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第2章
第43話:スライムのプールと、陽菜のフィールド調査
新宿の地下二層。かつて建築資材の集積所だった広大な空間は今、神秘的なサファイアブルーの輝きに満たされていた。
クイーンスライムの一族が移住を完了したその場所は、壁一面が潤いのある粘液でコーティングされ、数百体のチビスライムたちが、さながら「スライムの海」のように波打っている。
「うわあああぁ……っ! すごーい! 佐藤さん、見てください! あっちもこっちもプルプルですよ!」
陽菜がヘルメットのカメラに向かって、興奮した声を上げた。
彼女の腰には、新入社員の「スラ美」がスライム特有の粘着力を活かしてベルトのように巻き付いている。スラ美は現場の空気(魔力濃度)をサンプリングしつつ、陽菜の安全を「吸着力」で守るという、高度なサポート業務をこなしていた。
『……陽菜、あんまりはしゃぐな。モニターがプルプル揺れすぎて、こっちの酔い止めが足りなくなる。……あと、そこの魔力濃度、昨日より二%高い。スライムたちの代謝が上がってる証拠だな』
耳元の通信機から、事務所にいる佐藤のけだるげな声が聞こえる。
佐藤はプレハブの快適な椅子に座りながら、陽菜の頭上に浮かぶ観測用ドローンの映像と、スラ美から送られてくる生体データをリンクさせていた。
『結城さん。浮かれている暇はありませんよ。本日の業務は、クイーンスライム殿との「暫定居住契約」に基づいた、境界線の最終確認です。……佐藤君、境界線付近に不自然な障害物はないか?』
久我の事務的な声が割り込む。
事務所では、久我が完璧な姿勢で書類を整理し、その隣ではコトが新しい爪研ぎで「研ぎの極致」に達しようとしていた。
「ニャオ、ミィ……」
『久我はん。あの娘、あんなに嬉しそうにして。まるで「極道温泉・湯けむり喧嘩旅」の入浴シーンみたいやわ。隙だらけやねぇ。後ろから狙われたら一貫の終わりどすえ』
「……コト。不吉な例えはやめておけ。……結城さん、陽菜さん。今、コトが『足元を掬われないよう警戒しろ』と警告しています。調査を継続してください」
「了解です! ……えいっ!」
陽菜は我慢できず、膝まであるスライムのプールに飛び込んだ。
バシャッ、という液体特有の音ではなく、ボヨヨン、という心地よい弾力。
数百のチビスライムたちが陽菜を歓迎するように体を寄せ合い、彼女の体を優しく持ち上げる。
「き、気持ちいいーー! 高級なウォーターベッドみたいです! あはは、くすぐったいよー!」
『……陽菜。お前、仕事忘れてるだろ。……あ、待て。陽菜、そのまま止まれ』
佐藤の声が急に険を帯びた。
ドローンの赤外線センサーが、地下二層の最深部、クイーンスライムが「玉座」として定めた区画の裏側で、不自然な熱源を感知したのだ。
『久我さん。……これ、魔物じゃない。人間の反応です。三名。……それも、かなり「重い」装備を持ってる』
久我の眉間が、わずかに寄った。
『……結城さん。即座に「スラ美」を戦闘モードに。佐藤君、音声集音を開始。彼らが何を「占拠」しているか確認しなさい』
「は、はい! スラ美ちゃん、お願い!」
陽菜が叫ぶと、腰に巻かれていたスラ美が「プルッ!」と小気味よい返事をした。スラ美は瞬時に陽菜の右腕を包み込み、透明な強化ガントレットのような形状に変化する。
陽菜はスライムの海を掻き分け、熱源の正体へと近づいた。
そこには、ギルドの非公認調査員のような格好をした三人の男たちがいた。
彼らは、地下二層の壁に巨大なドリルを打ち込み、そこから漏れ出す「高純度の魔力液」を勝手にドラム缶へ詰め込んでいた。
「……おい。ここいらのスライムどもは、昨日からこのプレハブ野郎の『管理下』に入ったって話だ。今のうちに抜き取れるだけ抜いとけよ。この魔力液、闇市場なら一本で数百万だぞ」
「へへっ、いいんですか? ギルド本部の解体で、この辺の地権は宙に浮いてるんでしょ?」
