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番外編
清々しい朝〈中〉
忍の家に来ること自体は、慣れている。
これまでも接待などに付き合うことがあれば、閉店後そのまま忍の部屋に泊まり、そのままゴルフなどに出かけることも多かったからだ。
四畳半に住んでいるマッサとは違い、忍は高級マンション住まいだ。七階建マンションの五階、南側の角部屋が忍の住まいである。
地下駐車場には車も持っているし、家に備えているのは最先端のハイテク家電。部屋を訪ねるたび、新しい物好きの忍が『見てよこれ、新しい圧力鍋買っちゃった』などと嬉しそうに見せてくることにも慣れている。
マッサが忍の休日接待に付き合うようになってから、リビングのソファは、背もたれを倒せばソファベッドとして使えるものに買い換えられた。
店でもらったアクセサリーや時計など、四畳半の部屋には恐ろしくて置けない値段のものも多いため、忍の部屋に置かせてもらっているものもある。
マッサの服やパンツなども当たり前のように置いてある忍の部屋だが、今日ばかりは緊張している。
——いやいや、何でやねん。ちょっとチューしたくらいで何動揺してんねん俺……。
現に、忍は全くいつも通りの調子である。
店では酒を飲まない忍は、いつも車通勤だ。忍の助手席に座ることにも慣れているはずが、ちょっと気怠げに、片手でハンドルを操作する忍の横顔を見て、若干そわそわしてしまうという有様である。
部屋へ帰って来たのは、午前三時少し前。大あくびをしながら部屋へ入っていく忍のあとについて玄関で靴を脱ぎ、マッサは「お邪魔します」と口にした。
「ん? 何改まっちゃってんの? シャワー浴びる?」
「シャワ……じゃなくて、その前に! あの男のこと、話してくれるんでしょ? 俺がコーヒー入れますから、忍さんはシャワー浴びて来ていいっすよ」
「そう? あ、コーヒーより紅茶の方がいいかな。じゃ、お願いするよ」
忍はまたへらっと笑い、ひとつに束ねていた髪からヘアゴムを外した。ぴょんと尻尾のようになっていた髪がほどけると、忍は軽く頭を振って髪をかき上げ、「お前も、スーツくらい脱ぎなよ」と言い残し、バスルームへと消えていく。
忍の姿が見えなくなると、マッサはキッチンのシンクに手をついて、「はぁ~~……」と長いため息をついた。何だか調子が狂ってしまうが、尋常ならざる忍の様子も気がかりだ。落ち着いて、きちんと話を聞きたい。
「いやしかし……ほんま、いつぶりやろ俺。あー……えー……ホストなってからは誰とも付き合ってへんし、その前っていうたら……」
ここ最近、まるで恋愛沙汰には関心が湧かなかったため、そういう過去の記憶も曖昧だ。高校生の頃に付き合っていたお嬢様とのあれこれのほうが、よほど鮮明に思い出せるというものである。
マッサの貧しい境遇を目にした途端離れていった、過去の彼女だ。だが、あの頃はまだ高校生。理想と現実がかけ離れていると知ったら、そりゃ一気に冷めるだろうということも理解できる。
別に祖父母の存在を隠していたわけでもないし、背伸びをしていたわけでもなかった。勝手に理想像を作り上げ、勝手に失望され……それは確かに、虚しかったし傷つきもしたけれど。
——今の俺を見たら、あの子なんて言うんやろうな……。
世間から見れば、『ホスト』という仕事は決して誇れたものではないのかもしれない。いつぞや壱成の友人が口にしていたホストへの侮蔑、ああいうイメージを持たれても仕方がない職業だ。
実際、女を平気で食い物にするホストだってたくさんいるのだから。だが、『sanctuary』は違う。だからこの店でホストをやってみようと思ったのだ。
「お待たせ。……ああ、いい香りだ」
「あっ……うす」
ティープレスの中でゆらゆらと水色へと染まってゆく液体を眺めていると、忍がくつろいだ部屋着姿で現れた。濡れた髪をタオルで拭いながら、ゆるいオーバーサイズのTシャツにハーフパンツという格好で、ぺたぺたとキッチンにやってくる。
