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第5幕 ——夜顔の記憶、祓い人の足跡——
36、健介の恐怖
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湊が生徒会室で書類仕事をしていると、珠生が音もなく現れた。湊は仰天して、シャープペンシルの芯をぼっきりと折った。
「おい、気配消すな! びっくりするやろ」
「あ、ごめんごめん」
珠生は悪びれもせずにそう言うと、湊のそばに来て椅子に腰掛けた。そして、手元の書類を覗きこむ。
「もう文化祭の書類?」
「そうやで。まぁ、球技大会が終わってから本格始動やけど」
「秋はイベントが多いよね」
「お前、どうしたん。何か話したいことあるんやろ?」
「あ、うん……」
前置きもそこそこに、ずばりと本題に入ってくる湊の無駄の無さに、珠生は目をぱちぱちとさせてから、ちょっと目を伏せた。何から話せばいいのかと、迷っているような顔だ。
「深春、あれから落ち着いてはいるみたいなんだけど。俺もつられて、結構昔の夢をみるんだ」
「ほう、そうなんや」
「あまりに続くから、ちょっとつらくってね。でも、深春に偉そうにあんな事言ったくせに、俺がまた不安定になってどうするんだって思うんだけど、どうしても……ダメだな。それが情けなくて」
「そんなことないて。深春はそのおかげで落ち着いてんから、良かったと俺は思うで」
湊の意見に、珠生は少しばかり微笑んだが、その笑みにすぐ影が落ちる。
「そんなにお前の気が乱れているようにも思えへんけどなぁ……」
と、湊がしげしげと珠生を見つめる。
「でも俺は、そういうのよく分からへんしな……」
湊が本気で心配してくれていることが分かって、珠生は胸の中がほっこりとするような思いがした。いつもこうして、珠生のことを親身に思ってくれる湊の存在に、心底感謝したくなる。
「……ありがとう、湊」
「いや……何かできることあるか?」
「ううん……今んとこ大丈夫」
「舜平には言うたん?」
「……いや、今、論文とかで忙しいからさ。邪魔したくないんだ。それに、こんな事で毎度毎度泣きついてたら、女々しいだろ」
「ほう、お前がそんなことを気にするとは」
「さすがにね、俺ももう高三だし……いつまでも舜平さんに甘えてるのもな……」
「ま。あいつはそれを喜んでるクチやろうけど」
「ははっ、それはある。……でも、やっぱり、さ」
「?」
「……俺も、少しはしっかりしないといけないしね」
「そっか……」
「俺、座禅でも組んで修行しなきゃだめかも。精神統一しつつ、過去と向き合うみたいな。深春と一緒に行ってもいいかもなぁ」
「それも悪くないかもな。藤原さんに聞いてみるか?」
「うん、次に会う時、相談してみる」
「そうやな」
珠生は頬杖をついて窓の外を眺めた。部活動に勤しむサッカー部、野球部の面々の元気な声がこだましている。なんとも平和な眺めである。
「本郷の友達のサッカー部って……あいつか? 小嶋英司」
湊もグラウンドを眺めながら、そう言って一人の生徒を指さす。真っ黒に日焼けして元気に駆け回っているやや小柄な男子生徒だ。
「あ、そうそう。まだあんまり喋ったことないんだけどね。スポーツ好きだから、何でもいいってさ」
「ふうん。絶対お前らが勝つやろうな」
「ま、そうだろうね。現役バスケ部二人と、一人は元キャプテンだし」
「てっきり本郷はお前と組むのは嫌がるやろうと思ってたけどな」
「あぁ……俺のこと、嫌いだったみたいだもんね」
珠生はサッカー部を眺めたまま、そう言った。
「ま、お前にも社交性が身についてきた証拠ちゃう? 良かったやん」
「えー、そんなに社交性なかったかなぁ」
「一年の頃は、全然やったやん」
「……それを言われると痛い」
「ま、頑張りや」
「はいはい……」
湊はちょっと笑って、荷物をまとめはじめた。
二人は連れ立って生徒会室を出ると、地下鉄の駅へ向かい、歩き出す。
そんな二人を、女子高生姿の蜜雲がそっと木陰から見つめていた。
+
各務研究室では、いつものように相田舜平と屋代拓がパソコンに向かって座っている。
うず高く資料の積み上げられた研究室の片隅の机にあるデスクトップは、普段は各務健介の研究データを整理するためのものだが、ここ数カ月は二人が卒業論文のために利用している。
