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第5幕 ——夜顔の記憶、祓い人の足跡——
53、紗夜香の葛藤
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その頃、深春はまだ学校にいた。
服飾科に移ったものの、基本的な学力が身についていない深春は、年末までみっちり補習を入れられているのである。与えられたプリントをなんとかまじめに解いてしまうと、担任がそれを採点する間、一人教室で待つことになった。
机の上にうつ伏せて、窓の外を見上げる。今日はクリスマス。空は快晴だ。きっとカップルどもは楽しくデートをしてんだろうな、と深春はぼんやり考えた。
最近は、昔ほどセックスをしたいとも思わなくなっていた。そうなると女と過ごすことはただの退屈でしかないため、深春はあちこちからくる誘いを全て断っていた。調子のいい顔をして、女の喜ぶことを言うのにも飽きた。ただただ、面倒になった。
今は、服のデザインを勉強することが楽しくて仕方がない。きっかけは、文化祭のファッションショーで身体を貸したことだった。
先輩たちのデザインした服を実際に着た時、こんなに身近な人たちが、こうして本物の服を一から作っているということに感動を覚えたのだ。イメージを具現化する、それがとてつもなくすごいことに思えた。
ファッション誌を読むのはもともと好きだったし、自分を飾ることに興味はあった。ファッションショーの練習で、先輩たちと色々なことを話し、知恵を教えこまれたことも、深春にとっては大きな出来事だった。知識を得ることを、楽しいと感じた。
そしていつの間にか、いつか自分もそういう仕事が出来たらいいのにと思うようになっていた。今はまだ憧れだが、そんな気持ちを持てたのは生まれて初めて——そういうものに出会えたことも、深春は嬉しかった。
ぱらぱらと洋裁のテキストをめくりながら、深春はふと亜樹のことを思い出した。今日は珠生と出かけると言っていて、ツンツンした態度の割にいつになく口元が緩んでいたものだ。朝からからかってやったものだった。
深春は笑みを浮かべて、また空を見上げる。静かな学校の中、部活動に励む生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。
宮尾邸で暮らし始めてちょうどもうすぐ一年、自分の心がこうも穏やかになるなんて、思ってもみなかった。
藤之助のことは、今でも恋しい。夢に見るほどに。
しかし、ここが今の自分の居場所なのだと、現実を受け入れることも出来つつある。
——藤之助は、転生しねぇのかな……。なんで俺は、今ここにいるんだろう。
今もそんな疑問を、感じない日はない。でもこの穏やかな生活を、大切だと感じることは出来る。
——能登の祓い人の一件は、珠生くんだけに関わる問題なんだろうか。俺は、珠生くんのために何が出来る……?
そんなことを考えていると、がら、とドアが開く音がした。深春は顔を上げる。
「あれ、水無瀬さん?」
そこには水無瀬紗夜香がいた。いつにもまして青白い顔で立っており、じっと険しい目付きで深春を睨みつけている。
「……え、なに?」
つかつかと歩み寄ってきた紗夜香は、深春の前に立つなり、バシッと鋭くその頬を打った。深春が目を白黒させて紗夜香を見上げると、紗夜香は怒りに震える唇を噛み締めながら、こう言った。
「うちの母親が珠生くんを狙ったって……あんたも、知ってたの!?」
「え……あ、うん……」
紗夜香には知らされていなかったのだろうか、と深春は訝しむ。
「なんで……すぐに教えてくれなかったのよ!?」
「っていっても……まだ二、三日のことじゃねぇか」
「あたしの母親のことなのよ! 何で、」
「待てよ、お前はどうやって知ったんだ」
がたっと椅子を蹴って立ち上がり、紗夜香を見下ろす。紗夜香は少し身を引いたが、また深春を睨んでいる。
「……今朝、本人が来たの」
「えっ……!? それ……それ、大変じゃねぇかよ! すぐに藤原さんに言わねぇと!」
「そんな事できるわけないじゃない! ……お母さん、千珠さまに挨拶してきた。手はずが整ったら、またこっちへ来る、その時は一緒に行きましょうねって……言ったの」
「手はず……?」
