琥珀に眠る記憶

餡玉(あんたま)

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第7幕ー断つべきもの、守るべきものー

五、深春の暴走

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 織部深春は、土曜日の朝から藤原修一に呼び出されて修行をしていた。

 それは、夜顔と雷燕のもつ禍々しい憎しみの妖気を抑えるための修行であり、今後このまま宮内庁に協力していく上では欠かすことのできない訓練だ。

 場所は比叡山の麓にある古びた道場。ここは、宮内庁が買い取って訓練施設として利用している。この付近には何重にも結界が張ってあるため、一般の人間には見ることができない。派手に術を使うような訓練を行うときは、ここを皆利用しているのである。

 その日は、紺野知弦が鍵当番ということもあり、藤原と深春の修行に付き合っていた。その他にも、赤松幹久を始め数名の結界班の者が自主的に訓練に訪れており、ただっ広い道場の中は適度に人の気配があった。

 上座にある畳敷きのスペースの上で、深春と藤原は向き合って胡座をかいている。四畳ほどのそのスペースを覆うように、藤原は結界を張って深春の気の流れをじっと見つめていた。

 ぐるぐると目に見えるほどの青黒い妖気が、深春の身体を覆っている。

 目を閉じた深春のまぶたが、時折ぴくり、ぴくりと痙攣する。 

 孤独だった過去、人を殺めた過去、大人たちから浴びた理不尽な憎悪の目。

 転生してからも恵まれなかった幼少期のこと……それらを思い出しながら、しかしその記憶に呑まれる事のないように気を抑える。そういう、過酷な修行だ。まだまだ年若い深春に課すには重いものだということは分かっていたが、能登の祓い人たちの方に動きがあった以上、これを放置しておくわけには行かなくなったのである。

 すっと目を開いた深春の目は暗く、初めて陰陽寮土御門邸で見た時のように、表情のない虚ろな色をしていた。闇を映して、自分自身をも更に暗く深い絶望の淵へと沈ませていくような、そんな目をしていた。

「……休憩しようか」

 そう声をかけられても、深春の目は光を取り戻そうとはしなかった。ぽっかりと空いた空洞のような目から、すうっと一筋涙が流れだす。

 藤原は腰を浮かせて深春の両肩に触れ、軽くその身体を揺さぶった。するとようやく、深春の目線が動く。

「……あ……」
「深春くん、大丈夫か」
「……はい……」

 深春は一旦目を閉じて、濡れた頬を袖口でぐいと拭った。そして気を取り直すようにため息をつくと、深春を覆っていた青黒い妖気がすっと消える。

「大丈夫……大丈夫です」
「もう、今日はやめておこう。無理は禁物だからね」
と、藤原は穏やかに深春に向かって微笑む。深春は頭痛を堪えるように眉を寄せ、額を押さえて頷いた。

「すまないね、君にこんな重い修行をさせること……」
「いいんです。莉央さんにも、何でもやるって言ったんだ。それに、俺にとっては必要なことだと思うし」
「……そうだな」

 深春はごろりと畳の上に横になり、藤原は護符で張っていた結界術を解いた。

 今まで霞のような結界に隠れて見えなかった深春と藤原の姿が急に現れたことに、側で結界術について訓練中であった紺野や赤松らが仰天する。

「うお、藤原さんと少年やったか」
と、赤松は印を解いて二人を見比べた。紺野はこれ幸いと立ち上がり、「お茶淹れてきます」と休憩に入っていってしまった。くたびれていたのだろう。

「順調かな?」
 藤原の問に、赤松はその奥にいた成田と目を合わせ、肩をすくめた。
「ぼちぼちです。実践で使えるかどうか……もっと皆の呼吸を合わせんとあかんから」と、赤松。
「一度総員招集をかけて、訓練しないといかんな。もっとも、能登班まで呼びつけるわけに行かへんから、京都班だけでやるしかないが」
と、成田。
「そうか。まぁ、向こうは向こうで、高遠がきっちり仕切ってやってることだろうさ。藍沢もいるしな」

 藤原が高遠の名前を出した途端、赤松の表情が渋くなる。成田と藤原は、それを見て見ぬふりをした。

「藍沢……? 誰、それ」
 寝っ転がっていた深春が、聞きなれない名前に反応して首を起こした。
 藤原は一瞬、口を開きかけたが、言葉を選ぶようにはたと口をつぐむ。

「能登班のエースやで。北の佐為様と言われるほど、攻撃力も防御力も高い男や」
と、赤松が説明した。
「北の佐為様? すげぇ、めっちゃ強いんだな」
 深春は脚を振り上げて身体に反動をつけ、ひょいと起き上がってまた胡座をかいた。目の下に隈ができているが、口調は至って明るい。