二人は向い合ってパソコンの画面とにらめっこをしつつ、たまに思い立ったようにキーボードを叩く。ごっそりと資料が積み重ねられた二人の机には、食べかけのパンや缶コーヒーの空き缶などがごちゃごちゃと置いてあり、随分と小汚い。
指導教官の健介はというと、研究室の上手にある大きなデスクで資料に埋もれながら作業をしている。いつもは誰に声をかけられても気づかないほどに集中しているはずの健介の様子が、今日はどこかおかしかった。
電話が鳴るのもお構いなしの健介であるが、今日は電話のコール音、携帯電話のヴァイブレーションの音、ドアをノックする音、ことごとく全てに大きく驚いているのだ。
普段と違ってあまりに過敏な健介の様子に、二人はどうしても論文に集中できないでいた。
そう思っている間にも、拓が机に置いていた携帯電話が震え、ガタガタと思いの外大きな音を立てた。健介はがたがたっと椅子の上で跳ね上がり、怯えた仔兎のような顔であたりを見廻している。
「……先生、どうしはったんですか」
見かねた舜平が、健介にそう尋ねると、健介はばつが悪そうな顔をしつつ姿勢を正して咳払いをした。
「……失礼」
「なんか変ですよ?」
と、拓が今時めずらしいガリ勉眼鏡をずり上げながらそう言った。普段はコンタクトレンズを使用しているが、ここ数日はずっと眼鏡だ。
「あ、いや。すまんね」
健介は溜息をついて立ち上がり、新たにコーヒーを淹れ始める。二人は顔を見合わせて、休憩を取るべく立ち上がった。
淹れたての濃いコーヒーを、窓際で三人並んですする。
「……実は、別れた奥さんが、今夜京都に来るんだよ」
「ええっ!? まじっすか」
と、舜平と拓が驚く。浮かない顔の健介は、大きくため息をついた。
「珠生がね、全然千葉に帰ってこないことが気に入らないみたいでねぇ。僕は、あの子にはあの子の人間関係がこっちでしっかりとできているんだから、それでいいじゃないかと言ってるんだけど、彼女は僕があえて帰そうとしていないんだって決め付けるんだよねぇ」
「……ははぁ」
舜平はずず、とコーヒーを飲みつつ、思い返す。
「父と息子が仲いいのは、ええことやと思いますけどねぇ」
と、拓が眼鏡を曇らせながらそう言う。
「珠生にそれとなく、帰ってもいいんだと言ってはいるんだけど、やれめんどくさいだの、向こうじゃすることがないだの……。千秋が受験勉強中だから、きっと機嫌が悪いだろうから嫌だだの……」
舜平は笑った。ぶうぶうと文句を垂れている珠生を想像していると、無性にその顔が見たくなってしまう。
「まぁ、遠いですしね。いざ帰ろう思ったら」
と、舜平。
「そうなんだよ。すみれ……あ、元妻は千秋と似て気が強くて。けど……よく今まで、一人で二人を育ててきたなぁと感心してしまう。……すごく、申し訳なくなるんだよね」
「今夜は先生の家に泊まらはるってことですか?」
健介の弱音に付き合っていると、いつまでもめそめそと泣き言を言うのが分かっているため、拓はさっくりと話題を変えた。健介は首をひねって、「どうだろうなぁ」と言った。
「珠生の生活を見ておきたいとか言ってたから、来るのは来ると思うんだけど」
「珠生くんは知ってるんですか? お母さんが来るってこと」
と、舜平。
「いや……まだ言ってないんだ。言いそびれちゃって」
「それは……びっくりしはるでしょうね」
健介はわしわしと髪の毛を乱すと、また大きくため息をついた。
「あぁ、また何を言われるやら」
「よっぽど怖いんですね、元奥さん」
と、拓が同情をこめた口調でそう言うと、健介は深く頷いた。
「気が強くて、こうと思ったら意見を曲げないからなぁ」
「なんで結婚したんです?」
と、舜平はかねてから疑問だったことを尋ねた。
「……うーん。大学が一緒だったんだけど、彼女はきれいで頭も良くて、一緒にいるとすごく楽しかったんだな。気づいたら付き合ってて、結婚を強く望んだのも彼女だったし……と思い返すと押し切られっぱなしの人生だ」
「ほう、よう離婚できましたね」
と、拓。
「長い戦いだったけど、お互いに疲れたってところが大きいかな。僕がこの大学に来ることが決まったのが大きなきっかけだった。僕が勝手にことを運んだことに怒ってねぇ。でもここで研究を続けていくのは、かねてから僕の夢でもあったから、どうしても曲げられなかった。子どもたちには嫌な思いをさせたろうな」
