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1巻
1-1
プロローグ 恐るべき疑惑
「……はぁ、今日もダメだった……」
握りしめていた薄ピンク色のメンバーズカードに目を落とし、俺は長い長いため息をついた。
なけなしの勇気を振り絞って初めて訪れた風俗店『ふわとろピーチ』。プロがいる店に来れば、長年にわたって俺を苦しめ続けているとある悩みが解消されるのではないかと希望を抱いていたのだが……
――今日こそ、イケると思ったのに……
俺の名前は霜山壱成。二十五歳。
東証一部上場の教育関連企業に勤めて三年。真面目な勤務態度と爽やかな笑顔に定評のある、営業担当サラリーマンだ。
十連勤の激務を経て、ようやく辿り着いた休日である今日、むらっと沸き上がった性欲に身を任せて選んだAVは俺好みで、文句なしにエロかった。自分の右手でならばなんとか勃起する不甲斐ない分身も、いつになく元気だったんだ。
この気分をもってすれば、女性にイカせてもらうことができるかもしれない。今日という今日は、自分がED(erectile dysfunction、つまり勃起不全だ)かもしれないという恐るべき疑いを晴らせるかもしれない……そう信じて、ドキドキしながら風俗店の扉をくぐった。
だが、結果は惨敗。色っぽい風俗嬢にいくら扱いてもらっても、俺の分身はぴくりとも動かなかった。
気を遣ったらしい嬢は『疲れてるんですね~。お仕事何されてるんですかぁ?』と雑談を繰り広げはじめ、ぴったりとくっつきながら取り止めのない会話をしてくれた。会話の最中もしこしこと手で擦ってもらったけれど、やはり俺のナニはぴくりとも反応しない。
そしてあえなくタイムアップ。嬢は引きつった笑みを浮かべながら軽く手を振って、『忙しくても、ゆっくり寝たほうがいいですよぉ。またチャレンジしに来てね♡』と言い残し、俺の前から去っていった――
いつだってこうだ。リアルな女性を前にすると緊張して、俺の息子はまるで役に立ってくれない。股座にただぶらさがっているだけのそれを見下ろしながら、俺は涙を堪えて唇を引き結ぶ。
ナニが勃たないということはつまり、彼女ができてもセックスができない。つまりそれ以上進展せず、結婚ができない、そして子どもを作ることもできない……『いつか自分の家族を持つ』ことに強い憧れを持ちながら成長した俺にとって、この現状は耐えがたいほどの苦しみだった。
だが幸い現代医療は優秀で、性交渉ができなくとも、子どもを作ることはおおむね可能だ。だが、まずはそういう俺を受け入れてくれる相手を見つけねばならないのだが……ここも、かなりハードルが高い。
贅沢を言うようだが、俺とて女性ならば誰でもいいというわけではない。共に家庭を作る相手なのだ。互いに人間として好ましく思え、尊敬できる部分を持ち合える相手でなくては、『家族』を維持していくことは難しいだろう。
「……はぁ」
認めたくはないけれど、認めざるを得ない。疑いようもなく、俺はインポテンツだ。
自慰でしか勃ち上がることのできない、軟弱でかわいそうなペニス。男としての機能を果たせない自分を、何度役立たずと責めてきたことか――
出会いやきっかけがないわけではない。自分で言うのもなんだが、俺は女性に好意を寄せられやすい容姿をしている。
表情豊かな二重まぶたの瞳と、整った目鼻立ち。清潔感を意識して短く整えている黒髪や、日に焼けにくい白い肌とあいまって、学生時代は『美少年』と評判だった。
屈託なく元気いっぱいに過ごしていた少年の頃から、容姿を褒められることは多かった。調子づいた母親が、某アイドル事務所に履歴書を送ろうとしたこともあったらしい。それを父親に阻止されなければ、俺にはアイドルの道を歩むという未来もあったかもしれない。
