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第1章
【対応記録:第31回】
しおりを挟む新宿の喧騒を背に、久我は折れ曲がったネクタイを直し、泥の跳ねたスラックスを払いながら地下三階の執務室へと戻った。
時刻は十七時四十分。定時を過ぎていることへの不快感と、これから書かなければならない膨大な「災害対応報告書」への倦怠感が、彼の肩を重く沈ませていた。
「……お疲れ様でした、久我さん。本当に、本当にお疲れ様でした!」
佐藤が、半泣きの状態で駆け寄ってくる。その手には、震える指で淹れたであろう熱すぎるコーヒーが握られていた。
「ニュースで見ましたよ! ドラゴンをどら焼きで追い返した男として、SNSはもうお祭り騒ぎです! これ、明日にはギルド長から表彰状ものですよ!」
「佐藤さん、声が大きいです。……表彰よりも、残業代の確実な支給を望みます。それと、駅前の『亀屋』さんへの特注費用の経費精算、特例で通しておいてください」
久我は椅子に座り、パソコンを起動した。だが、ログイン画面に打ち込んだパスワードは、冷酷なエラーメッセージと共に跳ね返された。
『アカウントが凍結されています。詳細は人事管理課までお問い合わせください』
「……不備、ですね。……それも、技術的なものではなく、人為的な」
久我の手が止まったその時、執務室の自動ドアが乱暴に開き、黒いスーツに身を包んだ「コンプライアンス遵守委員会」の腕章を巻いた男たちがなだれ込んできた。
「久我良平。……動くな。貴殿を、職務権限の逸脱、機密保持契約の違反、並びに未登録の危険生物(クラ)の秘匿容疑により、本日付で懲戒解雇とする」
中心に立つのは、ギルド理事会直属の監査官だ。彼は久我のデスクに、冷徹な「解雇通知書」を叩きつけた。
「……解雇、ですか。……事前の通告、並びに労働組合を通した弁明の機会が与えられていないようですが。これは労働法、およびギルド内規における重大な手続き上の欠陥です」
「黙れ。世界を救ったなどと英雄気取りか? 貴様の独断専行は、ギルドの管理体制をコケにしたも同然だ。……それに、その足元にいる黒い生き物。そいつは深層由来の『冥界の番犬』の幼体であることが判明した。実験体として、直ちに没収する」
監査官が手を挙げると、背後の隊員たちが魔導拘束具を取り出した。
(ワンッ! おじさん……! 怖い、嫌だ!)
クラが三つの首を怯えさせ、久我の足元に丸まる。コトもシルクハットの中から鋭い眼光を放ち、久我の影に溶け込んで戦闘態勢を取った。
久我は、ゆっくりと眼鏡を外し、丁寧にクロスで拭き始めた。その動作はあまりにも静かで、逆に周囲の空気を凍りつかせるような威圧感を放っていた。
「……没収。……私の管理下にある『備品』に対し、適切な返還手続きもなしに実力行使を行おうとする。……監査官殿。あなたは先ほどから、不備に不備を重ねておられる」
久我は再び眼鏡をかけ、立ち上がった。その瞳には、先ほどのドラゴンを相手にしていた時とは比較にならない、冷徹な「監査官」としての火が灯っていた。
「……いいでしょう。私がクビだと言うのであれば、それに従います。……ただし、私がこれまで受理し、保留してきた『未処理案件』のすべてを引き継ぐ覚悟はおありですか?」
「……何?」
「この地下三階には、私がこれまでにハックし、かろうじて平穏を保たせている魔物たちとの『契約』が数万件、記録されています。……アガレス・リソース社のストライキ回避協定、聖女エレナ様の浄化対象外リスト、そして先ほどのストーム・ドラゴンの『散歩ルート確保』に関する暫定合意。……私のIDが消えれば、これらすべての契約は『無効』となります」
久我はタブレットを操作し、ギルド全土に張り巡らされた魔力ネットワークの「苦情係専用チャンネル」を画面に映し出した。
「もし私がこの部屋を去れば、彼らは一斉に『窓口の消失』を察知します。……そうなれば、都内の魔物たちは再び、理不尽な搾取に対する正当な……いいえ、破壊的な抗議活動を再開するでしょう。……あなたは、それらすべての苦情を、その薄っぺらな解雇通知書一枚で鎮めることができるのですか?」
「き、貴様……脅すつもりか!」
「いいえ。……単なる『リスクマネジメント』のアドバイスです」
久我はカバンに私物を詰め始め、佐藤の方を向いた。
「佐藤さん。……定時を過ぎました。……帰りましょう。……あ、監査官殿。一つ言い忘れましたが。……芝さんから預かった『内部不正の全データ』ですが、私が退室してから三十分以内に私の生存確認が取れなかった場合、自動的に各報道機関、並びに国際ダンジョン監督庁へ送信されるよう予約済みです。……不備のないよう、お気をつけください」
久我は、震える監査官たちを無視し、クラを抱き上げ、コトを肩に乗せて執務室を後にした。
「……久我さん、本当に行っちゃうんですか? ギルドはどうなるんですか!」
佐藤が追いかけてくる。
「一度、スクラップにする必要があります。……組織の膿を出し切るには、一度『窓口』を閉めるのが一番効果的ですから」
久我はエレベーターに乗り込み、閉まりゆく扉の向こうで、混乱に陥り始めたギルド本部を見据えた。
事務屋の逆襲。それは暴力ではなく、「不在」による崩壊。
久我良平という名の巨大なシステムの停止が、この世界を本当の混沌へと叩き落とそうとしていた。
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