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第3章 王女の不安に名前をつける
2、王女が恐れていること
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幼いことでしょうか。
その問いは、誰かを試す響きではなかった。
否定してほしいとも、慰めてほしいとも違う。ただ、そう呼ばれてしまうかもしれないものを、自分の口から出してよいのかを確かめる声だった。
リディアは、すぐに答えた。
「いいえ」
間を置かなかったのは、その問いに迷う余地がないと思ったからだ。
「少なくとも私は、そうは考えません」
ヘレナは何も言わず、続きを待った。
「幼い不安というのは、形が曖昧なものです。ですが殿下がお持ちのものは違う。記録を読み、削られていくものを見て、その先を想像した上で怖いと感じておられる。それは未熟さではなく、見えてしまった方の恐れです」
王女の指先が、机の上でそっと重なり直された。
「見えてしまった方、ですか」
「はい。見えなければ、ただ嫁ぐだけで済みます。けれど見えてしまえば、何を失うのかを考えずにはいられないでしょう」
ヘレナは短く息をついた。
その吐息に、大きな乱れはない。ただ、張り詰めていたものがわずかに動いた気配があった。
「……では、申し上げてもよいのですね」
「伺うために参りました」
そう返すと、王女はしばらく黙ったまま、机の上の古い記録へ目を落とした。
書庫の中は静かだった。遠くで扉が閉まる音が一度だけして、また何も聞こえなくなる。人の少ない離れの書庫は、秘密を置くにはふさわしいが、同時に、口にした言葉がどこにも逃げない場所でもある。
ヘレナはゆっくりと口を開いた。
「最初に怖いと思ったのは、帰れなくなることでした」
リディアは何も挟まず、続きを待つ。
「もちろん、婚姻は遊学ではありません。行った先で務めを果たすべきことも理解しています。けれど、帰還の条件がどこにもないのです。病に伏したときも、王家に不幸があったときも、あるいは……明らかに扱いが変わったときでさえ、どのような場合に戻れるのかが曖昧なままになっている」
王女はそこで、ひとつの頁を開いて見せた。
遠縁の王族の婚姻記録だった。文面には穏当な言葉が並んでいる。友好、信義、両国の結びつき。だが帰還に触れた箇所は驚くほど薄い。必要あらば協議する、双方の信義に委ねる、その程度だった。
紙の上では整っているのに、誰が決めるのかは書かれていない。
だから結局、力の強い側の都合でしか動かない。
「協議する、では遅いのです」
ヘレナはその一行を見たまま言った。
「戻りたいと申し出た時点で、私はもう向こうの宮廷の中にいる。随員も減り、連絡も限られたあとで、誰と、どう協議するのでしょう。私ひとりの声で、国と国の約束を動かせるとは思えません」
その言葉には、感傷より先に計算があった。
現実を知っているからこその怖さだった。
リディアは頷いた。
「帰還条件は必要です」
「やはり、そうお思いになりますか」
「必要がない理由がありません」
王女はわずかに目を伏せた。安堵というほど大きくはない。ただ、自分だけが過剰に怯えていたのではないと確かめた人の静けさがそこにあった。
「それから……書簡です」
今度の声は、少しだけ低くなる。
「最初のうちは届くのでしょう。けれど、次第に減っていく記録ばかりでした。送りづらくなったのか、向こうで選ばれたのか、あるいは途中で止まったのかまではわかりません。ただ、どの例も似たように薄くなっていくのです」
「お返事もですか」
「ええ。実家からのものも、王都からのものも」
ヘレナは記録集の別の頁を指で押さえた。
「病の報せが届くのが遅れた例がありました。兄君の子がお生まれになったことを、三か月後に知った姫君もいたそうです。表向きには距離の問題とされていましたが、それだけとは思えません」
「当然です」
リディアははっきり言った。
「距離があるからこそ、届く仕組みを先に定める必要があります。遅れても仕方がない、では済みません」
ヘレナはその言葉を、すぐには返さなかった。
王女として育つ間に、どれほど多くのことを“仕方がない”で飲み込まされてきたのだろうと、リディアはふと思う。
立場が高い者ほど、個人の不都合は公の言葉の下へ押し込められやすい。
「随員のことも、気がかりです」
王女は続けた。
「私は向こうの言葉も作法も、一通り学んではいます。ですが、すべてをひとりで把握できるとは思っていません。最初に連れて行ける人数が決まっていても、その後どう維持するのかが曖昧です。病や婚姻や異動の名目で入れ替えられれば、それまででしょう」