成人した今、身長は一七三センチ。そこまで長身にはなれなかったけれど、小中高と水泳で鍛えたおかげで、すらりと引き締まった細マッチョに仕上がった。
幼い頃から『かわいい、かっこいい』と持て囃されながら成長した上、身体能力も脳みそのほうもそこそこ優秀だったこともあり、俺に女子にモテなかった時代はなかった。
そのため、モテ度に比例してプライドのほうも右肩上がりに成長した。――多分、それが良くなかったのだろう。
中学三年生の夏、まず第一の挫折が訪れる。
夏休み前に付き合いはじめた彼女は学校一可愛いと評判で、俺にとってこれほど自分に似合いの女子はいないと思える相手だった。
しかも彼女は処女だが積極的で、スキンシップもすごく大胆。親の留守を利用してイチャイチャを楽しみ、そのまま良いムードに突入。これで脱童貞だ……‼ と意気込んだ、大一番のその瞬間――俺のペニスは、しおしおと萎えた。
焦った。大いに焦った。いざ挿入というシーンで、突然の失速。こんなにも情けないことがあっていいわけがない。この俺、モテ男の霜山壱成に、そんな失態があってはならない……‼
さらにそう思い詰めたのが良くなかった。いくら自分で扱いてみても、萎えたナニは復活せず、俺の背中には嫌な汗が伝うばかり。彼女の表情は気まずげで、重々しい空気が俺たちの間に漂っていた……
その時彼女は『大丈夫だよ~緊張してるんだよね、気にしないで』と引きつった笑みを浮かべつつフォローしてくれたけれど……結局、次の日フラれた。その後『霜山はインポ』という噂が女子の間でまことしやかに流れたことを、俺はよく知っている。
傷ついた俺は、少し遠くの高校を受験した。あの失態を知っている人間がいない場所に行きたかった。くしくもそこは、県内一の難関校。俺はがむしゃらに努力して、見事新天地を開拓した。
……が、歴史は繰り返すものだ。
再び彼女はすぐにできたけれど、いざという瞬間に俺のナニは萎えてしまう。
プライドの高さと、失敗を恐れるが故の緊張感が良くないのだと独学で学んで気づいてはいたが、知識を得てもどうにもならない。セックスは相手があっての行為なのだ。
勃たない俺を丸ごと受け入れてくれる相手――真実を告白しても、共に乗り越えようとしてくれる相手と出会えたなら良かっただろう。だが、『カッコいい霜山くん』に惚れた女子の前で『俺、インポなんだよね』だなんてことは、口が裂けても言えなかった。
……恥ずかしい、恥ずかしいにも程がある。
そして俺は失敗を繰り返し――女子の間で、またしても『霜山はインポ』という噂が密かに流れた。それは当然男子生徒の耳にも届く。俺のプライドは打ち砕かれた……
大学生になり、またしても新天地に辿り着くことができたけれど、その頃には、俺は恋愛を自ら禁じていた。
これ以上黒歴史を積み重ねて何になる。恋人を作らないでいれば、俺はずっと『カッコいい霜山くん』でいられるのだ。そう、恋人を作らなければいい。そう決意した俺に、現代社会は優しかった。
今は『恋愛しない男女』がとても生きやすい社会になっている。独り身でいたとしても、誰も俺を哀れみはしないのだ。
だが、俺自身は恋愛を求めている。というよりもその先の未来に、『自分の家族』を作ることを切望している。
ごくごく平穏で当たり前の家族を作りたい。俺を育んだ家庭のような、幸せで普通の家庭を――
と、言いたいところだが現実は残酷なもので、俺が中学一年生の頃、『幸せな家庭』は脆くも崩壊している。父親が会社の部下と浮気をしていたからだ。
父に裏切られた母親の怒りは凄まじかった。感情を隠してニコニコしながら父親の行動の裏を取り、ここぞというタイミングで離婚を突きつける――優しく美しい母が見せた般若のような顔を、俺は一生忘れることはできないだろう。
