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第1章
幕間:休日の保守点検、並びに家庭内リソースの最適化
しおりを挟む十一月の祝日。新宿の喧騒から少し離れた場所にある久我のマンションは、静謐という名の管理下にあった。
午前七時。普段より一時間遅く設定されたアラームが鳴る前に、久我は意識を覚醒させる。休日であっても、睡眠サイクルの逸脱は週明けの業務品質に影響を及ぼす「不備」に他ならない。
「……おはようございます、皆様。本日のスケジュールを確認します。午前中は室内の定例清掃、午後は備品の補充、並びに皆様の健康状態のチェックを行います」
久我が上掛けを丁寧に畳みながら告げると、足元から小さな不満の声が上がった。
(ワンッ……おじさん、今日は『おやすみ』って言ったじゃない。もっと、こう、ふかふかの海で泳ぐ夢を見てたのに)
「ボクも同感だね。せっかくの祝日なんだから、想い出の整理(二度寝)くらい許されてもいいはずだよ。久我くん、君の部屋はミニマリストを通り越して、もはや検震中の避難所みたいに殺風景だしさ」
足元で三つの首を交互に動かして欠伸をするクラと、棚の上でシルクハットの形を整えながら伸びをするコト。久我は彼らの言葉を「貴重なフィードバック」として受け流し、まずはキッチンへと向かった。
久我の自宅は、驚くほど整理されていた。
書類は年次・項目ごとにファイリングされ、キッチン用品は使用頻度に基づいた動線上に配置されている。そこには「無駄」という名のノイズが一切存在しない。
「クラ君、朝食です。本日は祝日特別メニューとして、蒸したサツマイモに少量のハチミツを添えたものを用意しました。糖分と食物繊維のバランスを考慮しています」
(わんっ! お芋! おじさん、やっぱり大好き!)
「コト様には、こちらの高級茶葉を使用したミルクティーを。昨夜の鑑定業務による魔力消費を補填するための配合です」
「ふん……まあ、気が利くのは認めるよ。このミルクの温度、完璧にボクの好みの『想い出』と一致してる」
二匹(?)が食事を摂る間、久我は掃除機を手に取った。
彼にとっての掃除は、単なる家事ではない。居住環境の不備を洗い出し、物理的なバグを取り除く「デバッグ作業」だ。家具の配置はミリ単位で固定されており、ルンバが通った跡すら残さない徹底ぶりである。
「……久我くん、君は本当に、休んでる時も『苦情係』なんだね」
コトがティーカップの縁から鋭い瞳を覗かせる。
「その、掃除機の掛け方。まるで敵の弱点を突くような精密さだよ。たまにはソファーでダラダラと、無意味なテレビ番組でも観たらどうだい?」
「コト様。無意味な情報の摂取は、脳のリソースを浪費させるだけです。休息とは、次の稼働に向けた『最適化』の時間。……おや、クラ君、そこのラグの端は噛まないでください。減価償却の速度を早める行為は、家計管理上の不備となります」
(うっ……おじさん、厳しいなぁ。でも、おじさんが綺麗にしてくれるおかげで、ここ、すっごく居心地がいいんだ。ギルドの地下室よりずっと、お日様の匂いがするし)
クラが掃除したての床にゴロンと横たわる。その仕草に、久我の口元がわずかに、本人も気づかないほど僅かに緩んだ。
午前中の「保守点検」を終えた久我は、午後、二匹を連れて近くの公園へと足を運んだ。
祝日の公園は、家族連れやカップルで賑わっていた。
久我は周囲の「予約のない混雑」を冷静に回避し、最も日当たりが良く、かつ人の動線から外れた「最適解」と言えるベンチを確保する。
「……さて。クラ君、運動不足は魔力の滞留を招きます。周囲の安全を確認した上で、五分間の自由行動を許可します。ただし、一般の方への過度な接触、並びに咆哮による騒音は禁止です」
(わーい! 行ってきます!)
クラが楽しそうに芝生を駆けていく。外見は愛らしい小犬だが、その背後には時折、冥界の門を護る巨大な影が揺らめく。それを見た子供たちが「あ、黒いわんちゃんだー!」と近寄ろうとすると、久我がスッと間に立ち、丁寧な敬語で「失礼、この子は少々人見知りでして。こちらの除菌済みのボールで遊ばれませんか?」と、完璧な対人スキルで誘導していく。
「……君、子供の扱いまで事務的なんだね。でも不思議だよ。君が間に入ると、誰も不機嫌にならない。むしろ、みんな満足して帰っていく」
コトが久我の肩の上で感心したように呟いた。
「それは、私が彼らの『欲求』という名の潜在的なクレーマー意識を先読みし、不備が出る前に適切な代替案を提示しているからです。……コミュニケーションとは、一種の在庫管理ですよ」
「相変わらずだね。……でも、そんな君だからこそ、ボクもクラも、あのストーム・ドラゴンさえも、君の作った『枠組み』の中が一番落ち着くってわけだ」
日が傾き始め、公園の空が茜色に染まる。
久我は腕時計を確認し、「予定通りです」と呟いた。
帰りにスーパーに寄り、佐藤からメールで届いた「今週の特売情報」に基づき、来週の備蓄を過不足なく買い揃える。
自宅に戻り、夕食を済ませた後。
久我はリビングのソファーに座り、クラを膝に乗せ、コトをクッションの上に置いた。
手元にあるのは、一冊の古いビジネス書。だが、その背表紙には魔物の文字で何かが書き込まれている。それは、久我が個人的に研究している「人間と魔物の共生に関する新しい契約論」の草案だった。
(……ふかふか。おじさん、今日はお仕事の話、しないの?)
「……今日は、メンテナンス日ですから。……ですが、クラ君。明日からは、新しいお客様が来られる予定です。……準備はいいですか?」
(うん! 僕、おじさんをいじめる奴は、みんなワンッてしてあげる!)
「ボクも、彼らの隠し事(バグ)を全部暴いてあげるよ。……久我くん、君の『窓口』は、まだまだ忙しくなりそうだね」
「……ええ。不備のある世界を、少しずつ、修正していきましょう」
久我は、満足げに寝息を立て始めたクラの背中を、一定の、完璧なリズムで撫で続けた。
事務屋の祝日は、こうして静かに、そして最適に幕を閉じていく。
さらなる「巨大な不備」との戦いに備えて。
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