スパダリホストと溺愛子育て始めます 愛されリーマンの明るい家族計画

餡玉(あんたま)

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コミカライズ配信開始記念SS

『たとえ夢見の悪い朝だとしても』〈忍目線〉


 靴の裏に感じるのは、毛足の長い絨毯の柔らかさ。この部屋の絨毯の重いワインレッドは、まるでたっぷりと血を含んだかのような不穏な色だと、忍は幼い頃から思っていた。
 窓辺に立ち、こちらに背を向けている男の影。聳えるように大きな背中だ。外は天気がいいのだろう。陽の光がまばゆければまばゆいほど、こちらに差し込む影の暗さが異様に際立つ。

 やがて、男はゆっくりとこちらを振り返る。だが、やはり表情は影になってよく見えない。だが、それでよかったのかもしれない。

『お前には失望した。もう二度と顔を見せるな』

 冷ややかな目線とともに投げつけられた言葉を真っ向から受け止めることなど、恐ろしくてできるはずもなかったのだから。


    +


「はっ……!!」

 酸素を求めて、喘ぐように目を覚ました。
 忍は思わずがばりと起き上がり、ばくばくと暴れるように激しく鼓動する胸をぎゅっと押さえた。
 
 嫌な汗をかいていて、べっとりと張り付いたシャツが気持ち悪い。肩で息をしながら膝を抱えて、忍は顔にふりかかる前髪をぐしゃりとかき上げた。

 ——……父親の夢なんて、いつぶりに見ただろう……

 汗をかいているのに、手足が凍りつくように冷たい。いいようのない感情が腹の奥から込み上げて不快だ。忍はぎゅっと拳を固く握りしめた。

「ん……」

 だがふと、隣で眠る存在が、忍を現実に引き戻す。
 背を向ける格好で深く眠りについていた若い恋人が、ごろりとこちらに寝返りを打ったのだ。

「ふ……」

 忍の気も知らず、健やかな寝息を立てているマッサの黒髪に触れると、唇から笑みがこぼれた。
 男らしく華のある凛々しい眉は、寝ているときは眉間から力が抜けて、やや幼い表情になる。コシの強そうな長いまつ毛は伏せられたままで、起きる気配はなさそうだ。

 ——嫌な汗だ。シャワー浴びるか……

 マッサを起こさないよう気配を消し、忍はバスルームへ向かった。

 実家とはとうに縁が切れているとはいえ、時折こうして、あの頃の夢を見る。

 国政の中心の程近い場所にいた父親は当然のように、息子たちにも自分に準ずるような社会的地位を築くべきだと説いてきた。

 忍には五つ年上の兄がいる。その兄はまさに父親の望む成長を遂げ、近いうちに父親の地盤を継ぐ予定だと風の噂で耳にしている。

 忍自身も、自分もそうあるべきなのだろうと思っていた。
 だが、高校に入ったあたりからだろうか。兄や父の語る理想に共感ができなくなりはじめ、笑顔で家族団欒に参加していても、心の中では常に不協和音が鳴り響いていた。

 言葉で彼らに反論することなど、忍にはできない。この恐ろしい父親に冷遇されてしまうことが、どれだけ自分の人生において不利に働くかということくらい、とっくに計算ができるようになっていたからだ。

 高校時代も、大学時代も、そして警察組織に入った後も、忍には肩書きのように父の存在がついて回った。
 それに恥じない自分でいなくてはならない。そのためには自分を厳しく律し、他に有能さを示さねばならない——それは洗脳に近い思い込みだった。

 頭が回るからといって、現場をろくに知らない新人が口にする正論など、生え抜きの刑事たちにとっては鼻につくだけのもの。「そのおキレーな顔をもっと上手く活かして仕事してみろ」と、当たり前のようにセクハラを受けたし、手柄を上げても横取りされた。