幼い頃経験した家族での楽しい思い出全てが、虚構だとは思いたくない。
だからこそ、俺はこの手で穏やかな家庭を築きたい。優しい妻に可愛い子ども。女の子より、男の子が欲しい。一緒にスポーツをしたり、酒を酌み交わしたりしてみたい。
完璧で幸せな家庭を、この手で作り上げてみせる――
と、心に決めていたのに、このザマである。
「……そろそろヤバイな。まじで病院行くべきだよな……」
頭ではそうわかっていても、俺にとっては高い高いハードルだ。相手が変われば、状況が変われば、この柔らかなペニスにも力が宿るのではないだろうか……と、なけなしの希望に縋ってきた。だけど、結果はいつも同じだ。
「結婚したいしな……。はぁ……病院、探さないとだよな。……うん」
メンバーズカードを目についたゴミ箱にぽんと投げ入れ、俺は小さくそう呟く。
繁華街のネオンが、滲んで見えた気がした。
第一章 十年ぶりの再会
俺は通信教育を提供する企業、『エデュカシオ』に勤務している。
高校、大学と、黒歴史を忘れるために学業や就活を頑張った結果、世間的にも知名度の高いホワイト企業に入社することができた。
俺の担当は、大学受験向け教材の作成だ。だが、ここは内勤ばかりしていられるような部署ではなく、教材の監修に関わるお偉い先生方とスムーズに仕事をするべく、接待や営業にも回らねばならない。
そして今も尻を撫で回されながら、俺はひとりの酔っ払い男をタクシー乗り場へと導いているところだ。俺はさほど酒に強いほうではないため、普段は酒二、チェイサー八くらいの割合で接待を乗り切っているのだが、今日は東峰大学の西内伴次郎教授にしこたま飲まされてしまった。
この宴において、俺は権力を持つ者をもてなす側の人間だ。しかも今日は、西内の古希を祝うための宴会だった。主役に煽られるままに酒を飲み、店員への注文をこなし、褒めちぎって愛想笑いをする――その場のノリに流されて、あっという間に数時間が経っていた。
「さ、タクシー来ましたよ。西内先生、しっかりしてください」
「いや~飲んだ飲んだぁ~。霜山くんねぇ、わしはもう歩けんのだが……どうだい、このまま」
「あはは、何おっしゃってるんですか! さっき奥様からお電話あったばかりでしょ~?」
「まぁそう硬いことを言わないで。……ほら、次からもいろいろ、取り計らってあげるから。ね?」
「う」
むぎゅ、とスラックス越しにきつく尻を揉まれた。この程度のセクハラには慣れているとはいえ、やはり不快なものは不快である。
おぞぞぞと背筋を粟立たせながら、内なる俺はスケベ親父の胸ぐらを掴んで往復ビンタをかましている。だが、現実の俺は理性的だ。にっこりと愛想笑いを浮かべ、さりげなく西内の手首を掴んで尻から外すと、呼んであったタクシーにそのまま押し込んだ。
西内も、酔っ払っていなければそこそこ尊敬に値する人物だと言えなくもない。だが酒が入ると、とにかく面倒なセクハラ親父と化してしまう。そのため、立場を忘れて妙なおいたを働かないよう、俺のような若手がお守りをせねばならない。女性社員は一次会でとっくに逃げた。
最初の懐石料理の間はきっちりと着こなしていた和服だが、今やそれは見る影もない。裾をだらしなく乱してステテコを露わにし、真っ赤な顔をしながら「霜山くん、ほらあ君も乗りなさい! このわしの言うことが聞けないのかッ!」と怪しい呂律でシートを叩く西内の言葉を華麗に聞き流し、タクシーの運転手に行き先を告げた。
そして慇懃に頭を下げると、「この度はおめでとうございました。お気をつけてお帰りください」と告げ、夜の街を駆け抜けるタクシーを見送ったのである。
「……クソ酔っ払いめ」
これまで顔面に貼り付けていた好青年的な笑顔を一旦外すと、社内でも評判の爽やかイケメンフェイスが虚無になる。