冷蔵庫からミネラルウォーターを飲んでいるだけで、なんと絵になる男だろう。というか、忍はいつもこんな色っぽい格好をしていただろうか……? と過去を思い返そうとしていたら、忍が怪訝な表情でマッサを見上げてきた。
「どうしたんだよ。眠いの?」
「えっ!? い、いや……そんなことないですけど」
「ま、今日は忙しかったしね~……さて」
忍の部屋のキッチンはアイランド型で、シンクの向かいには広めのカウンターテーブルが備え付けてある。忍はそこに三つ並んだスツールの一つに腰を下ろすと、マッサの差し出した紅茶を見つめて微笑んだ。
ガラス製のカップアンドソーサーからはふわふわと湯気が立ち、清々しい茶葉の香りが部屋を満たす。
「改めてだけど……今日は見苦しいものを見せてしまったね。あの時、何で急にヘルプになんか入って来たんだよ」
「彩人が、あのオッサンのこと気にしてて。……あいつが最初に店に来たん、確か半年くらい前ですよね? しばらく来ーへんくなったなあと思ったら、最近また頻繁になってたでしょ。俺も気にはしてたんです」
「……そう、よく覚えてたね、お前。彩人にも心配かけちゃってたのか」
「誰なんすか、あの人」
マッサは忍の隣のスツールに移動して、ゆっくりとそこに腰掛けた。忍はカップからゆらめく湯気を見つめながら、マッサが半ば予想していた通りのことを口にした。
「刑事時代の同僚。何年か異動があってうろうろしたらしいけど、今はまた警視庁捜査二課で仕事をしてる。んで……半年前にあいつが来た時はね、ホストである僕のつてを利用して、捜査に協力して欲しいと言って来たんだ」
「捜査協力……!? でも、つてって、どんな?」
「政治がらみだったからあまり表立ってニュースにはならなかったけど、あの頃、大きな贈収賄事件があってね。僕の太客の一人に、収賄疑惑のある政治家の奥さんがいたんだ。弓削……さっきの男だけど、弓削は奥さんを通じて、金の動きを掴もうとしてた。それで、僕に探りを入れてこいと言ってね」
「な、なんすかそれ……」
何やら思っていた以上にヤバそうな内容が語られ始め、マッサは思わず身構えていた。贈収賄事件など、ニュースの中でしか聞いたことのないものだが、まさかこんなにも身近な人物の口からそんな話を聞くことになろうとは……。
「まぁまぁ、そんなビビらなくていいから。もちろん、最初は断ったよ」
「あ、そ、そうなんすね……?」
「でも、しつこくて……。『今回だけでいい、久世には迷惑をかけない』って頼まれたけど、僕が渋っていたら脅しにかかって来た。『お前が動かないのなら、店にうちの奴らを送り込んだっていいんだ。女性客はいやがるだろうがね』、なんてね。刑事なんて、ヤクザと見分けのつかないようなガラの悪い奴らばかりだ。『sanctuary』に、そんな奴らを入れたくなかった。……だから」
忍はぎゅ……と唇を結び、憎々しげに前方を睨みつけた。
「……彼女はここ最近羽振りが良くて、……いや、良すぎて目立っていたのは確かだった。新しく別荘を買った、クルーザーを買った……なんて、憚りなく口にしてたしね」
「そんなん、真っ黒やないですか」
「まぁ、ね。……でも本来なら、ホストの僕が口を出すべきところじゃない。だけど彼女、僕に相当入れ込んでたし、いつもより少し甘い接客をしてみたら……あっさり金の出所を吐いたんだ」
「マジ、っすか……」
「……あんな真似、したくなかった。けどその言葉が決め手となって、二課の連中は強制捜査に踏み切った。そこからボロボロと証拠が出て、政治家夫婦も言い逃れができなくなった。……見事、贈収賄事件として立件された、というわけ」
「へぇ……」
「あいつ、『今回だけ、迷惑かけない』なんて言っておいて、また性懲りもなく僕を使おうとして店に来た。……もううんざりなんだよ。利用されるのも、あいつの顔を見るのも」
あまりの内容に、気の抜けた返事しか出てこない。忍はじっと紅茶へと視線を落としている。
こうして険しい顔をする忍の横顔には、マッサが知り得ない様々な『刑事』としての過去が見え隠れしているように見え、目が離せなかった。