「あたしは! 藤原さんにお父さんの入院のことでもお世話になってるし、仲間を見つけてもらって嬉しかった。だから、あの人達の迷惑にはなりたくないの! でも……母親なの……あたしの、お母さんなのよ……」
紗夜香は見る間にぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。深春は何もいうことができず、ただそんな紗夜香を見下ろしているしかできなかった。
「あたしはどうしたらいいの!? 何で前もって教えてくれなかったのよ!」
「そんな事、言われても……」
すべきことは分かっている。水無瀬紗夜香の母親は、千珠を狙い、陰陽師衆の血筋を憎み、この現世に再び雷燕を放とうとしている危険人物だ。
すぐに藤原に伝えて、京都や北陸で網を張っている宮内庁の職員を動かすのが正しい行動だ。紗夜香もそれは分かっているはずだった。
しかし、実際母親が目の前に現れ、情を持って訴えかけられてしまえば、まだ高校生の娘でしかない紗夜香が大きく揺れるのも分かる。
深春にはその母への情念がどういうものかは分からない。しかし、想像はできる。
深春は迷った。
「とりあえず……ごめん。早く教えてやればよかった」
紗夜香を落ち着かせるために、深春はその件については素直に謝罪した。紗夜香は少しばかりはっとした顔で、ぎらついていた怒りを少し収める。
「俺、珠生くんのことが心配で、そればかり考えてた。水無瀬さんのこと、考えられなくて、ごめん……」
「……」
紗夜香は何も言わず、うつむいて自分のつま先を見ている。
「藤原さんも、きっと水無瀬さんに言うつもりだったと思うけど、お母さんのことだからって、多分気を遣ってたんだと思う」
「……わかってる。それにあたしだって、藤原さんに言わなきゃって思ってる。でも……お母さんの疲れた顔見たら、どうしてもできなくて」
「疲れてるのか?」
「当然でしょ。今、京都中に感知結界が張られてる。その網目をかいくぐってあたしに会いに来たのよ。それに、珠生くんを襲うのに力を使ったって」
「……何でわざわざそんな事を」
「本気だって、知らせたかったんだと思う」
「……そっか」
紗夜香はぐいと涙を拭って、ため息をついた。深春はすとんと椅子に腰を下ろして、うなだれる。
言いようのない苦い思いが、深春の口の中に広がるようだった。
「……藤原さんとこ、一緒に行こう」
「え?」
「俺は、お前の母さんにそんな悪いことをして欲しくない。何か起こる前に止めるのが一番いいと思う」
「深春……」
「俺は、母親を知らねぇから、今のお前の気持ちは分からねぇよ。でも……もし亜樹ちゃんや柚さんがそんなことになったら、取り返しの付かない悪事を働く前に、俺が止めなきゃって思う」
深春は荷物をまとめはじめた。鞄を肩に引っ掛けて立ち上がると、深春は紗夜香の腕を掴んで歩き出した。その勢いにつんのめりながらついていく紗夜香を引っ張って、深春は学校を出た。
「待って……待ってよ!」
「お前もそうしたいんだろ? だから俺に文句言いに来たんじゃねぇのかよ」
「……それは」
ばっと深春の手を振りほどき、紗夜香は肩で呼吸をした。クリスマスの学校周辺には人気が少ない。二人にとってはそれがありがたかった。
「お母さんは……あたしを頼って来たのよ? それをあっさり藤原さんに言いつけて……お母さんを裏切るような真似をするなんて……できないよ」
「じゃあどうするんだよ! 母親について行って、俺らと真っ向からやり合おうっていうのか!? 珠生くんを、攻撃できんのかよ!」
「そんな事、出来るわけないじゃない!」
紗夜香は混乱しているようだった。頭を振りながら叫んだ紗夜香の痛々しい悲鳴に、深春はただ立ち尽くす。
「あたし……どうしたらいいの……」
「分かった。じゃあ俺が一人で藤原さんとこに行く」
「……え?」
「お前は父ちゃんのとこにでも行ってろ。まぁどうせ、あそこにも人はついてるけどな」
「どうすんのよ」
「俺が言えば、紗夜香さんがチクったことにはならねぇだろ。お前は父ちゃんとこで大人しくしてろ。何もするな、見てるだけだ」
「……でも」
「聞いちまった以上、俺は放っとくわけにいかねぇよ」
深春はそう言って、ずんずん一人で歩き出した。紗夜香が駆け足でついてくる足音がしたため、深春は歩調を少し緩めた。
「頭冷やして連絡待っとけ」
「……うん」
三歩くらい遅れて、泣きながらついてくる紗夜香をちらりと振り返り、深春は痛ましげに眉を下げる。
