「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

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第2章 彼女が抜けた王都

2、守る条件

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昼の光は、夜の灯りより残酷だった。

机の中央には、王女殿下の婚姻条件案。左には補足を書き足すための白紙、右には返答を急ぐ王都の問い合わせが整然と積まれている。どれも今日のうちに手をつけるべき紙ばかりだったが、優先順位に迷いはなかった。

リディアは王女案件の紙を引き寄せた。まず見るべきは、帰還条件と私的書簡の扱いだ。帯同人数も、解除条項も後回しにはできない。昨夜のうちに見抜いた綻びは、一晩置いても薄れなかった。むしろ朝の光の下で読み返したぶんだけ、危うさはさらに明確になっていた。

問題は、足りない条項の数ではない。
その足りなさが、誰をどう傷つけるかだ。

リディアは紙の端へ、短く書きつけた。

帰還条件は相手家の許可制にすべきでない。

続けて、その下へ二行。

病気、服喪、王家主催の式典、親族の危急。この四件については、王女殿下側の判断で帰還できる余地が必要。
帰還そのものが交渉材料となる形は避けるべき。

筆を止めて、少し考える。

帰還が交渉材料になるということは、弱い側の願いが相手の機嫌や都合と引き換えにされるということだ。婚姻前なら、たいていの者はもっともらしい理屈を口にするだろう。新しい家へ嫁ぐ以上は相手家の習慣を尊重すべきだ、と。不要な王家の干渉は慎むべきだ、と。最初から疑うような条件を並べるのは信頼に欠ける、と。

だが、信頼と無防備は違う。

その違いを、世の多くは驚くほど雑に扱う。

リディアは次の項目へ視線を移した。

私的書簡に関する条項は、昨夜からずっと気になっていた。いや、気になるなどという言い方では足りない。文言が、あまりにも便利すぎるのだ。

家の安寧を損なうおそれのある内容については、相手家の判断により留め置くことができる。

そんなものはいくらでも拡大解釈できる。王都への愚痴も、体調不良の訴えも、侍女への不信も、夫家での孤立も、将来への不安も、相手がその気になればすべて「家の安寧を損なう」と言えてしまう。

リディアは新たな補足を書き加えた。

検閲対象を限定すべき。王家機密、軍事、財政、相続に関する記述など、範囲を明文化。
判断権限は相手家単独とせず、王女殿下側随員の確認を要する形へ変更。
私的書簡の不達は、王女殿下の孤立を意味する。

そこまで書いて、指先がわずかに止まる。

昨夜の自分を重ねたわけではない。大広間で味わった孤立と、遠い土地へ嫁いだ王女が背負う孤立は、重さも深さも比べものにならない。

けれど、周囲が「大丈夫そうだ」と見なしているあいだに、本人だけが静かに追い詰められていく構図は似ていた。見えないから、なかったことにされる。声に出しにくいから、問題と数えられない。

扉が二度、軽く叩かれた。

「どうぞ」

入ってきたのは若い侍女だった。銀の盆に新しい茶器と、小さな紙片を載せている。

「法務局より使いの者が。補足を受け取りましたので、すぐにこちらをと」

侍女が盆を置いて下がる。

紙片には、セオドアの筆跡で短くこうあった。

帯同人数についてもご意見を。現案では侍女二名、侍医帯同なし。

リディアは思わず眉を寄せた。

「二名……」

声に出してみると、いっそう現実味がない。

侍女二名では、王女付きとしては少なすぎるどころではない。実務も、監視も、病時の対応も、体面も、何一つ支えきれない数字だ。しかも侍医帯同なし。王都から遠く離れた先での体調不良や出産、あるいは事故や暴力に対して、完全に相手家の医療と判断へ依存することになる。

リディアは即座に返信用の紙を取り出した。

少なすぎます。最低でも侍女四、侍医一、記録係一。可能なら侍女六。
帯同人数は体面ではなく発言力です。王女殿下の側に“見ている人間”がいること自体が抑止力になります。

そこまで書いてから、さらに一行足す。

人数を削るのであれば、削られた側から先に権限も失います。

紙を折って盆へ戻し、侍女を呼び戻して渡す。彼女は目を丸くした。

「もう、でございますか」

「ええ。今のうちに届いたほうがいいでしょう」

侍女が出ていくと、部屋は再び静まり返った。

次は解除条項だ。

ここが、婚姻を婚姻たらしめる部分でもある。始める前より、壊れたあとにどう守られるか。そこに何もない契約は、結局は強い側の都合で続くだけの拘束になる。

現案には、解除に関するまともな規定がなかった。形式上は「重大な背信があった場合は協議」とだけある。だが、重大な背信とは何か、その判断を誰がするのか、協議がまとまらないときはどうするのか、何一つ明文化されていない。

協議という言葉は便利だ。

だが、それは力の均衡があるときにだけ意味を持つ。

王女が婚姻先で実権を持たず、帰還権も曖昧で、王都との書簡も制限される状況で、いったい何をどう協議するというのか。

リディアは紙へ、項目を順に書き出した。

不義。
継続的な暴言・暴力。
長期の別居。
王女殿下側の財産・随員への不当な制限。
子の身柄および継承権に関する一方的変更。
王家との通信遮断。

そこまで並べてから、少しだけ視線を止める。

これらを最初からすべて飲ませるのは難しいかもしれない。

だが、難しいから削る、では意味がない。難しいからこそ、最初に論点として紙の上へ置く必要がある。

婚姻前の交渉とは、理想を一度きちんと書き出すことだ。書き出さなければ、削ることも守ることもできない。最初から遠慮した契約は、結局最後まで遠慮したまま終わる。

リディアは余白へ書き加えた。

婚姻は始まってからのほうが人を傷つける。よって解除条項は“信頼の欠如”ではなく“保護の条件”として置くべき。

そこまで書いたところで、控えめなノックがあった。今度は執事だ。

「お嬢様、法務局の使いの者が、補足を受け取ったまま戻らず、お返事を預かっております」

「もう返ったのですか」

「はい」

執事が差し出したのは、さきほどよりさらに短い紙片だった。

了解しました。帯同人数の件、強く押します。解除条項についても追加を。可能であれば本日中に。
現案のままでは危うい、との見立ては共有されています。

リディアはその一文を二度読んだ。

共有されている。

つまり、彼女一人が騒いでいるわけではない。王家側にも危うさを感じている者はいる。ただ、それをどう言語化し、どこまで紙へ落とすかで迷っていたのだろう。

だから、自分の言葉が刺さる。
だから、こんなにも反応が早い。

机の上には王女案件。
その横には、カルヴァン伯爵家の顔合わせの席順確認。

王女の婚姻と、伯爵家令嬢の顔合わせ。規模も立場も、関わる金も家格もまるで違う。けれど、リディアにははっきりと同じものが見えていた。

どちらも、後で困る側の視点が抜けている。
どちらも、今は大丈夫そうに見える。
そして、整える者がいなければ、あとで必ず弱い側から傷む。

だからこそ、紙が要る。

リディアは新しい紙を引き寄せた。

まずは解除条項の補足。
その次にカルヴァン伯爵家への返答。

順番はもう決まっている。

筆先を紙へ落としながら、リディアはあらためて理解した。

昨夜終わったのは、一つの婚約だけではない。
黙って整えてくれる誰かがいるという前提ごと、少しずつ崩れ始めている。

そして崩れたなら、なおさら条件が要る。

守るための条件が。
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