「……だけど、もうあいつの言いなりにはならないよ。警察庁時代の同期に忍海(しおみ)ってのがいてね、さっき電話で相談したら、弓削の行動を制限してくれると約束してくれた。そっちは本物のエリート警察官僚だし、今も友人として付き合いのある奴だ。任せておいて大丈夫だろう」
「……なんや、すごい世界すぎて、ついてかれへん」
ぐび、と香り高いブラックティーをがぶ飲みして、マッサは深いため息をついた。忍は無言のまま、優雅な所作でティカップを口に運んでいる。
「ん? まさかその弓削ってのが、忍さんが警察辞めたきっかけになった男、とか?」
「いーや、違うよ。例の御曹司はとっくに警察を辞めて、天下り先で悠々自適の役員生活だ」
「ほーん……なんや釈然とせぇへんなぁ」
「弓削はね、僕の不祥事が表に出た時、率先して僕を非難していたよ。『薄汚い』『いやらしい』『警察の恥』なんて、散々罵られたっけな……ははっ、笑っちゃうよ」
「いや……笑えへんけど」
「なのに、使いたい時はああして近づいてくる。そういうやつなのさ」
かちゃ……と、ティカップを静かにソーサーの上に置き、忍は頬杖をついて目線を上げた。どこか遠い目をしている忍の横顔は、これまで親しみ馴染んだ忍の表情とはまるで異なる。何だか少し、寂しさを感じてしまう。
「ま、あんな事情でクビになったんだ。軽んじられる存在さ、仕方がないか」
ぽつり、と独り言のように呟いた忍の台詞にハッとする。マッサは思わず忍の手首を掴んで、自分の方へ向き直らせていた。
「そんなことないですよ! 俺も、彩人も、忍さんからいろんなことを教わった。この世界を生き抜いてこられたのは、全部忍さんのおかげなんです。軽んじられる存在なんて、言わんといてくださいよ!」
「……え」
「俺は、忍さんのこと尊敬してる。そら……ちょいちょい理解できひんとこもいっぱいあるけど、ホストとしても、人間としても、俺は忍さんと出会えて良かったって思ってます」
「マッサ……」
「せやし……そんなん言わんといてくださいよ。昔のことなんて、もう……」
マッサは言葉を切った。忍が、マッサを抱きしめているからだ。
立ち上がった忍の胸元に鼻先を埋める格好になっている。驚きのあまり、マッサはそれ以上何も言えなかった。
「し、忍さん、あの」
「…………はぁ、もう……健気だね、お前」
「は? また健気?」
「ありがとう……嬉しい。本当にかわいいよ」
「いや、俺みたいなんつかまえて可愛いはないでしょ」
「ふふっ……」
忍の痩身からは、ボディソープのいい香りがする。柔らかなシャツごしにつたわる忍の体温に、ついさっき事故のように交わしたキスのことを思い出し、マッサは思わず、忍の身体をぐいと引き離していた。
「ち、近いねんて。話済んだなら俺、帰り……」
「ねぇ、マッサ」
肩に置かれた忍の手の重みに、マッサはちらりと目線を上げた。忍はなぜだか、少し物憂げな表情を浮かべている。怪訝に思ったマッサが首を傾げると、忍はちょっと言いにくそうに首筋を掻きながら、こう言った。
「……あの、お前さえ良ければなんだけど」
「はい、何すか」
「……だ……抱いて欲しいんだ。セックス、していかない?」
「は…………はい?」
顔面を硬直させるマッサを見るや、忍はへらっと笑って俯いた。そして、さっきよりも小さな声でこう続けた。
「さっきお前とキスしてから……なんか、収まらなくて」
「あ、キス……あ、はぁ」
「庇ってくれたり、僕のために怒ってくれるお前見てたら、なんかもう……可愛くて。嬉しくて」
「そら、だって、まぁ……忍さんやし」
申し出の内容が内容なだけに、マッサはしばらくどう返事をしていいのか分からなかった。だが、だんだん理解が追いつくにつれ、どきどきばくばくと心臓が変な動き見せ始めている。
すると忍はするりと手を持ち上げてマッサの耳たぶに触れ、黒いピアスを弄ぶ。マッサがぴくりと肩を震わせると、忍は困ったように微笑んだ。
「……お前がノンケなのは分かってる。無理そうならやめるから、頼むよ」
「ま、まぁ……いいですけど」
マッサが戸惑いがちにそう答えると、忍は安堵したように息を吐き、眉を下げて笑った。
これもまた、忍の初めての表情だ。