「殿下の周囲を、向こうの人間だけにされることを恐れておられる」
「はい」
その返答は早かった。
「侍女が減ること自体が怖いのではありません。誰に何を話してよいか、どこまでが外へ伝わるのか、自分で選べなくなることが怖いのです」
そこまで聞いて、リディアはようやく、自分の中で点がつながるのを感じた。
帰還。
書簡。
随員。
ばらばらの懸念ではない。すべて、切り離されることにつながっている。
ヘレナはさらに言葉を継いだ。
「子が生まれた後のことも、考えないようにしておりました」
その一文だけで、書庫の空気が少し変わった。
机の端に控えていたセオドアが、無言のまま姿勢を正す。彼もここが重要だとわかっているのだろう。
ヘレナは視線を落としたまま続けた。
「婚姻後、しばらくは王家の娘として遇されるのでしょう。ですが子が生まれれば、私はその家の母として扱われる。そうなったあとに帰還の話など持ち出せば、子をどうするのかという話になる。向こうは手放さないでしょうし、こちらも軽々しくは言えない」
王女はそこで一度、唇を閉じた。
それから、少しだけ声を落とした。
「その頃にはもう、何を失ったのかを数えることすら遅いのではないかと思うのです」
リディアは返事の前に、机上の紙へ視線を移した。
財の扱い、祝いの品、親書の形式、使節の順序。
そうしたものは細かく書かれているのに、当人が戻れるかどうか、誰とつながり続けられるか、子をどう扱うのかは曖昧なままになっている。
守るべきものの順番が、明らかにおかしい。
「殿下」
リディアは静かに呼んだ。
「今うかがったことは、どれももっともです。考えすぎではありませんし、先回りしすぎでもありません」
「……ですが、婚姻前からそこまで疑うのは、相手方に対して失礼だと」
「失礼ではありません」
言葉を挟むようにして、リディアは言った。
「失礼なのは、守りのないまま人を送り出すことです」
ヘレナが顔を上げた。
その目には驚きがあった。強い言葉に対する驚きではない。そこまで明け透けに言い切る者が、この話の中にほとんどいなかったのだろう。
王女はしばらく黙り、それから小さく問うた。
「皆、もっと穏やかにおっしゃいます」
「穏やかに申し上げて、薄まる種類の問題ではありませんので」
そう答えると、ヘレナの口元に、ごく淡い笑みが差した。
「本当に率直なのですね」
「婉曲にしてよい場面ではないと判断しております」
「そういうところが、昨夜のままだと思いました」
昨夜のまま。
その言い方に、リディアはわずかに目を伏せる。
婚約破棄の場で清算に入った女、という意味でもあるだろう。決して華やかな印象ではない。だが王女はそれを、醜聞としてではなく、判断の仕方として見ていた。
ヘレナは机の上で指先を組み直した。
「私が一番恐れているのは、ひとつひとつの不便ではないのかもしれません」
「と、申しますと」
「帰れなくなることも、手紙が届かないことも、そばの者が減ることも、子のことで縛られることも、どれもそれだけで苦しいでしょう。けれど本当に怖いのは、そのどれかひとつではないのです」
王女は自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと言った。
「少しずつ切られていって、気づいたときには、こちらの言葉で助けを求める場所がなくなっていることが怖いのです」
その一文は、書庫の静けさの中でひどく明瞭だった。
切り離される。
それが、この王女の恐れの核だ。
リディアは机上の余白へ、短く書きつけた。
帰還。
書簡。
帯同者。
子の身柄。
その下へ、さらに一行を足す。
孤立の防止。
紙の擦れる音だけが小さく響いた。
「……何を書いておられるのですか」
ヘレナが問う。
「殿下のおそれの形です」
「形」
「はい。ばらばらの不安ではなく、ひとつの方向を向いているとわかりましたので」
リディアは顔を上げた。
「殿下がおそれておられるのは、婚姻そのものではありません」
ヘレナは息を止めたように見えた。
「切り離されることですね」
その言葉が落ちたあと、しばらく誰も動かなかった。
王女は目の前の紙を見つめ、それから自分の手元へ視線を落とした。驚いているのか、安堵しているのか、そのどちらとも簡単には言えない顔だった。
ただ、自分の中にあった曖昧な怖さが、はじめて他人の言葉として机の上に置かれたのだとわかる。
やがてヘレナは、静かに言った。
「……そうです」
声は震えていない。
けれど、まっすぐだった。