「能登班では高遠の右腕やな。そういやあいつは、ずっと向こうで留守番やったか」
 赤松が成田の方を見ると、成田は苦笑して頷く。
「太陽があんまり好きじゃないからいいって言ってたらしいよ」
「相変わらず陰気な奴や」
 遠慮のない口調の赤松を、軽く成田が諌めていると、そこへ紺野が盆に茶を載せて戻ってきた。

「藍沢さんも転生者なんですよね」
「え、そうなの?」
 畳の上に茶を置かれながら、深春は紺野の生真面目そうな顔を見つめた。 
「そうですよ。須磨浮丸っていう……」
「紺野、それはもういい」

 ぴしりとした藤原の制止に、紺野ははっとして手を止めた。そして、藤原の顔を見てから、少しばかり青くなった。

「あ、そうですね……僕は余計なことを……」
「すま、うきまる? 誰?」

 一人きょとんとした深春の顔を、大人たちは誰一人見ようとはしなかった。深春は怪訝な顔をして、藤原を見る。 

「なぁ、なんだよ。みんなして……」
「私から話そう。お前たちは修行に戻りなさい」
 藤原の言葉に、皆が黙って従った。一人青い顔をしたままの紺野も、ぺこりと黙礼してそそくさと立ち上がった。

 深春は不安げな顔をして、じっと藤原を見つめている。

「……須磨浮丸は、あの土御門邸襲撃の夜、夜顔によって弟を殺害されている」 

 面々がいなくなると、藤原は静かな声でそう告げた。深春の表情が、凍りつく。

「浮丸は、真相を知らせてくれなかった我々上役を恨み、一時期祓い人側に付いて千珠さまを攻撃したこともあった。本来粛清を受けるべきだった彼は、千珠さまの嘆願によってその生命を永らえたのだ」
「……なんだよ、それ……」
「祓い人共が浮丸を釣るために使った隠された真実は、祓い人たちが知る由もないでまかせだった。しかし皮肉なことに、それは全て核心をついたものだったんだ。表向き、夜顔は千珠さまの手によって殺されたとされていたが、実際彼は君を逃し、第二の人生を与えた。それを祓い人共は、半妖の千珠さまが同族を憐れみ、お前の弟を殺した夜顔を逃したのだと、それを上層部は隠しているのだと、浮丸に話したのだ」
「……」
「祓い人たちからしたら、それは浮丸の憎しみを煽るためのただの作り話だったのだろうが、それは紛れも無い真実だった。私たちは、結局浮丸を欺き続けていたというわけだ」
「その人は……今もそのこと、覚えてんのか……?」
 深春は目を伏せ、痛ましい表情を浮かべてそう尋ねた。藤原は、小さく頷く。

「藍沢は、転生してからその真相を知ったんだ。そのことについて、今更何をする気もないと言ってはいたが……彼の気持ちまでは、読み切ることはできない」
「……じゃあ、沖縄に来なかったのは、俺に会いたくないから?」
「それもあるかもしれないが……彼はみんなでわいわいというのは好まない男だからね。本当に太陽が嫌いなんだろう。それに……きっと千珠さまの生まれ変わりにも、佐為の生まれ変わりにも会いたくはないはずだ。みんなして彼を騙していたんだからね。当然、私のことも、よくは思っていないだろう」
「……」
「しかし今きみはこうして、私達のために働いてくれているんだ。藍沢も、そのことは理解している」
「でも……」
「能登での戦いになれば、どうしても藍沢と会う機会はできてくるが、その時君は堂々としていなさい。それでいいんだ」
「……いいのかな」
「いいんだ、それで」

 深春は不安げに藤原を見上げ、穏やかな表情に微かに笑みが浮かぶのを見て、やや表情を緩めた。

 そこへ、気を遣って謝りに来たらしい紺野が、おずおずと近づいてくる。

「……あの、僕。余計なことをいいました」
「まぁいつかは言わねばならなかったことだから」
と、藤原は深春の肩に触れながらそう言う。深春は力なく微笑み、紺野を見てゆっくりと首を振った。 

