「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

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第1章 婚約破棄と清算

4、清算の始り

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案内されたのは、大広間に隣接する小さな応接室だった。

扉一枚隔てた向こうでは、まだ楽団の音がかすかに鳴っている。けれどそれはもう、今のリディアにはまるで別世界のもののように聞こえた。つい先ほどまで立っていた夜会の熱気も、好奇の視線も、この部屋の中までは届かない。

届くのは、現実だけだ。

室内は簡素だった。丸卓が一つ、壁際に筆記机が一つ、背の高い燭台が二つ。夜会のための華やかな部屋ではない。だが、曖昧にしてはならない話を整えるには、むしろちょうどよかった。

リディアは中へ入るなり、まず顔ぶれを確認した。

王家側の記録係が一名。
法務局から一名。
グランツ家の従者。
エーヴェル家付きの老執事。
それに、立会人として名を借りるに足る家格の貴族が二人。

過不足はない。

「本当に、ここまでなさるのですか」

桃色の令嬢が、戸口のあたりで立ち尽くしたまま呟いた。

夜会の中央で見たときよりも、ずっと若く見えた。愛らしいというより、こういう場に立つ準備のない幼さが前へ出ている。

ユリウスが眉を寄せる。

「君は戻っていていい」

「でも……」

「これは家同士の確認だ。君までいる必要はない」

庇っているようでいて、責任の外へ押し出す言い方だった。

リディアはそのやり取りを静かに見た。

この令嬢がどこまで事情を知っていたかはわからない。だが少なくとも、婚約破棄のあとに何が必要になるのかまでは教えられていなかったのだろう。その時点で、ユリウスの“誠実な恋の選択”など、ずいぶん薄っぺらなものに思える。

「お残りになって構いません」

リディアが言うと、ユリウスが意外そうにこちらを見た。

「今夜の出来事に無関係ではいられない以上、むしろご理解いただいていたほうがよろしいでしょう」

桃色の令嬢は、何か言いかけて、結局小さく頷いた。

逃げるべきか残るべきか、その判断すら他人任せにされている顔だった。

リディアは丸卓の一辺へ立ち、記録係が筆を取るのを確認してから口を開く。

「では、始めます」

その一言で、室内の空気が静まり返る。

「今夜確認するのは三点です。第一に、婚約解消の意思確認。第二に、持参金および贈与品目録の照合準備。第三に、今後の通達文面の方向性」

簡潔に並べられた言葉は、まるで最初からそう決まっていたかのように淀みがなかった。

ユリウスは椅子へ腰を下ろしたものの、その姿はどう見てもこの場に似合っていない。つい先ほどまで大広間の中心で“選ぶ側”にいた男が、今は紙と記録と証人に囲まれている。その落差に、まだ理解が追いついていないのだろう。

「まず、本日の婚約解消について確認いたします」

リディアは視線を真っ直ぐユリウスへ向けた。

「本件は、ユリウス・グランツ様ご本人の明確な意思による申し出であり、後日その趣旨を変更なさらない。この理解で相違ございませんか」

「……相違ない」

返答は短い。

だが、先ほど大広間で口にしたときよりも明らかに重かった。今はもう、周囲の視線へ向けた宣言ではなく、記録へ残る確認になっているからだ。

「また、グランツ家としても本件に異論はなく、後日正式な文書を整える前提である。こちらもよろしいですね」

「父には話してある」

ユリウスが苛立ちを隠さずに答える。

「家として反対はされていない」

「承知しました」

リディアは記録係へ目配せした。

筆先が紙を走る音が、やけに明瞭に響く。

その音を聞きながら、ユリウスはようやく気づき始めているのだろう。

自分が壊したのは感情だけではない。記録に残る約束なのだと。

「次に、持参金と贈与品の扱いについてです」

その一言で、桃色の令嬢がまた小さく息を呑んだ。

リディアは続ける。

「婚約成立に伴いエーヴェル家より準備された持参金の控え、および両家における贈与品の目録は、後日正式に照合いたします。婚約に伴うものと、通常の社交儀礼の範囲に留まるものは、必ず区別が必要です」