「私は、切り離されるのが怖いのです」
その言葉で、書庫の空気はもう、最初のものではなくなっていた。
その問いは、誰かを試す響きではなかった。
否定してほしいとも、慰めてほしいとも違う。ただ、そう呼ばれてしまうかもしれないものを、自分の口から出してよいのかを確かめる声だった。
リディアは、すぐに答えた。
「いいえ」
間を置かなかったのは、その問いに迷う余地がないと思ったからだ。
「少なくとも私は、そうは考えません」
ヘレナは何も言わず、続きを待った。
「幼い不安というのは、形が曖昧なものです。ですが殿下がお持ちのものは違う。記録を読み、削られていくものを見て、その先を想像した上で怖いと感じておられる。それは未熟さではなく、見えてしまった方の恐れです」
王女の指先が、机の上でそっと重なり直された。
「見えてしまった方、ですか」
「はい。見えなければ、ただ嫁ぐだけで済みます。けれど見えてしまえば、何を失うのかを考えずにはいられないでしょう」
ヘレナは短く息をついた。
その吐息に、大きな乱れはない。ただ、張り詰めていたものがわずかに動いた気配があった。
「……では、申し上げてもよいのですね」
「伺うために参りました」
そう返すと、王女はしばらく黙ったまま、机の上の古い記録へ目を落とした。
書庫の中は静かだった。遠くで扉が閉まる音が一度だけして、また何も聞こえなくなる。人の少ない離れの書庫は、秘密を置くにはふさわしいが、同時に、口にした言葉がどこにも逃げない場所でもある。
ヘレナはゆっくりと口を開いた。
「最初に怖いと思ったのは、帰れなくなることでした」
リディアは何も挟まず、続きを待つ。
「もちろん、婚姻は遊学ではありません。行った先で務めを果たすべきことも理解しています。けれど、帰還の条件がどこにもないのです。病に伏したときも、王家に不幸があったときも、あるいは……明らかに扱いが変わったときでさえ、どのような場合に戻れるのかが曖昧なままになっている」
王女はそこで、ひとつの頁を開いて見せた。
遠縁の王族の婚姻記録だった。文面には穏当な言葉が並んでいる。友好、信義、両国の結びつき。だが帰還に触れた箇所は驚くほど薄い。必要あらば協議する、双方の信義に委ねる、その程度だった。
紙の上では整っているのに、誰が決めるのかは書かれていない。
だから結局、力の強い側の都合でしか動かない。
「協議する、では遅いのです」
ヘレナはその一行を見たまま言った。
「戻りたいと申し出た時点で、私はもう向こうの宮廷の中にいる。随員も減り、連絡も限られたあとで、誰と、どう協議するのでしょう。私ひとりの声で、国と国の約束を動かせるとは思えません」
その言葉には、感傷より先に計算があった。
現実を知っているからこその怖さだった。
リディアは頷いた。
「帰還条件は必要です」
「やはり、そうお思いになりますか」
「必要がない理由がありません」
王女はわずかに目を伏せた。安堵というほど大きくはない。ただ、自分だけが過剰に怯えていたのではないと確かめた人の静けさがそこにあった。
「それから……書簡です」
今度の声は、少しだけ低くなる。
「最初のうちは届くのでしょう。けれど、次第に減っていく記録ばかりでした。送りづらくなったのか、向こうで選ばれたのか、あるいは途中で止まったのかまではわかりません。ただ、どの例も似たように薄くなっていくのです」
「お返事もですか」
「ええ。実家からのものも、王都からのものも」
ヘレナは記録集の別の頁を指で押さえた。
「病の報せが届くのが遅れた例がありました。兄君の子がお生まれになったことを、三か月後に知った姫君もいたそうです。表向きには距離の問題とされていましたが、それだけとは思えません」
「当然です」
リディアははっきり言った。
「距離があるからこそ、届く仕組みを先に定める必要があります。遅れても仕方がない、では済みません」
ヘレナはその言葉を、すぐには返さなかった。
王女として育つ間に、どれほど多くのことを“仕方がない”で飲み込まされてきたのだろうと、リディアはふと思う。
立場が高い者ほど、個人の不都合は公の言葉の下へ押し込められやすい。
「随員のことも、気がかりです」
王女は続けた。
「私は向こうの言葉も作法も、一通り学んではいます。ですが、すべてをひとりで把握できるとは思っていません。最初に連れて行ける人数が決まっていても、その後どう維持するのかが曖昧です。病や婚姻や異動の名目で入れ替えられれば、それまででしょう」
「殿下の周囲を、向こうの人間だけにされることを恐れておられる」
「はい」
その返答は早かった。
