冷たい魔力が、暗殺部隊の心をへし折っていく。
「……お引き取りを。現在、私は全魔物、並びにギルドの健全な未来を代表して、理事会への『最終通告』を作成中です。……邪魔をされるのであれば、私の背後にいるお客様たちが、皆様を『不適切な障害物』として排除することになるでしょう」
暗殺部隊は、震える手で剣を収め、逃げるように地下三階から去っていった。
一時の静寂が戻ったオフィスで、久我は静かに椅子に座り直した。
「……久我さん。……魔物たちが、みんな味方してくれましたね」
佐藤の声に、久我は少しだけ表情を和らげた。
「味方、ではありません。……彼らはただ、自分の『正当な権利』を守ってくれる窓口が消えるのを嫌っただけです。……さて、佐藤さん。執筆作業を再開します。……嵐が来る前に、すべての手続きを終えなければなりません」
久我は再びキーボードを叩き始めた。
新宿の街が、嵐を前に息を潜めている。
まさに運命の時計の針が、刻一刻と「その時」へと近づいていた。
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