男たちの下卑た笑い声が、マイクを通じて事務所に筒抜けになる。
陽菜の顔が、怒りで赤く染まった。
「……ちょっと、あなたたち! そこで何してるんですか!」
陽菜が瓦礫の中から飛び出した。
男たちは驚いたように振り返り、陽菜の制服を見て鼻で笑った。
「あぁ? なんだ、お嬢ちゃん。……久我ソリューションズのパシリか? 邪魔するなよ。俺たちは『自由競争』を楽しんでるだけだ。ここに誰の名前も書いてないだろ?」
『自由競争、ですか。……それは面白い解釈ですね』
陽菜の首に掛けられたスピーカーから、久我の冷徹な声が響き渡った。
その声のトーンは、完全に「排除対象」を特定した時の事務屋のそれだった。
『佐藤君。当該区画の不動産登記簿、および昨日の午後三時に私が新宿区役所へ提出した「魔物共生特別特区・暫定管理申請書」を、彼らの持っているスマート端末へ強制プッシュ送信しろ』
「了解。……送信完了。ついでに、そいつらが使ってるドリルのハッキングも終わりました。今、強制ロックかけて使い物にならなくしてあります」
次の瞬間、ガガガッという音を立てていたドリルが火花を散らして停止した。
男たちが慌てて端末を確認すると、そこには久我の署名が入った、法的に完璧な「立入禁止命令書」が表示されていた。
『……さて、不法占拠者諸君。貴殿らが今行っている行為は、建造物侵入罪、ならびに窃盗罪。そして何より、私の「お客様」であるクイーンスライム殿のプライベート空間に対する、重大な規約違反だ』
「うるせえ! こんな紙切れ、後出しジャンケンじゃねえか! 力で奪うのがダンジョンのルールだろ!」
一人の男がナイフを抜き、陽菜に飛びかかった。
「……スラ美ちゃん、やって!」
陽菜が右腕を突き出す。
スラ美はガントレットの状態から、一瞬で「巨大な粘着質の盾」へと膨張した。ナイフはスライムの柔軟な体内にめり込み、男の腕ごと固定される。
「うわっ、離せ! なんだこれ、粘着力が……!」
「スラ美ちゃんの吸着力は、冥界のポンド換算で三トン以上あるんですよ! 社長、どうしますか!?」
『……結城さん。そのまま彼らを「固定」し続けてください。……佐藤君、新宿署のダンジョン犯罪対策課へ、現場の映像とともに通報。……それから、コト。君の言う通り、少し「掃除」が必要なようだ』
『ええ返事やねぇ。不届き者には、きっちり「ケジメ」をつけさせなあかん。久我はん、あのドリル……和解金のカタに没収してまえへんか?』
「……コトが『ドリルの押収と損害賠償請求を忘れるな』と申しています。佐藤君、備品受領書の雛形を用意しろ」
「はいはい。……あーあ。そこの三人組、不運だったな。久我さんの『事務手続き』という名の拷問が始まるぜ?」
数分後。
クイーンスライムの玉座周辺から、不法占拠者たちは涙目になりながら、資産のすべて(ドリルや車両)を「損害補償」として差し出す署名をさせられ、警察へと連行されていった。
地下二層に、再び静寂が戻る。
スライムの海の中で、陽菜はスラ美と一緒に、大きなため息をついた。
「……ふぅ。怖かったけど、スラ美ちゃんがいてくれて助かったよ」
「プルルッ!」
スラ美は満足げに陽菜の腕を磨き上げる。
陽菜は、再びスライムのプールに身を投げ出し、今度はゆっくりとその弾力を楽しんだ。
『……結城さん。業務報告書の提出期限は本日中ですよ。……それから、スライムの粘液を制服につけたまま帰社するのは許可しません。事務所の清浄度が落ちる。現地でスラ美に洗浄させてから戻るように』
「ええっ、そんなぁ! あ、でもスラ美ちゃんの洗浄、ひんやりしてて気持ちいいからいいかも……」
事務所では、久我が静かに次の案件のファイルを閉じた。
佐藤は新しい機材(没収したドリル)のスペックを調べ始め、コトは満足げに爪研ぎの成果を眺めている。
新宿の地下。
人間と魔物の境界線を引き直す事務屋たちの戦いは、今日もまた、ささやかな「秩序」を一つ積み上げたのであった。
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