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第2章
第37話:久我ソリューションズ、最初の求人票
しおりを挟む新宿、歌舞伎町。かつて不夜城と呼ばれ、人々の欲望と喧騒が渦巻いた街の光景は、数ヶ月前のアウトブレイクと、それに続くギルド本部の解体によって一変していた。
瓦礫の撤去作業は遅々として進まず、空を突くような超高層ビルの足元には、剥き出しの鉄骨とコンクリートの残骸が、巨大な墓標のように並んでいる。
だが、その荒廃した景色の中心部――かつてのギルド本部ビルが建っていた跡地の一角に、場違いなほど「清潔な」一画が存在していた。
周囲の埃を吸い込むことも許さないと言わんばかりの、真っ白なプレハブ小屋。
入り口には、アクリル板に黒の切り文字で、極めて事務的な看板が掲げられている。
『ギルド再建委員会・特別苦情対応窓口(運営:久我ソリューションズ)』
室内には、最新の空気清浄機が低く唸りを上げ、温度は二十二度、湿度は五十パーセントに完璧に制御されていた。
久我良平は、三面鏡の前で寸分の狂いもなくタイを締め直すと、自席のデスクに腰を下ろした。
「久我さん。昨日分の『新宿地下水路・居住区騒音問題』の進捗、共有します。……っていうか、このプレハブ、断熱材が良すぎるのか、外の重機の音が全然聞こえなくて逆に不気味っすね」
隣のデスクで、数枚のモニターに囲まれた佐藤が、欠伸を噛み殺しながらキーボードを叩いた。
彼は、かつてギルドのブラックな労働環境にいた頃よりも、どこか生き生きとして見える。いや、正確には「自分の技術を正当に評価してくれる上司」の下で、存分に毒を吐ける環境を楽しんでいるようだった。
「佐藤君。物理的な遮音は、論理的な思考を維持するための最低条件だ。外の喧騒を室内に持ち込むのは、書類にコーヒーをこぼすのと同義だよ」
久我は無機質に答え、手元のタブレットを確認した。
足元では、黒いポメラニアンのような姿をした冥界の番犬(ケルベロス)の幼体――クラが、退屈そうに喉を鳴らしている。その影からは、シルクハットを被った猫妖精コトが顔を出し、金時計の蓋をパチンと鳴らした。
「久我はん、相変わらずやね。組織を壊して、自分一人で『窓口』を始めたと思ったら、やってることはギルド時代より細かい事務作業や。……おや、今日の一番乗りは、随分と勢いのある『案件』のようやで」
コトの言葉と同時に、プレハブの扉が、壊れんばかりの勢いで叩かれた。
ノックというよりは、もはや体当たりに近い衝撃。
佐藤が「うわっ、何事!?」と椅子を引く間もなく、扉が勢いよく開け放たれた。
「失礼します! あのっ、ここに! ここに久我良平さんはいらっしゃいますか!?」
飛び込んできたのは、一人の少女だった。
現代ダンジョン管理ギルドの、今はなき新宿支部の制服。それは至る所が擦り切れ、泥に汚れている。だが、彼女の瞳には、荒廃した新宿の空には似つかわしくないほどの、眩しいほどの情熱が宿っていた。
久我は、眼鏡を指先で微調整し、ゆっくりと顔を上げた。
記憶のデータベースから、該当する顔を探し出す。
新宿三丁目。レストランの排気口。熱暴走するサラマンダー。彷徨いながらレーダーを持っていた、あの時の新人監視員だ。
「……結城、陽菜(ゆうき ひな)さん。でしたね。私の記憶が正しければ、貴女の所属していた部署は、本部の解体に伴い、現在は待機命令、あるいは配置転換の対象のはずだ。このような非公認の事務所に、不法侵入紛いの行為で現れる法的根拠を伺いたい」
久我の声は、相変わらず冷徹で、ビジネスライクだった。
だが、陽菜はひるまなかった。彼女は震える手で、ポケットから一枚の「紙切れ」を取り出した。
それは、ボロボロになり、何度も折り畳まれた跡がある、久我の名刺だった。