それが思いの外かわいくて、頬が熱くなるのをマッサは感じた。
これまでも接待などに付き合うことがあれば、閉店後そのまま忍の部屋に泊まり、そのままゴルフなどに出かけることも多かったからだ。
四畳半に住んでいるマッサとは違い、忍は高級マンション住まいだ。七階建マンションの五階、南側の角部屋が忍の住まいである。
地下駐車場には車も持っているし、家に備えているのは最先端のハイテク家電。部屋を訪ねるたび、新しい物好きの忍が『見てよこれ、新しい圧力鍋買っちゃった』などと嬉しそうに見せてくることにも慣れている。
マッサが忍の休日接待に付き合うようになってから、リビングのソファは、背もたれを倒せばソファベッドとして使えるものに買い換えられた。
店でもらったアクセサリーや時計など、四畳半の部屋には恐ろしくて置けない値段のものも多いため、忍の部屋に置かせてもらっているものもある。
マッサの服やパンツなども当たり前のように置いてある忍の部屋だが、今日ばかりは緊張している。
——いやいや、何でやねん。ちょっとチューしたくらいで何動揺してんねん俺……。
現に、忍は全くいつも通りの調子である。
店では酒を飲まない忍は、いつも車通勤だ。忍の助手席に座ることにも慣れているはずが、ちょっと気怠げに、片手でハンドルを操作する忍の横顔を見て、若干そわそわしてしまうという有様である。
部屋へ帰って来たのは、午前三時少し前。大あくびをしながら部屋へ入っていく忍のあとについて玄関で靴を脱ぎ、マッサは「お邪魔します」と口にした。
「ん? 何改まっちゃってんの? シャワー浴びる?」
「シャワ……じゃなくて、その前に! あの男のこと、話してくれるんでしょ? 俺がコーヒー入れますから、忍さんはシャワー浴びて来ていいっすよ」
「そう? あ、コーヒーより紅茶の方がいいかな。じゃ、お願いするよ」
忍はまたへらっと笑い、ひとつに束ねていた髪からヘアゴムを外した。ぴょんと尻尾のようになっていた髪がほどけると、忍は軽く頭を振って髪をかき上げ、「お前も、スーツくらい脱ぎなよ」と言い残し、バスルームへと消えていく。
忍の姿が見えなくなると、マッサはキッチンのシンクに手をついて、「はぁ~~……」と長いため息をついた。何だか調子が狂ってしまうが、尋常ならざる忍の様子も気がかりだ。落ち着いて、きちんと話を聞きたい。
「いやしかし……ほんま、いつぶりやろ俺。あー……えー……ホストなってからは誰とも付き合ってへんし、その前っていうたら……」
ここ最近、まるで恋愛沙汰には関心が湧かなかったため、そういう過去の記憶も曖昧だ。高校生の頃に付き合っていたお嬢様とのあれこれのほうが、よほど鮮明に思い出せるというものである。
マッサの貧しい境遇を目にした途端離れていった、過去の彼女だ。だが、あの頃はまだ高校生。理想と現実がかけ離れていると知ったら、そりゃ一気に冷めるだろうということも理解できる。
別に祖父母の存在を隠していたわけでもないし、背伸びをしていたわけでもなかった。勝手に理想像を作り上げ、勝手に失望され……それは確かに、虚しかったし傷つきもしたけれど。
——今の俺を見たら、あの子なんて言うんやろうな……。
世間から見れば、『ホスト』という仕事は決して誇れたものではないのかもしれない。いつぞや壱成の友人が口にしていたホストへの侮蔑、ああいうイメージを持たれても仕方がない職業だ。
実際、女を平気で食い物にするホストだってたくさんいるのだから。だが、『sanctuary』は違う。だからこの店でホストをやってみようと思ったのだ。
「お待たせ。……ああ、いい香りだ」
「あっ……うす」
ティープレスの中でゆらゆらと水色へと染まってゆく液体を眺めていると、忍がくつろいだ部屋着姿で現れた。濡れた髪をタオルで拭いながら、ゆるいオーバーサイズのTシャツにハーフパンツという格好で、ぺたぺたとキッチンにやってくる。
冷蔵庫からミネラルウォーターを飲んでいるだけで、なんと絵になる男だろう。というか、忍はいつもこんな色っぽい格好をしていただろうか……? と過去を思い返そうとしていたら、忍が怪訝な表情でマッサを見上げてきた。