 だが、忍はぐっと我慢した。こんなことで騒ぎ立てるのはバカのすることだ。手柄がどうした。そんなもののためにこの仕事に就いているわけではないのだと。

 上に行くためには現場を知ることも必要だ。あと数年こらえたら、また警察庁に戻ることになるだろう。そのあとは警察官僚として、もっと上へ登っていける。そしていずれは、父の望むルートに乗って——……

 言葉にできないまま身体の中に溜まり続けた鬱屈は、ある日突然爆発した。

 これが自分のやりたいことなのかもわからないまま、操られるように人生をこなしてきたツケが回ってきたのだろう。
 
 父親に失望され、家族という組織からも追放され、忍はこれまでの経歴を全て捨てざるを得なくなった。

 だが自由になった。これでよかったのだ。

 今の生活に不満など何一つない。毎日が幸せだ。
 だが時折、思い出したかのように過去が記憶に蘇る。そして、しばらく忍を苦しめるのだった。

 シャワーから出てキッチンへゆき、濡れた髪を気怠く拭いながらコーヒーを入れる。
 機械が豆を挽く音をぼんやりと耳にするうち、すっきりとした香ばしい香りが、部屋の中に漂い始めた。

 ——頭痛いな……あんな夢を見たせいだ。

 濃褐色の液体がコポコポとガラス容器の中に溜まりゆく様を見守る忍のこめかみを、拭い忘れられた水滴が伝う。

 時刻は午前七時前。すでに外は明るい時間帯だが、今朝は曇っているらしい。薄手のロールカーテンはほんのりと朝日に染まっている。花霞の空を思わせるほの明るさだ。

 ぼんやりしたままそちらを眺めていると、ずし、と肩に重い何かがのしかかる。だが忍は驚くでもなく、首に巻きついた腕にそっと触れた。

「おはよう。もう起きたのかい?」
「ん……ベッドにいいひんから、何してはんのかなあと思って」

 耳のすぐそばで、眠たげなマッサの声が聞こえる。
 寝起きの掠れ声が妙に色っぽくもあるが、背後から忍に抱きつき、甘えるように頬を擦り寄せる様子は可愛くもある。

 口元に笑みを浮かべながら、忍は腕を持ち上げてマッサの黒髪をわしゃわしゃと撫でた。

「うん、ちょっと……目が覚めちゃって」
「もう起きるんですか……? 全然寝てへんやん」

 昨夜は仕事を終えてここに帰宅したのが午前三時だ。時短のつもりで一緒にシャワーを浴びるうち、いつしかそんな空気になり、そのままバスルームでセックスに高じた。……なので確かに寝不足である。全身がなんとなく重だるく、頭の芯も痺れているような感覚だ。

 マッサのぬくもりを背中に感じていると、悪い夢のせいで強張っていた身体から力が抜ける。忍は目を閉じて、ため息をついた。

「もうちょっと寝ようかな。おまえがしつこくやりたがるから、腰も痛いし」
「……すんませんて」

 笑みを含んだ声でそんなことを言ってみるものの、マッサに求めてもらえることは忍にとっての喜びだった。そして、同じくらい安堵もある。
 特に派手なドラマもなく始まった関係だったこともあってか、ある日突然、この甘い時間が立ち消えてしまうのではないかと怖くなる瞬間があるからだ。