俺の容姿は、社の内外でも評判らしい。入社して三年目の今はだいぶ落ち着いてきたけれど、入社したての頃は、日々女性社員たちから視線を集めていた。どちらかというと童顔な俺は、年上の女性社員たちに特に人気が高いらしく、熱烈なお誘いを受けることも稀ではなかった。
ため息をつきつつ、ネクタイをぐいと緩める。スーツからは酒の匂いや香水のきつい香りが漂って、それだけで気分が悪くなる。
「……うえ……気持ち悪い」
緊張から解放された途端、肉体は素直にアルコールへの拒絶反応を示しはじめた。ひと気もまばらになりはじめた夜の大通り、電柱にもたれかかってしゃがみこむ。
ごつごつとしたアスファルトの冷たさが足元から這い上がる。トレンチコートだけでは肌寒いほどの夜だ。このままここで休んでいては、確実に風邪をひいてしまう。
――俺もタクシー、拾わないと。金かかるけど……もう歩けない……
立ち上がってタクシーを捕まえようにも、身体が重くて動かない。微かな目眩を感じつつも脚に力を入れようと頑張るが、一度重力に負けてしまった身体は言うことを聞いてくれなかった。このままここで夜明かしする羽目になるのだろうかと絶望的な気分になりながら蹲っていると、不意にぽんと肩を叩かれ、仰天する。
「お兄さん、大丈夫?」
すわ職質かと思い慌てて後ろを振り返るも、俺を見下ろしているのは愛想笑いを浮かべた警察官ではなく、スーツ姿の背の高い男だった。
夜の街に映える栗色の髪も華やかな美形だ。鼻筋の通った端整な目鼻立ちで、斜めに流した前髪の下に、切れ長の双眸がきらめいている。
身に纏うのは、俺のような一般人が着る地味なスーツではなく、見るからに高級なスーツ。時計やピアスも、夜のネオンに似合いのきらびやかさだ。おそらくホストか何かだろう。
潰れかけた酔っ払いに優しく声をかけるとは、なんと紳士的なことだろう。……いや、そう見せかけておいて、こっそり金品を強奪するつもりかもしれない……などと邪推しつつ、俺は無事をアピールすべく手を上げた。
「だ……大丈夫です、大丈夫……」
「顔色悪いっすよ? 立てる?」
「いやほんとに、大丈夫なんで……」
いかん、あまり呂律が回っていない。身動ぎするたびにぐるぐると視界が回る。俺はこみ上げる吐き気をぐっと堪えた。
だが、差し出された男の手首から香った涼やかな香りに刺激されてか、少しばかり気持ちがしゃんとする。白く長い指は、爪の先まで形が良い。ボリューム感のある指輪も、手首に巻きつく時計の高級感も、全てが嫌味なく様になっている。
「ほら、ここ掴まって」
「あ、はぁ……すみません、わっ」
「危ないっすよ、こんなところで休んでちゃ。スリとか痴漢とかいろいろ出るんだから」
「はぁ……」
間の抜けた返事をしているうちに、男は俺の手を掴み、力強く引き起こす。
俺は勢いに負けて、男の胸にもたれかかってしまった。
セクハラ親父の相手をしていた時はあんなにおぞましく感じた男の身体だというのに、肩を支えられながら優しく語りかけられると、心地良さに眠ってしまいそうだ。
顔の良い男は声まで良いのか、さぞかしアッチのほうもご立派なのだろうな――などと卑屈な感情に支配されつつも、頬に触れるスーツは滑らかな質感で、いい匂いがして……なるほど、こうして女たちはホストに堕ちてゆくのかと俺は悟った。
「ここよりも向こうのほうがタクシー拾いやすいんすよ。捕まえましょうか?」
「えっ……? い、いえ……ほんと大丈夫ですんで」
「でもほら、具合悪そうだし……って、あれ?」
どういうことだろう。突然顎を掬われて、顔面の方向転換をさせられる。ほんの十センチほどの距離でしげしげと顔を見つめられ、俺は呆気に取られた。
「あれっ、ひょっとして……壱成? 霜山壱成?」
「……へ?」
いかにも自分は霜山壱成だ。が、どうしてこの男は自分の名前を言い当てたのだろう?