「どうしたんだよ。眠いの?」
「えっ!? い、いや……そんなことないですけど」
「ま、今日は忙しかったしね~……さて」
忍の部屋のキッチンはアイランド型で、シンクの向かいには広めのカウンターテーブルが備え付けてある。忍はそこに三つ並んだスツールの一つに腰を下ろすと、マッサの差し出した紅茶を見つめて微笑んだ。
ガラス製のカップアンドソーサーからはふわふわと湯気が立ち、清々しい茶葉の香りが部屋を満たす。
「改めてだけど……今日は見苦しいものを見せてしまったね。あの時、何で急にヘルプになんか入って来たんだよ」
「彩人が、あのオッサンのこと気にしてて。……あいつが最初に店に来たん、確か半年くらい前ですよね? しばらく来ーへんくなったなあと思ったら、最近また頻繁になってたでしょ。俺も気にはしてたんです」
「……そう、よく覚えてたね、お前。彩人にも心配かけちゃってたのか」
「誰なんすか、あの人」
マッサは忍の隣のスツールに移動して、ゆっくりとそこに腰掛けた。忍はカップからゆらめく湯気を見つめながら、マッサが半ば予想していた通りのことを口にした。
「刑事時代の同僚。何年か異動があってうろうろしたらしいけど、今はまた警視庁捜査二課で仕事をしてる。んで……半年前にあいつが来た時はね、ホストである僕のつてを利用して、捜査に協力して欲しいと言って来たんだ」
「捜査協力……!? でも、つてって、どんな?」
「政治がらみだったからあまり表立ってニュースにはならなかったけど、あの頃、大きな贈収賄事件があってね。僕の太客の一人に、収賄疑惑のある政治家の奥さんがいたんだ。弓削……さっきの男だけど、弓削は奥さんを通じて、金の動きを掴もうとしてた。それで、僕に探りを入れてこいと言ってね」
「な、なんすかそれ……」
何やら思っていた以上にヤバそうな内容が語られ始め、マッサは思わず身構えていた。贈収賄事件など、ニュースの中でしか聞いたことのないものだが、まさかこんなにも身近な人物の口からそんな話を聞くことになろうとは……。
「まぁまぁ、そんなビビらなくていいから。もちろん、最初は断ったよ」
「あ、そ、そうなんすね……?」
「でも、しつこくて……。『今回だけでいい、久世には迷惑をかけない』って頼まれたけど、僕が渋っていたら脅しにかかって来た。『お前が動かないのなら、店にうちの奴らを送り込んだっていいんだ。女性客はいやがるだろうがね』、なんてね。刑事なんて、ヤクザと見分けのつかないようなガラの悪い奴らばかりだ。『sanctuary』に、そんな奴らを入れたくなかった。……だから」
忍はぎゅ……と唇を結び、憎々しげに前方を睨みつけた。
「……彼女はここ最近羽振りが良くて、……いや、良すぎて目立っていたのは確かだった。新しく別荘を買った、クルーザーを買った……なんて、憚りなく口にしてたしね」
「そんなん、真っ黒やないですか」
「まぁ、ね。……でも本来なら、ホストの僕が口を出すべきところじゃない。だけど彼女、僕に相当入れ込んでたし、いつもより少し甘い接客をしてみたら……あっさり金の出所を吐いたんだ」
「マジ、っすか……」
「……あんな真似、したくなかった。けどその言葉が決め手となって、二課の連中は強制捜査に踏み切った。そこからボロボロと証拠が出て、政治家夫婦も言い逃れができなくなった。……見事、贈収賄事件として立件された、というわけ」
「へぇ……」
「あいつ、『今回だけ、迷惑かけない』なんて言っておいて、また性懲りもなく僕を使おうとして店に来た。……もううんざりなんだよ。利用されるのも、あいつの顔を見るのも」
あまりの内容に、気の抜けた返事しか出てこない。忍はじっと紅茶へと視線を落としている。
こうして険しい顔をする忍の横顔には、マッサが知り得ない様々な『刑事』としての過去が見え隠れしているように見え、目が離せなかった。
「……だけど、もうあいつの言いなりにはならないよ。警察庁時代の同期に忍海(しおみ)ってのがいてね、さっき電話で相談したら、弓削の行動を制限してくれると約束してくれた。そっちは本物のエリート警察官僚だし、今も友人として付き合いのある奴だ。任せておいて大丈夫だろう」
