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番外編
番外編『バッドエンドのその先に』
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ドアベルの音が響く。
カウンターを拭く手を止めて、僕は「いらっしゃいませ」とお客さんを迎えた。
ビル街の片隅にある小さな喫茶店には、いつもたくさんの人が訪れる。
一日働くだけで、僕がいた小さな町の人口以上の人と出会っているのではないかと思う。
初めはおどおどして接客どころじゃなかった僕も、ここで働き始めて二年が経ち、すっかり常連のお客さんたちと顔馴染みになり、親しく言葉を交わせるようになった。
病院でたまたま同室だった男性の言葉になかば飛びつくようなかたちで働き口を得、あの牢獄のような田舎町を離れた。
そして今はビルに囲まれた大きな街で、ひっそりと暮らしている。
「都亜くん、ブレンド。三番テーブルさんね」
「はーい」
この喫茶店の主である寡黙なマスター、根室さんとは病院で出会った。
山歩きを楽しむためにあの田舎町を訪れていた根室さんは、突然道に飛び出してきた猪に驚いて転倒し、軽い骨折をしてしまったという。
二、三日の入院となった病院で、抜け殻状態の僕とふたり部屋。
ただ窓の外を眺めてはときどき涙を流す僕が妙に気にかかったらしく、声をかけてくれたのだった。
経営している純喫茶に後継者がいないこと、退院したら東京に戻ること——マスターは二日目、三日目もゆったりひとりごとのように僕に言葉をかけてくれた。
そして行くあてのない僕の状況や、昔いた場所には戻りたくないことを知ってくれた。
外側の人間が身にまとう開けた空気感が心地よかった。あの町の人間ではない他人だからこそ、僕は心情を吐露できたのだと思う。
ここで出会う人々はみんな優しい。それはもう、おどろくほどに。
礼儀正しくオーダーをして、静かに食事をして、お店を出る時は「ごちそうさま」「ありがとう」「おいしかった」と言葉を添えてくれる。
誰も自分の価値観を押し付けてはこないし、根掘り葉掘り僕のプライベートを暴こうとしてくる人もいない。
皆がそれぞれに自分の時間をもっていて、適度に他人に無関心。この感じが、僕にはとても心地が良かった。
無関心ではあっても、ふと時間が交われば雑談に花が咲いたり、ちょっとした身の上話を語ってくれたり。
そのたび細い糸がより合わさっていくように、お客さんとのつながりが少しずつ太くなっていく。
この街に居場所を得たと感じることができる瞬間が、今の僕の生きる縁となっている。
自由で穏やかなこの暮らしが好きだ。
あの小さな町を飛び出して本当によかった。
でも、僕の胸には常に消えない翳りがある。
眠っている間に見ていた夢のような日々を。
愛する人のそばで笑っていられた幸せを想うたび、僕は心で涙を流す。
◇
僕には生涯をかけて愛し抜いた恋人が——いや、家族がいた。
彼との人生を全うし死の床についた僕は……ふたたび牧田都亜として、生まれ育った田舎町の病院で目を覚ました。あの事故から三年が経っていた。
幸せで、充実した数十年。
愛に満ちた賑やかな日々。それは全部夢だったのか?
全て覚えているのに。ついさっきまで、そこで僕の手を握っていた彼の姿が瞼の裏にまだ焼き付いているのに、あれは全部僕が夢見た妄想の世界だったのかと絶望した。
これ以上のバッドエンドがこの世界にあるのだろうかと、存在するはずのない神を呪った。
彼は人ならざるもので、僕はただの人間だった。
寿命に大きな差があることはもともとわかっていた。
僕らは一日一日を大切に生きた。その日々は穏やかで、僕らはとても幸せだった。
一緒に暮らしていた狼獣人の彼らにも年々家族が増え、小さな吸血鬼の彼にもつれあいができた。
賑やかで、幸せで、満ち足りた日を送っていた。
だから不安はなかった。彼を置いて死ぬことに。
ヴァルはもう孤独じゃない。ひとりじゃない。
だから安心して逝ける。次に会うときは天国かな——……なんて言葉を交わしながら最期のときまで笑い合い、彼の手を握って僕は死んだ。
とても、しあわせな最期だった。
——なのにまたこの人生に戻ってきてしまった。
絶望してもしきれない。
僕はもう一度死のうと考えた。
でも、抜けるように青い青空を見上げたとき、僕はふと思い出したのだ。
彼との約束を。
ざ……ざぁん……と、規則正しく寄せては返す波の音が心地良い。
「はぁ……着いた」