訝しさ満点で目を丸くしていると、男はクールに整った顔をパッと輝かせ、俺の肩を両手で掴んできた。
「俺だよ俺! ほら、中三の時一緒のクラスでさ! 文化祭ですんげ盛り上がったじゃん⁉ 早瀬彩人だよ!」
「早瀬、彩人……?」
「えー、うっそ覚えてねーの? ほら、ジャンケンで負けてさぁ、一緒に実行委員やったろ!」
「中三……って、あっ」
俺の記憶に、遠い過去の記憶が鮮やかに蘇る。
忙しくも変化の乏しい毎日を過ごすうち、若かりし頃の思い出などすっかり記憶の底に沈んでいた。
惨めな自分をひた隠しにしつつも、青春を謳歌している振りをしながら学校生活を送っていたが、中三の秋に行われた文化祭だけは特別だった。
とても楽しかったのだ。普段接点のない生徒たちとひとつの目的に向かい、青春を分かち合うことのできた楽しい思い出――
「……思い出した。彩人だ、うわ、すげえ、十年ぶり?」
「やっと思い出したのかよー! ははっ、十年ぶりとかやべーな、すげー偶然じゃん! 何やってんのこんなとこで?」
「うん、接待……。ちょっと飲みすぎて、気持ち悪くて」
ホストの顔をしていたのに、急に男子高校生のようにはしゃいだ表情になる彩人だ。人懐っこい笑みを浮かべる彩人の表情が懐かしく、俺もようやくへらっと口元を緩めた。
だがその時。彩人の背後に、派手な若者集団がわらわらと近づいて来たではないか。綻びかけていた俺の表情、再び引きつる。
「アヤトさん、どうしたんですか?」
「はやく肉食いに行きましょーよ」
「誰っすか、そのリーマン」
誰も彼もがビシッとしたスーツに身を包み、身体のあちこちにまばゆいものを身につけている。派手だ。
そんな彼らは彩人がかまっている相手、つまりは俺を見て、一斉に刺々しい顔をした。
「おいあんた、アヤトさんに何か用?」
「……はっ? いや、俺は」
「客の旦那かなんかっすか? アヤトさんにいちゃもんつけてやがんだったら、俺ら……」
「違う違う」
彩人は若いホスト集団の視線から俺を庇うように前に立つと、先頭にいた若い男の額を軽くデコピンした。
「いって!」と呻く若者は見事なウルフカットで、どこのビジュアル系バンドのヴォーカルかと見紛うほどに攻めた外見である。
「お前らなぁ、いちいちそんな突っかかり方してたらダメよ? ホストとして働いてる以上、お前らは店の看板背負ってる大事なキャストなんだ。チンピラじゃあるまいし、いちいち絡んだりするんじゃねーの」
「……サーセン。つい」
――なるほど、本当にホストだったのか……
納得しつつ、若人をたしなめる彩人の背中をそっと見上げる。やり取りから察するに、彩人は店の中でもそこそこに立場のあるホストなのだろう。
彩人は俺のことを「彼は昔の友人で、久々の再会なんだ」と説明した。すると若ホストたちは俺にまで頭を下げ、素直にぞろぞろと深夜の街へと消えていく。
安堵した瞬間かくんと膝から力が抜け、思わずもう一度へたり込みそうになってしまった。
だが、素早く彩人に抱き留められ、アスファルトに頭突きすることは免れた。
「あ、ごめ……」
「おいおい……フラフラじゃん。大丈夫かよ」
「ん……なんとか、なんとかなる……」
「なんともなんねーだろこりゃ。お前んちどこ?」
俺の住むアパートは、ここからタクシーで三十分ほどかかる場所だ。電車に乗れば十分程度で着く距離だが、とっくの昔に終電は終わっている……と説明しようとしたが、頭痛と眠気でうまく口が回ってくれない。
まぶたは重く、頭はズキズキと痛んで、重力に逆らっていることさえ難しく――
彩人が何度も名前を呼ぶ声を遥か遠くに聞きながら、俺は意識を失った。
「う、うう……う」
重い。身体が重い。しかも頭はズキズキと痛み口はカラカラに乾いていて、最悪だ。紛れもない二日酔いだ、最悪の気分すぎる……
べったりと眼球にへばりついているまぶたを、ゆっくりと開く。
するとどういうことだろう。視界の中に、見知らぬ子どもの姿が見えるような気が……
「え……誰……?」
「だれって、そっちこそだれ? にーちゃんのともだち?」
「……にーちゃん?」
好奇心の強そうな、くりくりした目の男の子が、俺の胸の上に乗っている。息がしにくいのはこのせいか。