家族っていうのは、どうしてこう色々なものを絡めてこんがらがらせるのかと、煩わしくも思う。
しかしそんな煩わしい糸でさえ、自分は持ち合わせていないということが、寂しく、虚しかった。
服飾科に移ったものの、基本的な学力が身についていない深春は、年末までみっちり補習を入れられているのである。与えられたプリントをなんとかまじめに解いてしまうと、担任がそれを採点する間、一人教室で待つことになった。
机の上にうつ伏せて、窓の外を見上げる。今日はクリスマス。空は快晴だ。きっとカップルどもは楽しくデートをしてんだろうな、と深春はぼんやり考えた。
最近は、昔ほどセックスをしたいとも思わなくなっていた。そうなると女と過ごすことはただの退屈でしかないため、深春はあちこちからくる誘いを全て断っていた。調子のいい顔をして、女の喜ぶことを言うのにも飽きた。ただただ、面倒になった。
今は、服のデザインを勉強することが楽しくて仕方がない。きっかけは、文化祭のファッションショーで身体を貸したことだった。
先輩たちのデザインした服を実際に着た時、こんなに身近な人たちが、こうして本物の服を一から作っているということに感動を覚えたのだ。イメージを具現化する、それがとてつもなくすごいことに思えた。
ファッション誌を読むのはもともと好きだったし、自分を飾ることに興味はあった。ファッションショーの練習で、先輩たちと色々なことを話し、知恵を教えこまれたことも、深春にとっては大きな出来事だった。知識を得ることを、楽しいと感じた。
そしていつの間にか、いつか自分もそういう仕事が出来たらいいのにと思うようになっていた。今はまだ憧れだが、そんな気持ちを持てたのは生まれて初めて——そういうものに出会えたことも、深春は嬉しかった。
ぱらぱらと洋裁のテキストをめくりながら、深春はふと亜樹のことを思い出した。今日は珠生と出かけると言っていて、ツンツンした態度の割にいつになく口元が緩んでいたものだ。朝からからかってやったものだった。
深春は笑みを浮かべて、また空を見上げる。静かな学校の中、部活動に励む生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。
宮尾邸で暮らし始めてちょうどもうすぐ一年、自分の心がこうも穏やかになるなんて、思ってもみなかった。
藤之助のことは、今でも恋しい。夢に見るほどに。
しかし、ここが今の自分の居場所なのだと、現実を受け入れることも出来つつある。
——藤之助は、転生しねぇのかな……。なんで俺は、今ここにいるんだろう。
今もそんな疑問を、感じない日はない。でもこの穏やかな生活を、大切だと感じることは出来る。
——能登の祓い人の一件は、珠生くんだけに関わる問題なんだろうか。俺は、珠生くんのために何が出来る……?
そんなことを考えていると、がら、とドアが開く音がした。深春は顔を上げる。
「あれ、水無瀬さん?」
そこには水無瀬紗夜香がいた。いつにもまして青白い顔で立っており、じっと険しい目付きで深春を睨みつけている。
「……え、なに?」
つかつかと歩み寄ってきた紗夜香は、深春の前に立つなり、バシッと鋭くその頬を打った。深春が目を白黒させて紗夜香を見上げると、紗夜香は怒りに震える唇を噛み締めながら、こう言った。
「うちの母親が珠生くんを狙ったって……あんたも、知ってたの!?」
「え……あ、うん……」
紗夜香には知らされていなかったのだろうか、と深春は訝しむ。
「なんで……すぐに教えてくれなかったのよ!?」
「っていっても……まだ二、三日のことじゃねぇか」
「あたしの母親のことなのよ! 何で、」
「待てよ、お前はどうやって知ったんだ」
がたっと椅子を蹴って立ち上がり、紗夜香を見下ろす。紗夜香は少し身を引いたが、また深春を睨んでいる。
「……今朝、本人が来たの」
「えっ……!? それ……それ、大変じゃねぇかよ! すぐに藤原さんに言わねぇと!」
「そんな事できるわけないじゃない! ……お母さん、千珠さまに挨拶してきた。手はずが整ったら、またこっちへ来る、その時は一緒に行きましょうねって……言ったの」
「手はず……?」
「あたしは! 藤原さんにお父さんの入院のことでもお世話になってるし、仲間を見つけてもらって嬉しかった。だから、あの人達の迷惑にはなりたくないの! でも……母親なの……あたしの、お母さんなのよ……」