かつて彼が、通りすがりの「協力者」を装って彼女に手渡した、前職の、もう無効になっているはずの名刺。
「これ! これをずっと、持ってました。……あの日、久我さんがサラマンダーと『お話』をして、惨事を防いだところを見てから、私、ずっと考えてたんです。魔物を倒すだけじゃなくて、彼らが何を怒ってるのか、何を困ってるのかを解決する……。そういう仕事が、本当の『管理』なんじゃないかって!」
陽菜は、一歩前に踏み出した。
「ギルドがなくなって、みんなバラバラになって……。でも、私は久我さんの下で働きたいんです! 掃除でも、荷物持ちでも、魔物の餌やりでも何でもします! 私を、久我ソリューションズで雇ってください!」
室内を、沈黙が支配した。
佐藤は「マジか……」と絶句し、コトは興味深げに目を細めている。
久我は、陽菜が差し出した名刺をじっと見つめた。
それは、彼が捨て去ったはずの「過去」の一部だ。だが、その紙切れが、一人の少女の人生の指針になっていた。
「……結城さん。ここは、慈善活動の場ではない。私は、論理と規約に基づいて魔物の苦情を処理し、対価として利益を得る、営利組織を運営している。貴女に、その『利益』に貢献できるスキルはあるのかね?」
「あります! ……ええと、新宿の地下水路のマップは全部頭に入ってますし、重いものも持てます! あと、私……」
陽菜の視線が、久我の足元に吸い寄せられた。
そこには、牙を剥き、侵入者を警戒しているクラがいた。
普通の人間なら、その魔力波形を感じただけで腰を抜かすはずの、冥界の捕食者。
「わぁぁぁぁ……! なに、この可愛い子! ワンちゃん!? えっ、真っ黒でふわふわ……! こんにちは、君、なんていうお名前なの?」
「グルッ……!?」
クラが、困惑したように声を漏らした。
陽菜は、恐怖心を一切感じさせない無防備な笑顔で、クラの目の前までしゃがみ込んだ。
「ごめんね、怖がらせるつもりはないの。……あ、君、もしかして少しブラッシングが足りてないんじゃない? ここの毛先、ちょっと絡まってるよ。よしよし、痛くないからねー」
陽菜の手が、迷いなくクラの頭に触れた。
ケルベロスの幼体として、常に周囲を威圧してきたクラが、驚いたように大きな目をまたたかせる。そして――抗うことのできない「撫で」の心地よさに、思わず尻尾を振ってしまった。
「佐藤君。……見ての通りだ」
久我が、静かに告げた。
「彼女には、我々に欠けている資質がある。魔物を『管理対象』や『脅威』としてではなく、一つの『生命体』として、バイアスなしに認識できる感性だ。これは、現場での聞き取り調査において、強力な武器になる」
「いや、久我さん。……それ、ただの重度の動物好きじゃないっすか?」
佐藤のツッコミを無視し、久我はデスクの引き出しから、一通の書類を取り出した。
あらかじめ用意されていたかのような、雇用契約書。
「結城陽菜さん。貴女を、久我ソリューションズの『フィールド・オブザーバー(現場調査員)』として、試用期間付きで採用します。業務内容は、魔物の生態調査、機嫌のサンプリング、および――」
久我は、眼鏡を光らせて付け加えた。
「私の事務作業の、物理的な足となって動いてもらうことだ。……ただし、クラに対する過度なスキンシップは、業務外で行うように。彼の尊厳に関わる問題だ」
「はい! ありがとうございます、久我社長! 一生懸命、頑張ります!」
陽菜の元気な返声が、プレハブの中に響き渡った。
冷え切っていた室温が、彼女の熱気で、わずかに上がったような気がした。
こうして、久我ソリューションズに最初の「現場職員」が加わった。
それは、後に「魔物と人間の融和」という途方もない目標を現実のものにする、小さな、しかし決定的な一歩であった。
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