「……そうやったんですか」
幼い千秋と珠生が、両親の喧嘩をどのように聞いていたのかと想像すると、不憫でならない。初めて会った頃に感じていた珠生の一歩引いたドライさは、おそらくそういう経験からきているのであろう。
「ほなそろそろ帰っておいたほうがいいんちゃいます? 珠生くんにも、やっぱ前もって言っておいたほうがいいと思うし」
舜平は腕時計に目を落としてそう言った。時刻は十七時過ぎだった。
「そうだなぁ……そうするかなぁ……」
「奥さん待たすと絶対後からまたややこしいですって」
と、拓も健介を急かした。健介は頷いて、コーヒーカップを置いた。
「……それもそうだな」
白衣に手を突っ込んで、健介は意を決したように「帰るか」と言った。
「先生、頑張って!」
と、拓が健介の背を叩く。
「珠生くんももうしっかりしてはるんやし、先生ばかりが怒られることもないですって!」
と、舜平も励ます。
「うん……うん、そうだよね。ところで相田くん」
「はい」
「今夜、暇かな?」
「はぁ。論文を書く以外は……」
「頼む! 君も家にいてくれないか? 第三者がいれば、彼女も冷静に話ができると思うんだ!」
「ええっ? そんなん……おかしいでしょ?」
「頼む! 珠生の前でまた、夫婦喧嘩を見せたくないんだ!」
「う……」
「舜平、行ってあげーや。きりのいいとこで帰ってきたらいいやん」
拓は、健介の背を叩いていた手を、今度は舜平の肩にぽんと載せた。
「先生も心細いんやって、察したれよ」
と、ぼそぼそと耳打ちする。
「……まぁ、じゃぁ、少しだけなら」
「本当かい!? ありがとう! よし、じゃあ早速帰ろうか!」
「はぁ。でも先生、チャリは……」
「明日は歩いてくるからいいよ」
「はぁ。あ、じゃあ俺……データを」
舜平も帰り支度を始め、論文のデータを保存して机の上を軽く片付ける。健介も、舜平がついてくることがわかり、少しばかり気が大きくなったのか、健介はいそいそと荷物を片付けて鞄を斜めがけにした。拓は笑いを堪えつつ、二人に手を振る。
「明日、元気な顔見せてくださいよ」
と、拓に見送られ、二人は研究室を後にした。
「おい、気配消すな! びっくりするやろ」
「あ、ごめんごめん」
珠生は悪びれもせずにそう言うと、湊のそばに来て椅子に腰掛けた。そして、手元の書類を覗きこむ。
「もう文化祭の書類?」
「そうやで。まぁ、球技大会が終わってから本格始動やけど」
「秋はイベントが多いよね」
「お前、どうしたん。何か話したいことあるんやろ?」
「あ、うん……」
前置きもそこそこに、ずばりと本題に入ってくる湊の無駄の無さに、珠生は目をぱちぱちとさせてから、ちょっと目を伏せた。何から話せばいいのかと、迷っているような顔だ。
「深春、あれから落ち着いてはいるみたいなんだけど。俺もつられて、結構昔の夢をみるんだ」
「ほう、そうなんや」
「あまりに続くから、ちょっとつらくってね。でも、深春に偉そうにあんな事言ったくせに、俺がまた不安定になってどうするんだって思うんだけど、どうしても……ダメだな。それが情けなくて」
「そんなことないて。深春はそのおかげで落ち着いてんから、良かったと俺は思うで」
湊の意見に、珠生は少しばかり微笑んだが、その笑みにすぐ影が落ちる。
「そんなにお前の気が乱れているようにも思えへんけどなぁ……」
と、湊がしげしげと珠生を見つめる。
「でも俺は、そういうのよく分からへんしな……」
湊が本気で心配してくれていることが分かって、珠生は胸の中がほっこりとするような思いがした。いつもこうして、珠生のことを親身に思ってくれる湊の存在に、心底感謝したくなる。
「……ありがとう、湊」
「いや……何かできることあるか?」
「ううん……今んとこ大丈夫」
「舜平には言うたん?」
「……いや、今、論文とかで忙しいからさ。邪魔したくないんだ。それに、こんな事で毎度毎度泣きついてたら、女々しいだろ」
「ほう、お前がそんなことを気にするとは」
「さすがにね、俺ももう高三だし……いつまでも舜平さんに甘えてるのもな……」
「ま。あいつはそれを喜んでるクチやろうけど」
「ははっ、それはある。……でも、やっぱり、さ」
「?」
「……俺も、少しはしっかりしないといけないしね」