紗夜香は見る間にぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。深春は何もいうことができず、ただそんな紗夜香を見下ろしているしかできなかった。
「あたしはどうしたらいいの!? 何で前もって教えてくれなかったのよ!」
「そんな事、言われても……」
すべきことは分かっている。水無瀬紗夜香の母親は、千珠を狙い、陰陽師衆の血筋を憎み、この現世に再び雷燕を放とうとしている危険人物だ。
すぐに藤原に伝えて、京都や北陸で網を張っている宮内庁の職員を動かすのが正しい行動だ。紗夜香もそれは分かっているはずだった。
しかし、実際母親が目の前に現れ、情を持って訴えかけられてしまえば、まだ高校生の娘でしかない紗夜香が大きく揺れるのも分かる。
深春にはその母への情念がどういうものかは分からない。しかし、想像はできる。
深春は迷った。
「とりあえず……ごめん。早く教えてやればよかった」
紗夜香を落ち着かせるために、深春はその件については素直に謝罪した。紗夜香は少しばかりはっとした顔で、ぎらついていた怒りを少し収める。
「俺、珠生くんのことが心配で、そればかり考えてた。水無瀬さんのこと、考えられなくて、ごめん……」
「……」
紗夜香は何も言わず、うつむいて自分のつま先を見ている。
「藤原さんも、きっと水無瀬さんに言うつもりだったと思うけど、お母さんのことだからって、多分気を遣ってたんだと思う」
「……わかってる。それにあたしだって、藤原さんに言わなきゃって思ってる。でも……お母さんの疲れた顔見たら、どうしてもできなくて」
「疲れてるのか?」
「当然でしょ。今、京都中に感知結界が張られてる。その網目をかいくぐってあたしに会いに来たのよ。それに、珠生くんを襲うのに力を使ったって」
「……何でわざわざそんな事を」
「本気だって、知らせたかったんだと思う」
「……そっか」
紗夜香はぐいと涙を拭って、ため息をついた。深春はすとんと椅子に腰を下ろして、うなだれる。
言いようのない苦い思いが、深春の口の中に広がるようだった。
「……藤原さんとこ、一緒に行こう」
「え?」
「俺は、お前の母さんにそんな悪いことをして欲しくない。何か起こる前に止めるのが一番いいと思う」
「深春……」
「俺は、母親を知らねぇから、今のお前の気持ちは分からねぇよ。でも……もし亜樹ちゃんや柚さんがそんなことになったら、取り返しの付かない悪事を働く前に、俺が止めなきゃって思う」
深春は荷物をまとめはじめた。鞄を肩に引っ掛けて立ち上がると、深春は紗夜香の腕を掴んで歩き出した。その勢いにつんのめりながらついていく紗夜香を引っ張って、深春は学校を出た。
「待って……待ってよ!」
「お前もそうしたいんだろ? だから俺に文句言いに来たんじゃねぇのかよ」
「……それは」
ばっと深春の手を振りほどき、紗夜香は肩で呼吸をした。クリスマスの学校周辺には人気が少ない。二人にとってはそれがありがたかった。
「お母さんは……あたしを頼って来たのよ? それをあっさり藤原さんに言いつけて……お母さんを裏切るような真似をするなんて……できないよ」
「じゃあどうするんだよ! 母親について行って、俺らと真っ向からやり合おうっていうのか!? 珠生くんを、攻撃できんのかよ!」
「そんな事、出来るわけないじゃない!」
紗夜香は混乱しているようだった。頭を振りながら叫んだ紗夜香の痛々しい悲鳴に、深春はただ立ち尽くす。
「あたし……どうしたらいいの……」
「分かった。じゃあ俺が一人で藤原さんとこに行く」
「……え?」
「お前は父ちゃんのとこにでも行ってろ。まぁどうせ、あそこにも人はついてるけどな」
「どうすんのよ」
「俺が言えば、紗夜香さんがチクったことにはならねぇだろ。お前は父ちゃんとこで大人しくしてろ。何もするな、見てるだけだ」
「……でも」
「聞いちまった以上、俺は放っとくわけにいかねぇよ」
深春はそう言って、ずんずん一人で歩き出した。紗夜香が駆け足でついてくる足音がしたため、深春は歩調を少し緩めた。
「頭冷やして連絡待っとけ」
「……うん」
三歩くらい遅れて、泣きながらついてくる紗夜香をちらりと振り返り、深春は痛ましげに眉を下げる。
家族っていうのは、どうしてこう色々なものを絡めてこんがらがらせるのかと、煩わしくも思う。
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