「いいって、別に。紺野さんが気にすることじゃねぇよ」
「……うん」
 紺野は申し訳なさそうに眉を下げると、ぺたんと深春の隣に座り込んだ。入れ替わりに藤原が立ち上がり、便所にでも行くのか腕をぐるぐる回しながら奥へと歩き去っていく。

 深春は紺野の入れた茶を飲みながら息を吐くと、そっと紺野の生真面目な横顔を見た。
 いかにも育ちのよさそうな、お坊ちゃんだと思う。ここにいる者は、ある程度いろいろな苦労を積み重ねてここにいるのは分かるが、紺野の生い立ちと自分のそれとはきっと大きく隔たりがあるに違いないということは、安易に想像がつく。

「……紺野さんはさ、ここにいて安心するのか?」
「え?」

 気づけばそんなことを聞いていた。沖縄研修の時は、まだこの集団に不慣れで、どこか落ち着かない表情を浮かべていた紺野も、あれを経てかなりこの集団に馴染んできているように見えた。

「……安心、かぁ。そうだなぁ。うん、前よりはね」
「そっか」
「深春くんは……? もう慣れた?」
「……正直、慣れてはないけど。珠生くんとも、莉央さんとも約束したし。俺はここで頑張るって決めたんだ」
 そう言って、深春は唇をつり上げて笑って見せる。紺野はそんな深春の表情を見て、少し相好を崩した。

「そっか。そうなんだね」
「うん……」
「ご家族も、安心してるんじゃないかな。そんな力持ってたらさ、色々と心配されただろ?」

 紺野が笑顔を浮かべながらそんなことを言った。深春は一瞬、それがどういう意味か分からなかった。

「僕も、両親には結構不安定なところ見せちゃってたから……こうして今仲間がいることを、すごく喜んでくれてるしね」
「……家族」
「うん。僕には姉がいるんだけどね、昔は僕が意味分かんないことばかり言うから、喧嘩ばかりしてたけど、最近ようやく落ち着いて話ができるようになったし」
「……へぇ、良かったな」

 ぐるぐると、深春は胸の中に砂嵐が生まれるような感覚を感じていた。それは小さなものだったが、徐々に徐々に、深春の統制を離れて大きく大きく育っていく。軽い吐き気を覚えて、深春は胸を抑えた。

「父も、国家公務員なら文句ないって。昔から厳しくて、成績が落ちたりするとすぐに怒られたりしてたけど……。あれ、深春くん、どうしたの?」

 深春は吐き気を堪えながら、大きく呼吸をする。脂汗が、つうっと背中を伝うのが分かる。
 修行で揺らいでいた深春の心に、紺野の幸せそうな表情はひどく残酷に映った。自分が持ち得ない柔らかなものを、当然のようにその手にしているであろうこの男が、憎らしくて憎らしくて、仕方がなかった。


 その微笑を、切り裂いてやりたいと本気で願った。


 深春の目に、冷ややかな色がすっと光を帯びる。


「……父、ね。成績が落ちたら、怒られる、か。どんなふうに怒られるんだ? 殴られんのか?」
「え……? ううん、手を挙げられたことはなかったけど……。深春くん……?」

 深春のぎらついた冷ややかな目に、紺野が明らかに怯えているのが伝わってくる。それが分かり、深春は更に残酷な気持ちになって紺野に迫った。

「殴られたこともねぇのか。お母さん、お姉ちゃん、ね。随分と幸せそうな家庭に生まれて何よりだな。そんで国家公務員か、笑える」
「み、深春く……」

 深春の身体から、青黒い妖気がかぎろい立つのを見て、紺野が顔をひきつらせた。そんな紺野にのしかかるように、深春はぐいと紺野の顎を掴んだ。

 容赦無い深春の指に、紺野の顔が恐怖に歪む。深春はぺろりと舌なめずりをして、獲物を食らう前の肉食獣のようにすっと目を細めた。

「教えてやろうか。俺はな、小さい頃から、親父には暴力しか与えられてもらえなかった。飯も食えねぇ、風呂にも入れねぇ、薄汚い浮浪者みたいな格好したガキだったんだ。親父が連れ込んだ女のいやらしい声を聞かされながら育ってきたんだぜ? 時にはさ、俺の目の前で脚を開いて俺を誘う奴もいたくらいでさ……くくっ、まだ小学生の俺をさ、そうやって食いものにするんだ、薄汚ねぇ女がさ。信じられるか。母親と同じ性別した女が、俺にそんな事するんだ。最高だろ!?」
「や……っ」