 だけど今さら、ひとりになんて戻れない。
 惜しげなく与えられるぬくもりも、愛情も、孤独ではない安らぎも、もう手離すことなどできるわけがない。

 じわ……と眦に涙が滲む感覚に、忍は焦った。いい年をして、人前で涙を見せるなど——

「……こっち向いて、忍さん」
「えっ……な、なんで」
「ええから、俺を見て」

 半ば強引なしぐさで、身体の向きを変えられる。
 抵抗する隙も与えられず向き直らされても、なんとなくまっすぐその黒い瞳を見つめ返すことができず、忍は目を伏せた。

 だが、意図せず唇には引き攣った笑みが浮かんでいる。無意識のうちに大人としてのバランスを取ろうとしているのか……きっと、ひどく歪な表情をしているに違いない。

「な、なんだよ急に。寝起きなんだ、あんまり近くでジロジロ見るなよ」

 軽い調子でそう言えば、マッサはいつものように何か言葉を返してくるだろうと思っていた。だが、マッサは何も言わないまま、そっと忍の目尻に唇を触れた。

 息を呑む忍を包み込むように抱きしめて、二度、三度と唇で滲んだ涙を拭うように。

「っ……」

 たまらず込み上げてきた嗚咽を堪えようと噛み締めた唇に親指が触れ、そのまま淡いキスをされた。マッサらしからぬ繊細な仕草に驚かされつつも、優しい仕草に安堵する。

「……どうしたの。ずいぶん優しいんだね」

 慰められたのだとわかっているけれど、忍はあえて微笑みながらそう尋ねた。マッサはくしゃっとした前髪の下から静かな眼差しを忍に注いでいたが、しばしの沈黙のあと、小さく首を振る。

「なんでもない。……ただ」
「ただ……?」
「そろそろ話してくれてもええんちゃうかな……て思ってます」
「……え、何を?」
「忍さんが、しんどいて思ってはること」

 マッサの瞳は真摯だった。強引に踏み込んでくるわけではないが、受け止める準備はとうにできているというような、落ち着きのある目をしている。

「夜うなされてる理由も、たまにめちゃくちゃ寂しそうな顔する理由も、なんとなく察しはついてるつもりです」
「……」
「俺に話したところでどうなるもんでもないかもやけど……俺はもっと、ちゃんと知っときたいんです、忍さんのこと」

 腰に回っているマッサの手に、力がこもるのを感じた。見上げた黒い瞳の奥には、かすかな迷いさえも見当たらない。

 ただひたむきに、忍を想って口にした言葉なのだということが、はっきりと伝わってくる。

 ——……馬鹿だな、僕は。なにをひとりで不安がっていたんだろう……

 安堵するとともに愛おしさがこみあげて、忍は泣き笑いのような表情になった。
 マッサの頬に触れ、そのままいつものようにわしわしと頭を撫でる。マッサはくすぐったそうに目を細めて、ちょっと気恥ずかしげな口調でこう言った。

「わかってると思うけど、俺はほんまにマジやから」
「ふふ……うん、わかってる。……ありがとう」

 噛み締めるようにそう囁き、忍は伸び上がってマッサの唇にキスを返した。そしてそのまましばらくぎゅっと抱きついて、シャツの匂いを深く吸い込む。

「……話をするのは、ちょっと眠ってからでもいいかな。なんだか急にまた眠気が……」
「せやな。久々のオフやし、ゆっくり休まんとな」
「うん……」

 大あくびをする忍を見て、マッサがするりと手を握ってきた。さらには指まで絡み合い、恋人繋ぎになった。

 ふと見上げると、マッサの頬はほんのりと朱に染まって、なんだか少し照れくさ顔をしている。手を繋ぐなんて初めてのことだからだろう。実際、忍もかなり初心な気持ちだ。胸がドキドキする。

 ——35にもなって、こんなことでときめいちゃうなんてなぁ……

 だけど大きな手はとてもあたたかく、頼もしい。
 きゅ、とマッサの手を握り返し、忍はいたずらっぽく笑って見せた。

「……顔赤いよ? どうしたの」
「べ、べつに。……ほ、ほら、はよ寝よ。忍さん、二時間睡眠じゃ疲れ取れへんやろ」
「あ、今さりげなくオッサン扱いしたね? そもそも、二時間睡眠になったのはお前がしつこかったからだろ?」
「それはあれやん。忍さんがエロい声でもっともっとて誘惑してくるから、俺もつい盛り上がって……」
「ま……待った。それ以上言わないでいい」

 マッサの照れ顔をもっと堪能するはずが、うっかりやり返されてしまう。

 片手で照れ顔を隠す忍をからかうマッサをどうやりこめてやろうかと考えながら、ふたりであたたかなベッドに戻るのだった。




『たとえ、夢見の悪い朝だとしても』〈忍目線〉
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