電車を乗り継いで二時間ほど。ここは僕のお気に入りの場所だ。白い砂浜がどこまでも長く伸びている。
真夏の太陽の下では白くまばゆく輝くこの砂浜も、真冬の今はどことなく灰色めいて見える。
だけど、空と海を染める深い青だけは、今日もすこぶる鮮やかだ。
風が僕の髪をめちゃくちゃに吹き乱す。
ひどく冷たい海風だが、暖房の効いた電車で火照った頬に心地が良かった。
遠い海の向こうから運ばれてきた海風のうねりに身を任せ、目を閉じて深呼吸をした。
まだなににも汚されていない潮風を胸いっぱいに吸い込んだあと、ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま空を仰いだ。
ここは祖母の墓参りの帰り道に、たまたま車窓から見えて心惹かれた場所だった。
空と海の曖昧な境界に浮かぶ夕陽があまりにも美しく、吸い寄せられるように電車を降りて、太陽が波間に消えるまで海を眺めた。
あの田舎町を捨ててきた日のことだ。
これが最後の墓参りになるかもしれないと祖母に謝り、その足で電車に乗った。
その時見つけたこの海の風景が妙に心に残っていて、僕は時折ここに足を運ぶ。何か辛いことがあったからというわけではない。ただ、不意にこの景色が見たくなるからだ。
——『いつか、一緒に見れたらいいな』
とある夜。
月光に照らされた僕の瞳を覗き込みながら、彼は微笑みとともにそう言った。
日の光に当たることのできない彼が決して目にすることができないもの——色鮮やかな海をいつか一緒に見られたら……そう言葉を交わした夜があった。
今の僕の瞳の色は、何の変哲もないただの焦茶色だ。
でも、目覚める前の僕の瞳は澄んだ空色をしていた。
僕の瞳から青空や海の色を想像しようとする彼がいじらしく、とても愛おしかった。
どうにかして見せてあげることはできないだろうかと、本気で頭を悩ませたものだった。
あの時感じたあらゆる気持ちを覚えているのに、ここにいる僕は『トア』ではなかったのだろうか。
本当にただの夢だったのだろうか。
たまたま目についた流木に腰掛けてさざなみの音を感じながら目を閉じる。
するとまた一筋の涙が、僕の頬を滑り落ちていく。
——トア。
ふと、潮騒の中に懐かしい声が聞こえた気がした。
抱えた膝に額をこすりつけて嗚咽を堪えていた僕はゆっくりと顔を上げ、濡れた頬を冷たい指先でぐいと拭う。
耳を澄まして青い水面を眺めるも、聞こえるのはびゅうびゅうと容赦のない風の音だけ。
僕はもう一度目を擦って立ち上がり、もう一度深く息をした。白くけぶる吐息が、風に吹かれて消えていく。
「……寂しすぎて、とうとう幻聴が聞こえるようになっちゃったのかな」
あえて声に出してそう呟いてみると、自嘲の笑みがこぼれた。
今の暮らしに不満はない。穏やかな人々に囲まれながら働くことができて幸せだ。
だけどふとひとりになったとき、僕は前世——と表現したらいいのかわからないが、病院で目を覚ます前に生きた人生の美しさを思い出してしまう。
あたたかくて優しい、素晴らしい毎日。愛おしい人々に囲まれたかけがえのない日々を。
だけど今の僕は孤独だ。
牢獄のような故郷を飛び出してもなお、僕は孤独だった。
ひとりではないけれど、独り。
心にぽっかりと空いたうろが満たされることはない。
——……ヴァルに、会いたい。
あの小説を開けばヴァルに会えるのかもしれない。
でも、僕のスマホの中にあるデジタルデータの中に描かれた彼は、ヴァルフィリスであっても彼ではない。
目を覚まして以来、僕は本という本を全て捨てた。フィクションの中に描かれた恋物語があまりにも眩しくて、遠い。
「ヴァル……どこにいる? どうやったら、もう一回会える?」
もう一度死ねばいいのだろうか。もう一度この命を手放せば、彼に会えるのだろうか。
でも、自らこの命を捨てることはどうしてもできなかった。
自分で自分を殺してしまえば、あの幸せな日々が無になってしまう気がして、できなかった。
教えてもらった大切な愛が、どす黒いものに染まって消えてしまうのが恐ろしくて。
——ヴァル。アンル。リルベル。……会いたい、皆に、会いたい。
胸に当てた手を拳にして、僕は長く息を吐き俯いた。
……わかっている。こんなところでメソメソしていても意味がないことくらいわかっている。
僕にできることは、新しく得た人生を静かに生きていくことだけ。
彼らとの記憶を胸に抱いて、生きていくことだけだ。
——トア。
だけどまた、あの声が聞こえた。
大好きだった声。忘れられない声。甘くて低い、僕の名前を呼ぶ愛しい声——……