 ぶわ、とさらに深春の妖気が大きくなる。外に煙草を吸いに出ていた赤松や成田が、ようやくその異変に気づく。

「……深春くん?」
「何やってんねん!! 紺野から離れろ!!」
 慌てて駆けつけた二人を、深春は目線だけで跳ね除けた。巨大で禍々しい妖気が瞬時に爆発し、二人は為す術もなく壁に激突した。黒い炎がじりじりと道場の中を焦がす中、二人はがっくりと項垂れて倒れ伏した。

「なりたさ……!」
 大先輩の二人が崩れ落ちるさまを、紺野は信じられない思いで見つめていた。恐怖のあまり、ぼろぼろと涙が溢れだす。

「いいよなぁ、幸せな人生だろうな。ほんっと、うぜぇよ。お前みたいな世間知らずの、くだらねぇボンボン」
「……ごめ、なさ……ぃ」
「見せてやろうか、本物の暴力をよ!! 本物の絶望を、お前に味あわせてやろうか!? あぁ!?」

 眼の色を変えて紺野に掴みかかっている深春の瞳孔が、鋭く縦に裂けた。燃えるような憎しみを肌に感じながら、紺野はただ震えて目をつむっていることしか出来なかった。

 深春の妖気が肌を焼く。無防備な紺野の心が悲鳴を上げる。

 その時、紺野の耳に凛とした男の声が響いた。

「黒城牢! 急急如律令!!」
 深春の身体を搦め捕るように、黒鉄色の牢獄が地面から生えていく。格子に腕を貫かれそうになった深春は、とっさに紺野を跳ね除けて後退するが、そこはすでに牢の中だった。

 がちゃん、がちゃん、と何重にも錠がかかる音を聞きながらも、深春の妖気が収まる気配は見られない。ぎらぎらとした憎しみの色を乗せた瞳を、術者たる藤原に向けて、深春は悔しげに歯を食いしばった。

「何すんだコラァ!! ふざけんなクソがぁぁ!! こっから出しやがれ!!」
「……牢獄だけじゃ、物足りないか」

 藤原は険しい表情を浮かべたまま、更に印を結ぶ。

「陰陽封印術、水鏡壁! 急急如律令!」
 黒い牢獄の中に、鏡のようなものでできた立方体が深春を覆う。深春は上下左右に映った自分の姿を見て、愕然としたように動きを止めた。

 そこにいるのは、まるで獣だった。

 青黒い妖気を身にまとい、縦に裂けた瞳孔、血に植えた獣のような目つきをした自分は、紛れもなく禍々しい悪鬼に見えた。

「あ……あぁあああ!!!」

 鏡に妖気を吸い取られながら、深春は頭を抱えてうずくまった。

 痛ましい表情を浮かべたまま、印を結び続ける藤原の背後から、意識を取り戻した成田が這うようにして紺野に近寄り、その身を抱き起こす。

「紺野! 大丈夫か!?」
「……あ……あぁ……」
 あまりの恐怖とショックで、紺野はガタガタと震えながら言葉を発することができないでいる。赤松は、痛む肩を押さえながら藤原の隣に歩み寄った。

「……藤原さん。これ、ただじゃ済まへんのじゃないですか」
 赤松は危険なものを用心深く見つめるような目つきで、檻の中でうずくまって泣いている深春を見下ろした。藤原もゆっくりと首を振り、ため息をつく。

「……この二人、一体何を話したんだ」
「分かりませんけど……俺らも煙草吸いに出てて……」
「……そうか」
「申し訳ありませんが、このことは常盤さんにも報告しなきゃいけません。藤原さんがこの子に目をかけているのは、分かっているんですけど……」

 言いにくそうに、成田がそう言うのを、藤原は頷いて認める。

「当然だろうな。……またこの子は、居場所を失ってしまうんだろうか……」
「俺らは何も言いませんけど……」
と、赤松。
「人の口に戸は立てられぬ。医療班に紺野を見てもらわなければならないんだ。きっと噂は広まるな」
「……そうですね」

 藤原はそっと術を解いて、うずくまったままの深春を解放した。

 縮こまって震えている深春にためらいなく近づき、藤原はそっとその身体を抱き締める。

 嗚咽を漏らし、頭を抱えて涙を流す深春を抱いたまま、暫くの間、藤原も身動ぎをしなかった。
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