「そっか……」
「俺、座禅でも組んで修行しなきゃだめかも。精神統一しつつ、過去と向き合うみたいな。深春と一緒に行ってもいいかもなぁ」
「それも悪くないかもな。藤原さんに聞いてみるか?」
「うん、次に会う時、相談してみる」
「そうやな」
珠生は頬杖をついて窓の外を眺めた。部活動に勤しむサッカー部、野球部の面々の元気な声がこだましている。なんとも平和な眺めである。
「本郷の友達のサッカー部って……あいつか? 小嶋英司」
湊もグラウンドを眺めながら、そう言って一人の生徒を指さす。真っ黒に日焼けして元気に駆け回っているやや小柄な男子生徒だ。
「あ、そうそう。まだあんまり喋ったことないんだけどね。スポーツ好きだから、何でもいいってさ」
「ふうん。絶対お前らが勝つやろうな」
「ま、そうだろうね。現役バスケ部二人と、一人は元キャプテンだし」
「てっきり本郷はお前と組むのは嫌がるやろうと思ってたけどな」
「あぁ……俺のこと、嫌いだったみたいだもんね」
珠生はサッカー部を眺めたまま、そう言った。
「ま、お前にも社交性が身についてきた証拠ちゃう? 良かったやん」
「えー、そんなに社交性なかったかなぁ」
「一年の頃は、全然やったやん」
「……それを言われると痛い」
「ま、頑張りや」
「はいはい……」
湊はちょっと笑って、荷物をまとめはじめた。
二人は連れ立って生徒会室を出ると、地下鉄の駅へ向かい、歩き出す。
そんな二人を、女子高生姿の蜜雲がそっと木陰から見つめていた。
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各務研究室では、いつものように相田舜平と屋代拓がパソコンに向かって座っている。
うず高く資料の積み上げられた研究室の片隅の机にあるデスクトップは、普段は各務健介の研究データを整理するためのものだが、ここ数カ月は二人が卒業論文のために利用している。
二人は向い合ってパソコンの画面とにらめっこをしつつ、たまに思い立ったようにキーボードを叩く。ごっそりと資料が積み重ねられた二人の机には、食べかけのパンや缶コーヒーの空き缶などがごちゃごちゃと置いてあり、随分と小汚い。
指導教官の健介はというと、研究室の上手にある大きなデスクで資料に埋もれながら作業をしている。いつもは誰に声をかけられても気づかないほどに集中しているはずの健介の様子が、今日はどこかおかしかった。
電話が鳴るのもお構いなしの健介であるが、今日は電話のコール音、携帯電話のヴァイブレーションの音、ドアをノックする音、ことごとく全てに大きく驚いているのだ。
普段と違ってあまりに過敏な健介の様子に、二人はどうしても論文に集中できないでいた。
そう思っている間にも、拓が机に置いていた携帯電話が震え、ガタガタと思いの外大きな音を立てた。健介はがたがたっと椅子の上で跳ね上がり、怯えた仔兎のような顔であたりを見廻している。
「……先生、どうしはったんですか」
見かねた舜平が、健介にそう尋ねると、健介はばつが悪そうな顔をしつつ姿勢を正して咳払いをした。
「……失礼」
「なんか変ですよ?」
と、拓が今時めずらしいガリ勉眼鏡をずり上げながらそう言った。普段はコンタクトレンズを使用しているが、ここ数日はずっと眼鏡だ。
「あ、いや。すまんね」
健介は溜息をついて立ち上がり、新たにコーヒーを淹れ始める。二人は顔を見合わせて、休憩を取るべく立ち上がった。
淹れたての濃いコーヒーを、窓際で三人並んですする。
「……実は、別れた奥さんが、今夜京都に来るんだよ」
「ええっ!? まじっすか」
と、舜平と拓が驚く。浮かない顔の健介は、大きくため息をついた。
「珠生がね、全然千葉に帰ってこないことが気に入らないみたいでねぇ。僕は、あの子にはあの子の人間関係がこっちでしっかりとできているんだから、それでいいじゃないかと言ってるんだけど、彼女は僕があえて帰そうとしていないんだって決め付けるんだよねぇ」
「……ははぁ」
舜平はずず、とコーヒーを飲みつつ、思い返す。
「父と息子が仲いいのは、ええことやと思いますけどねぇ」
と、拓が眼鏡を曇らせながらそう言う。
「珠生にそれとなく、帰ってもいいんだと言ってはいるんだけど、やれめんどくさいだの、向こうじゃすることがないだの……。千秋が受験勉強中だから、きっと機嫌が悪いだろうから嫌だだの……」
