現代ダンジョンの苦情係 〜元クレーム処理担当の俺、魔物の言葉がわかるので菓子折り一つで世界を救う〜

ぱすた屋さん

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第1章

幕間:聖女の祈りと、不当な拘束に関する一考察

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白銀の刺繍が施された重厚な法衣が、私の肩に重くのしかかっています。
窓の外には、新宿の煤けた空とは対照的な、抜けるような青空と歴史ある大聖堂の尖塔が並んでいます。ここは欧州の聖都。人々が信仰の光を求め、跪き、祈りを捧げる場所。そして今の私にとって、世界で最も息苦しく、不透明な「職場」でもありました。

「エレナ様、間もなく午後の『謁見と浄化の儀』が始まります。枢機卿閣下がお待ちです。本日のスケジュールは、巡礼者三千人への一括祝福の後、隣国から運ばれてきた呪物十件の処理となっております。遅れは許されません。それこそがあなたの使命なのですから」

磨き上げられた大理石の床を鳴らし、若い司祭が有無を言わせぬ声で私に告げます。
かつての私なら、この言葉を「神に与えられた崇高な義務」として、疑いもなく受け入れていたでしょう。人々を救うこと、光を届けること。それが私の唯一の存在価値であり、たとえこの身が擦り切れても果たすべき道だと信じて疑わなかったからです。
けれど、今の私の耳には、その言葉は全く別の――ひどく「不備」に満ちた命令として響いてくるのです。

「……司祭様。確認させていただきますが、本日の業務スケジュールに関する事前合意はどのようになっていますか? 昨夜の深夜祈祷が終了したのは午前二時を回っていました。現在の私の魔力残量は、客観的に見て安全基準を下回っています。この状態で三千人もの一括処理を強行することは、提供する奇跡の品質低下、並びに労働安全衛生上の重大な欠陥に当たると考えますが」

「……な、何を。エレナ様、何を仰っているのですか。そのような世俗的な言葉を口になさるなんて……」

司祭は驚愕に目を見開きました。無理もありません。一ヶ月前までの私は、ただ微笑んで「はい」と答えるだけの、意志を持たない美しい人形だったのですから。
ですが、私は知ってしまったのです。新宿の、あの埃っぽい地下三階で、眼鏡の奥に鋭い光を宿しながら「不備です」と断じた、あの男性の背中を。

(……聖女様。あなたの『奇跡』は、相手の同意なしに行われれば、それはただの魔力の押し付けです。相手の人生をハックするなら、相応の契約と、事後のサポート体制を構築するのがプロの仕事というものです。根性論で奇跡を乱発するのは、資源の無駄遣いですよ)

久我様の、あの冷たくも誠実な声が、私の脳裏で何度も再生されます。
私は今、豪華な寝室の隅にあるデスクに座り、こっそりと持ち帰った新宿ギルドの「苦情受付マニュアル」の写しを捲りました。私の手元には、祈祷書ではなく、彼から学んだ「論理」という名の確かな武器があるのです。

「司祭様。私は聖女である前に、一つの意思を持つ契約主体です。……もし、私がこの過密スケジュールを強行し、万が一私の制御を離れた『浄化の暴走』が起きた場合、その責任は誰が取るのですか? 枢機卿閣下が連帯保証人として、すべての損害を賠償する書面に署名してくださるのであれば、検討の余地はありますが、いかがでしょう?」

「エレナ様! あまりに不敬です! あなたは神の慈悲を体現する存在なのですよ! 慈悲に責任や賠償などという言葉を混ぜるなど、あってはならないことです!」

「神の慈悲、ですか。……久我様ならこう仰るでしょう。『慈悲という抽象的な概念で、現場の管理不備を誤魔化すのは、無能なマネジメントの典型です』と。司祭様、あなたは私の魔力という有限なリソースを、無計画に浪費させようとしておられる。これこそが、この聖都が抱える最大の不利益ではありませんか?」

私は、内心で小さくガッツポーズをしました。
そうです。今の私は、ただ祈るだけの乙女ではありません。
聖女の魔力を一つのリソースとして解析し、自らのコストとリスクを計算することができるようになったのです。

窓の外を見れば、豪華な馬車が並び、各国の権力者たちが私の光を「希少な資源」として奪い合っているのが見えます。
新宿で久我様が守ろうとしていたのは、路地裏で震える小さな魔物や、行き場のない人々の小さな権利でした。
けれど、ここにあるのは、「聖女」というブランドを搾取し、自分たちの権威を飾り立てようとする大人たちの不当な要求ばかり。
そこには対等な契約も、相手への敬意もありません。あるのは「聖女なのだから救って当然だ」という、厚かましい依存だけ。

「……戻りたい」

ポツリと、本音が零れました。
あの、騒がしい地下三階の執務室。
不機嫌そうなドラゴンの咆哮が遠くで響き、クラ様がポテトをねだり、コト様が皮肉を言い、佐藤様がパニックになっている、あの「正しく機能している」場所。
そこには、私が私として、一人の「職員」あるいは「パートナー」として認められるルールがありました。

「エレナ様! 支度を! さあ、広場では民衆が待っているのですよ!」

司祭が痺れを切らしたように、私の腕を掴もうと手を伸ばしました。
その瞬間、私は無意識に光を放っていました。それは敵を滅ぼすための浄化の光ではなく、明確な拒絶の意志――「立ち入り禁止区域(オフリミット)」を示す、鋭い結界の光。

「……司祭様。予約のない身体接触は、ハラスメント、あるいは暴行罪に該当する恐れがあります。……これ以上強行されるのであれば、私は本日をもって、すべての聖女業務をボイコットさせていただきます。私の魔力は、適切な休息と契約なしには一滴たりとも提供いたしません」

「な……ッ!? 聖女が、ボイコット……!? 気が触れたのか……!」

司祭は腰を抜かし、恐れおののきながら部屋を去っていきました。
静まり返った豪華な部屋で、私は再び久我様から預かった新宿ギルドの身分証のコピーを、大切に胸に抱きました。

私はまだ、囚われの身です。
この高い壁と、歴史という名の古い鎖は、一朝一夕には断ち切れません。
けれど、私の心はもう、あの新宿の窓口と「永久契約」を結んでいるのです。

「……待っていてください、久我様。……私は必ず、この聖都の不備をすべて洗い出し、完璧な退職手続きを済ませて、あなたの元へ戻りますわ」

私はペンを取り、一枚の紙にタイトルを書き込みました。
『聖女活動における不当労働行為、並びに環境改善に関する勧告書』

事務屋の弟子としての、私の孤独で、しかし希望に満ちた戦いが始まろうとしていました。
いつか、再びあの地下三階で、「お疲れ様です、聖女様。本日の残業申請は出ていますか?」という、冷たくて心地よい言葉を聞くために。
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