「侍女が減ること自体が怖いのではありません。誰に何を話してよいか、どこまでが外へ伝わるのか、自分で選べなくなることが怖いのです」
そこまで聞いて、リディアはようやく、自分の中で点がつながるのを感じた。
帰還。
書簡。
随員。
ばらばらの懸念ではない。すべて、切り離されることにつながっている。
ヘレナはさらに言葉を継いだ。
「子が生まれた後のことも、考えないようにしておりました」
その一文だけで、書庫の空気が少し変わった。
机の端に控えていたセオドアが、無言のまま姿勢を正す。彼もここが重要だとわかっているのだろう。
ヘレナは視線を落としたまま続けた。
「婚姻後、しばらくは王家の娘として遇されるのでしょう。ですが子が生まれれば、私はその家の母として扱われる。そうなったあとに帰還の話など持ち出せば、子をどうするのかという話になる。向こうは手放さないでしょうし、こちらも軽々しくは言えない」
王女はそこで一度、唇を閉じた。
それから、少しだけ声を落とした。
「その頃にはもう、何を失ったのかを数えることすら遅いのではないかと思うのです」
リディアは返事の前に、机上の紙へ視線を移した。
財の扱い、祝いの品、親書の形式、使節の順序。
そうしたものは細かく書かれているのに、当人が戻れるかどうか、誰とつながり続けられるか、子をどう扱うのかは曖昧なままになっている。
守るべきものの順番が、明らかにおかしい。
「殿下」
リディアは静かに呼んだ。
「今うかがったことは、どれももっともです。考えすぎではありませんし、先回りしすぎでもありません」
「……ですが、婚姻前からそこまで疑うのは、相手方に対して失礼だと」
「失礼ではありません」
言葉を挟むようにして、リディアは言った。
「失礼なのは、守りのないまま人を送り出すことです」
ヘレナが顔を上げた。
その目には驚きがあった。強い言葉に対する驚きではない。そこまで明け透けに言い切る者が、この話の中にほとんどいなかったのだろう。
王女はしばらく黙り、それから小さく問うた。
「皆、もっと穏やかにおっしゃいます」
「穏やかに申し上げて、薄まる種類の問題ではありませんので」
そう答えると、ヘレナの口元に、ごく淡い笑みが差した。
「本当に率直なのですね」
「婉曲にしてよい場面ではないと判断しております」
「そういうところが、昨夜のままだと思いました」
昨夜のまま。
その言い方に、リディアはわずかに目を伏せる。
婚約破棄の場で清算に入った女、という意味でもあるだろう。決して華やかな印象ではない。だが王女はそれを、醜聞としてではなく、判断の仕方として見ていた。
ヘレナは机の上で指先を組み直した。
「私が一番恐れているのは、ひとつひとつの不便ではないのかもしれません」
「と、申しますと」
「帰れなくなることも、手紙が届かないことも、そばの者が減ることも、子のことで縛られることも、どれもそれだけで苦しいでしょう。けれど本当に怖いのは、そのどれかひとつではないのです」
王女は自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと言った。
「少しずつ切られていって、気づいたときには、こちらの言葉で助けを求める場所がなくなっていることが怖いのです」
その一文は、書庫の静けさの中でひどく明瞭だった。
切り離される。
それが、この王女の恐れの核だ。
リディアは机上の余白へ、短く書きつけた。
帰還。
書簡。
帯同者。
子の身柄。
その下へ、さらに一行を足す。
孤立の防止。
紙の擦れる音だけが小さく響いた。
「……何を書いておられるのですか」
ヘレナが問う。
「殿下のおそれの形です」
「形」
「はい。ばらばらの不安ではなく、ひとつの方向を向いているとわかりましたので」
リディアは顔を上げた。
「殿下がおそれておられるのは、婚姻そのものではありません」
ヘレナは息を止めたように見えた。
「切り離されることですね」
その言葉が落ちたあと、しばらく誰も動かなかった。
王女は目の前の紙を見つめ、それから自分の手元へ視線を落とした。驚いているのか、安堵しているのか、そのどちらとも簡単には言えない顔だった。
ただ、自分の中にあった曖昧な怖さが、はじめて他人の言葉として机の上に置かれたのだとわかる。
やがてヘレナは、静かに言った。
「……そうです」
声は震えていない。
けれど、まっすぐだった。
「私は、切り離されるのが怖いのです」
その言葉で、書庫の空気はもう、最初のものではなくなっていた。
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