「……なんや、すごい世界すぎて、ついてかれへん」
ぐび、と香り高いブラックティーをがぶ飲みして、マッサは深いため息をついた。忍は無言のまま、優雅な所作でティカップを口に運んでいる。
「ん? まさかその弓削ってのが、忍さんが警察辞めたきっかけになった男、とか?」
「いーや、違うよ。例の御曹司はとっくに警察を辞めて、天下り先で悠々自適の役員生活だ」
「ほーん……なんや釈然とせぇへんなぁ」
「弓削はね、僕の不祥事が表に出た時、率先して僕を非難していたよ。『薄汚い』『いやらしい』『警察の恥』なんて、散々罵られたっけな……ははっ、笑っちゃうよ」
「いや……笑えへんけど」
「なのに、使いたい時はああして近づいてくる。そういうやつなのさ」
かちゃ……と、ティカップを静かにソーサーの上に置き、忍は頬杖をついて目線を上げた。どこか遠い目をしている忍の横顔は、これまで親しみ馴染んだ忍の表情とはまるで異なる。何だか少し、寂しさを感じてしまう。
「ま、あんな事情でクビになったんだ。軽んじられる存在さ、仕方がないか」
ぽつり、と独り言のように呟いた忍の台詞にハッとする。マッサは思わず忍の手首を掴んで、自分の方へ向き直らせていた。
「そんなことないですよ! 俺も、彩人も、忍さんからいろんなことを教わった。この世界を生き抜いてこられたのは、全部忍さんのおかげなんです。軽んじられる存在なんて、言わんといてくださいよ!」
「……え」
「俺は、忍さんのこと尊敬してる。そら……ちょいちょい理解できひんとこもいっぱいあるけど、ホストとしても、人間としても、俺は忍さんと出会えて良かったって思ってます」
「マッサ……」
「せやし……そんなん言わんといてくださいよ。昔のことなんて、もう……」
マッサは言葉を切った。忍が、マッサを抱きしめているからだ。
立ち上がった忍の胸元に鼻先を埋める格好になっている。驚きのあまり、マッサはそれ以上何も言えなかった。
「し、忍さん、あの」
「…………はぁ、もう……健気だね、お前」
「は? また健気?」
「ありがとう……嬉しい。本当にかわいいよ」
「いや、俺みたいなんつかまえて可愛いはないでしょ」
「ふふっ……」
忍の痩身からは、ボディソープのいい香りがする。柔らかなシャツごしにつたわる忍の体温に、ついさっき事故のように交わしたキスのことを思い出し、マッサは思わず、忍の身体をぐいと引き離していた。
「ち、近いねんて。話済んだなら俺、帰り……」
「ねぇ、マッサ」
肩に置かれた忍の手の重みに、マッサはちらりと目線を上げた。忍はなぜだか、少し物憂げな表情を浮かべている。怪訝に思ったマッサが首を傾げると、忍はちょっと言いにくそうに首筋を掻きながら、こう言った。
「……あの、お前さえ良ければなんだけど」
「はい、何すか」
「……だ……抱いて欲しいんだ。セックス、していかない?」
「は…………はい?」
顔面を硬直させるマッサを見るや、忍はへらっと笑って俯いた。そして、さっきよりも小さな声でこう続けた。
「さっきお前とキスしてから……なんか、収まらなくて」
「あ、キス……あ、はぁ」
「庇ってくれたり、僕のために怒ってくれるお前見てたら、なんかもう……可愛くて。嬉しくて」
「そら、だって、まぁ……忍さんやし」
申し出の内容が内容なだけに、マッサはしばらくどう返事をしていいのか分からなかった。だが、だんだん理解が追いつくにつれ、どきどきばくばくと心臓が変な動き見せ始めている。
すると忍はするりと手を持ち上げてマッサの耳たぶに触れ、黒いピアスを弄ぶ。マッサがぴくりと肩を震わせると、忍は困ったように微笑んだ。
「……お前がノンケなのは分かってる。無理そうならやめるから、頼むよ」
「ま、まぁ……いいですけど」
マッサが戸惑いがちにそう答えると、忍は安堵したように息を吐き、眉を下げて笑った。
これもまた、忍の初めての表情だ。
それが思いの外かわいくて、頬が熱くなるのをマッサは感じた。
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