茶色みがかった大きな目や、子どもながらに整った目鼻立ちには見覚えがある。どこで見たんだっけ……と目を細めていると、男の子は俺の胸の上に乗っかったまま、突然大声を出した。
「にーちゃぁぁん‼ おきた‼ おきたよ‼」
「ううっぅ……やめて、でっかいこえやめて……」
「にーちゃん‼ ねえきいてる‼ しんでなかった‼」
「……うう、しんでない……」
元気いっぱいに兄を呼ぶ声が、ガンガン頭に響いて気絶しそうだ。のろのろと重たい腕を持ち上げて耳を塞ごうとしたその時、開けっ放しのドアからひょいと彩人の顔が覗く。
「あ、起きた? おはよ」
「……おはよ……あの、ここは」
「俺んち。壱成さあ、昨日あのままぶっ倒れたんだよ」
「あ……そうだっけ。すまん……」
「いーって。顔洗えるか? おい空、いつまで乗っかってんだよ、降りろっての」
「えー」
そら、と呼ばれたちびっこは、ようやく腹の上から降りた。だが、なおも食い入るように俺の顔を見つめている。
彩人によく似た大きな目で、じーーっと俺を観察する眼差しに、へらっと笑って応えた。
「……え、ええと……そらくんていうんだ」
「うん。おまえのおなまえは?」
「お前……。ええと、霜山壱成と申します……」
「しもや……いっせー?」
「そう、壱成」
「ふーん。にぃちゃんのともだち?」
「友達……なのかな。うーん、同級生……っていうか」
「? ふーん」
ようやく起き上がって部屋を見渡す。開け放たれたカーテンから差し込む春の陽が、淡色のフローリングに光を映している。俺が暮らしているワンルームマンションと同じくらいの広さだが、いま座っているやたら大きいベッドと姿見くらいしかないため、すっきりと広く見えた。作り付けのクローゼットには、古い映画のポスターが貼られている。……ここは誰の部屋だろう。
「ここは……そらくんの部屋?」
「ううん、にぃちゃんのへや。さっききれいにしてたよ」
「あ……そう。うーんと……あ、そらくんの部屋はどこ?」
「おれの? こっち‼」
話題に窮してそんなことを尋ねると、小さな手が突然俺の指をガシッと掴み、思いのほか強い力でベッドから引っ張り出された。「ちょ、まっ、あぶな、あぶない!」とオタオタしながら空くんに手を引かれ、ひんやりしたフローリングの廊下を駆け抜ける。生活感のある一軒家だ。階段、洗面所、そしてドアを抜けたらリビングがある。
キッチンに立っていた彩人が、フライパン片手に「おい空! 手ぇ洗ってこいって言ってんだろ!」と声をかけてくる。だが空くんはリビングとひと繋がりになった和室に一直線に飛び込んだ。
「ここがねぇ、そらのへや!」
「へ、へぇ……広いね」
「よんさいになったたんじょーびに、おれのへやにしたんだ! いいでしょー!」
「う、うん……いいね」
畳の上にはごちゃごちゃとおもちゃが散乱し、折り畳まれた布団が部屋の隅に寄せてある。鼻の穴を膨らませ、誇らしげに部屋を紹介する空くんの頭上に、『ドヤァ』という文字が見えそうだ。
「ほら、飯食うぞ。そら、こっちこいって」
「えーやだ。いっせーとあそぶの」
「壱成も腹減ってるかもしんねーだろ。それにほら、今日はお前の大好きなホットケーキだぞ」
「えっ⁉」
そう言って彩人が皿の上に乗った二段重ねのホットケーキを見せると、空くんはあっさりとダイニングに駆けていく。慣れたもんだな……と思いつつ、黒いTシャツにジーパン姿の彩人を、俺は物珍しく眺めまわした。
――中学の頃は、なんかすっごいチャラチャラしたやつだと思ってたけど……
ホストをやっていると聞いた昨晩は、イメージ通りだなと思った。だからこうして朝からキッチンに立ち、器用にホットケーキを焼いて子どもをあしらう姿は、何だかものすごく意外だった。
「へへっ、そんなに見んなよ。照れんじゃん」
「え? あ、ごめん……。ここ、ご実家だよな? ご家族は……? え、この子、彩人の子? いやでも、兄ちゃんて言ってたし……」
「ははっ、落ち着けよ。とりあえずコーヒーでも飲めって」
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