舜平は笑った。ぶうぶうと文句を垂れている珠生を想像していると、無性にその顔が見たくなってしまう。
「まぁ、遠いですしね。いざ帰ろう思ったら」
と、舜平。
「そうなんだよ。すみれ……あ、元妻は千秋と似て気が強くて。けど……よく今まで、一人で二人を育ててきたなぁと感心してしまう。……すごく、申し訳なくなるんだよね」
「今夜は先生の家に泊まらはるってことですか?」
健介の弱音に付き合っていると、いつまでもめそめそと泣き言を言うのが分かっているため、拓はさっくりと話題を変えた。健介は首をひねって、「どうだろうなぁ」と言った。
「珠生の生活を見ておきたいとか言ってたから、来るのは来ると思うんだけど」
「珠生くんは知ってるんですか? お母さんが来るってこと」
と、舜平。
「いや……まだ言ってないんだ。言いそびれちゃって」
「それは……びっくりしはるでしょうね」
健介はわしわしと髪の毛を乱すと、また大きくため息をついた。
「あぁ、また何を言われるやら」
「よっぽど怖いんですね、元奥さん」
と、拓が同情をこめた口調でそう言うと、健介は深く頷いた。
「気が強くて、こうと思ったら意見を曲げないからなぁ」
「なんで結婚したんです?」
と、舜平はかねてから疑問だったことを尋ねた。
「……うーん。大学が一緒だったんだけど、彼女はきれいで頭も良くて、一緒にいるとすごく楽しかったんだな。気づいたら付き合ってて、結婚を強く望んだのも彼女だったし……と思い返すと押し切られっぱなしの人生だ」
「ほう、よう離婚できましたね」
と、拓。
「長い戦いだったけど、お互いに疲れたってところが大きいかな。僕がこの大学に来ることが決まったのが大きなきっかけだった。僕が勝手にことを運んだことに怒ってねぇ。でもここで研究を続けていくのは、かねてから僕の夢でもあったから、どうしても曲げられなかった。子どもたちには嫌な思いをさせたろうな」
「……そうやったんですか」
幼い千秋と珠生が、両親の喧嘩をどのように聞いていたのかと想像すると、不憫でならない。初めて会った頃に感じていた珠生の一歩引いたドライさは、おそらくそういう経験からきているのであろう。
「ほなそろそろ帰っておいたほうがいいんちゃいます? 珠生くんにも、やっぱ前もって言っておいたほうがいいと思うし」
舜平は腕時計に目を落としてそう言った。時刻は十七時過ぎだった。
「そうだなぁ……そうするかなぁ……」
「奥さん待たすと絶対後からまたややこしいですって」
と、拓も健介を急かした。健介は頷いて、コーヒーカップを置いた。
「……それもそうだな」
白衣に手を突っ込んで、健介は意を決したように「帰るか」と言った。
「先生、頑張って!」
と、拓が健介の背を叩く。
「珠生くんももうしっかりしてはるんやし、先生ばかりが怒られることもないですって!」
と、舜平も励ます。
「うん……うん、そうだよね。ところで相田くん」
「はい」
「今夜、暇かな?」
「はぁ。論文を書く以外は……」
「頼む! 君も家にいてくれないか? 第三者がいれば、彼女も冷静に話ができると思うんだ!」
「ええっ? そんなん……おかしいでしょ?」
「頼む! 珠生の前でまた、夫婦喧嘩を見せたくないんだ!」
「う……」
「舜平、行ってあげーや。きりのいいとこで帰ってきたらいいやん」
拓は、健介の背を叩いていた手を、今度は舜平の肩にぽんと載せた。
「先生も心細いんやって、察したれよ」
と、ぼそぼそと耳打ちする。
「……まぁ、じゃぁ、少しだけなら」
「本当かい!? ありがとう! よし、じゃあ早速帰ろうか!」
「はぁ。でも先生、チャリは……」
「明日は歩いてくるからいいよ」
「はぁ。あ、じゃあ俺……データを」
舜平も帰り支度を始め、論文のデータを保存して机の上を軽く片付ける。健介も、舜平がついてくることがわかり、少しばかり気が大きくなったのか、健介はいそいそと荷物を片付けて鞄を斜めがけにした。拓は笑いを堪えつつ、二人に手を振る。
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と、拓に見送られ、二人は研究室を後にした。
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