「そこまで細かく……?」

桃色の令嬢の声は、もはや戸惑いを隠していなかった。

「ええ」

リディアは穏やかに答える。

「正式な婚約でしたから」

その言葉に、室内がしんとする。

婚約破棄という響きだけなら、恋の終わりとして消費できる。
だが正式な婚約という言葉が入った途端、それは家の取り決めへ姿を変える。

桃色の令嬢は、ようやくそれを理解し始めたらしい。

「……後日、でいいだろう」

ユリウスが不機嫌そうに口を挟む。

「今ここで、そんなに細かく決める必要があるのか」

「今ここで詳細を決める必要はございません」

リディアは答える。

「ですが、何を後日確認するのか、その範囲だけは今ここで定めておかなければなりません」

「なぜだ」

「明日になれば、双方がそれぞれに都合のよい前提で話し始めるからです」

彼女は一歩も引かなかった。

「準備金を含むか否か。宝飾品は婚約に伴うものか、単なる贈答か。衣装の仕立て代はどちらが負担するのか。そこを曖昧なままにすれば、確認ではなく交渉になります」

ユリウスは言葉を失う。

おそらく彼の頭の中では、そこまでが一つの線になっていなかったのだろう。婚約を解消する。そのあとに必要なものが、なぜそんなに多いのかと。

だが多いのではない。もともと存在していたものが、今やっと見えてきただけだ。

「まあ、本当に隙がないこと」

ローデン侯爵夫人の声が、甘く割り込んだ。

いつの間にか扉近くに立っていた彼女は、夜会の延長のような顔で扇を揺らしている。

「お金の話に、衣装の話に、文面の話。ずいぶん夢のないことでございますわね。せっかく殿方が心のままに決断なさったというのに」

「心のままの決断であっても、後始末は必要です」

リディアは振り返った。

「むしろ、心のままに決断されたからこそ、なおさら」

侯爵夫人の扇がぴたりと止まる。

「後始末、ですって」

「はい」

リディアは丁寧に言った。

「婚約解消後の整理としては、最も正確な言葉かと」

そのやり取りのあいだ、セオドアは壁際に近い位置に立ったままだった。

口を挟まない。
だが、必要ならいつでも整理できるように場を見ていることだけはわかる。

それが妙に心強いと感じてしまうのは、今はまだ認めたくなかった。

「最後に、文面について」

リディアは再び卓へ向き直る。

「今夜の婚約解消は、すでに衆目の前で宣言されました。よって、今後両家が示す説明に齟齬があってはなりません」

「文面まで揃える必要があるのか」

ユリウスがうんざりしたように言う。

「好きに語れば、片方だけが傷つきます」

リディアの答えは短かった。

「不義、不実、重大な落ち度を示唆するような表現は避けるべきです。また、本件が双方確認のうえでの婚約解消であることは明示しておく必要があります」

「大げさだな」

「大げさではありません」

静かな声のまま、彼女は告げる。

「言葉は記録になります。記録は、後で人を守ることも傷つけることもできます」

そこで初めて、セオドアが口を開いた。

「今夜中に最低限の確認を済ませておかなければ、明日には噂だけが先に走るでしょう」

低く、乾いた声だった。

「それを後から訂正するのは骨が折れます」

ローデン侯爵夫人が、少しだけ面白くなさそうに目を細める。

「法務局の方々は、本当に風情がありませんわね」

「風情で責任は減りません」

セオドアは淡々と言った。

それだけで十分だった。

侯爵夫人も、それ以上は続けない。

ユリウスは目を伏せ、指先で椅子の肘掛けを軽く叩いた。

苛立っている。だが怒鳴らない。怒鳴れば、自分の側がますます軽く見えるとようやくわかったのだろう。

リディアは記録係が筆を止めるのを待ってから、結論を告げた。

「今夜は以上です。明日以降、持参金と贈与品の目録照合、通達文面の草案確認に移ります」

これで終わりだとわかった途端、桃色の令嬢が小さく息を吐いた。

その様子を見て、リディアはほんの少しだけ目を伏せる。

この人はたぶん、今夜のことをしばらく忘れられないだろう。愛されて選ばれた夜のはずが、責任と記録の夜になってしまったのだから。

だが、それもまた現実だ。

立ち上がると、ようやく足の奥が少しだけ重いことに気づく。

気を張っていたぶん、疲れは遅れてくる。

「失礼いたします」

そう言って扉へ向かった瞬間、ふと視線を感じた。

半開きの扉の向こう、廊下の先に白いドレスの裾が見える。

王族席にいたヘレナ王女だった。

彼女はほんの一瞬だけリディアと目を合わせ、それから侍女とともに静かに姿を消す。

偶然ではない。だが、その意味を今ここで考える余裕はない。

今夜はまだ、壊れた約束の後始末だけで精一杯だ。

「本当に、お見事なこと」

背後からローデン侯爵夫人の声が追ってくる。

褒め言葉ではない。
けれどリディアは振り返らなかった。

「曖昧な別れほど、後で人を傷つけますので」

それだけ返して、部屋を出る。

廊下の空気は、夜会の熱気よりわずかに冷たく、ようやく肺へまともな息が入った気がした。けれど胸の奥に残る痛みまで薄くなるわけではない。

それでも、今夜やるべきことはまだ残っている。

文面の叩き台。
目録の確認。
両家への通達順。
そして、明日になれば――王都はもう知っている。

リディアは歩き出した。

涙を流すより先に、整えなければならないことがある。

そういう夜だった。
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