そのとき、視界の端でなにかが動いた。
つと視線を動かしてみると……波打ち際に立つ一人の男の姿が目に止まる。
スラリとした長身に、プラチナブロンドの短い髪がきらりと光る。
真っ黒なコートにダークグレイのマフラーを巻いた身なりのいい西洋風の男の人が、僕と同じように寂しげに海を見つめている。
ドクン……と、心臓が震えた。
見知らぬ西洋人の横顔にひどくなつかしい面影を垣間見たような気がして、胸が騒いだ。
不躾に見ていては失礼だ、やめなくてはと思うのに、視線を剥がすことがどうしてもできない。
——トア。
また聞こえた。今度は確かに、はっきりと彼の声が。
ふらふらと足が動く。吸い寄せられるように、波打ち際に立つ男のもとへ。
ざ……ざ……と砂を踏見しめながら進む。
そのとき、男の視線が僕を捉えた。
美しい人だった。
透き通るように白い肌と、冬の日本の海よりも数段明るい色をした淡い青色の瞳。
年齢は二十五歳の僕と同じか、少し下のように見える。目鼻立ちは端整で彫りが深く、髪と同じ色をした長いまつ毛が、彼の表情に言いようのない色気を醸し出している。
僕を見つめる空色の瞳の表情に、なぜだか郷愁をくすぐられる。
見たこともない人なのに、胸の奥から少しずつ少しずつ、なにか熱いものが込み上げてくる。
唐突に湧き上がった予感に、ばくばくと心臓が暴れはじめる。胸が痛むほどに。
冷たく凍りついていた胸に、手足に、指先に、熱が回り始め——……さっきまで僕の頬を濡らしていた冷たい雫とは違う熱い涙が、新たに僕の眦を伝った。
相手もまた、探るように僕の瞳を覗き込んでいる。僕のなかにひそんでいるなにかを追い求めるように、なにかを手繰り寄せるように……。
「……トア」
「あ……ああ」
彼の唇が小さく動きその名前を口にしたその瞬間、僕の予感は確信へと姿を変えた。
喘ぐように彼の名を呼ぶ。
その瞬間、憂の翳りを帯びていたかに見えた彼の青い瞳が涙で覆われ、宝石のように輝いた。
力強く抱きすくめられた腕の中で、僕は声を上げて泣いた。
僕を抱く彼の腕も震えている。
バッドエンドを迎えたかに思えていた僕の物語に、ふたたび柔らかな光が差す。
『バッドエンドのその先に』 終
カウンターを拭く手を止めて、僕は「いらっしゃいませ」とお客さんを迎えた。
ビル街の片隅にある小さな喫茶店には、いつもたくさんの人が訪れる。
一日働くだけで、僕がいた小さな町の人口以上の人と出会っているのではないかと思う。
初めはおどおどして接客どころじゃなかった僕も、ここで働き始めて二年が経ち、すっかり常連のお客さんたちと顔馴染みになり、親しく言葉を交わせるようになった。
病院でたまたま同室だった男性の言葉になかば飛びつくようなかたちで働き口を得、あの牢獄のような田舎町を離れた。
そして今はビルに囲まれた大きな街で、ひっそりと暮らしている。
「都亜くん、ブレンド。三番テーブルさんね」
「はーい」
この喫茶店の主である寡黙なマスター、根室さんとは病院で出会った。
山歩きを楽しむためにあの田舎町を訪れていた根室さんは、突然道に飛び出してきた猪に驚いて転倒し、軽い骨折をしてしまったという。
二、三日の入院となった病院で、抜け殻状態の僕とふたり部屋。
ただ窓の外を眺めてはときどき涙を流す僕が妙に気にかかったらしく、声をかけてくれたのだった。
経営している純喫茶に後継者がいないこと、退院したら東京に戻ること——マスターは二日目、三日目もゆったりひとりごとのように僕に言葉をかけてくれた。
そして行くあてのない僕の状況や、昔いた場所には戻りたくないことを知ってくれた。
外側の人間が身にまとう開けた空気感が心地よかった。あの町の人間ではない他人だからこそ、僕は心情を吐露できたのだと思う。
ここで出会う人々はみんな優しい。それはもう、おどろくほどに。
礼儀正しくオーダーをして、静かに食事をして、お店を出る時は「ごちそうさま」「ありがとう」「おいしかった」と言葉を添えてくれる。
誰も自分の価値観を押し付けてはこないし、根掘り葉掘り僕のプライベートを暴こうとしてくる人もいない。
皆がそれぞれに自分の時間をもっていて、適度に他人に無関心。この感じが、僕にはとても心地が良かった。
無関心ではあっても、ふと時間が交われば雑談に花が咲いたり、ちょっとした身の上話を語ってくれたり。
そのたび細い糸がより合わさっていくように、お客さんとのつながりが少しずつ太くなっていく。
この街に居場所を得たと感じることができる瞬間が、今の僕の生きる縁となっている。
自由で穏やかなこの暮らしが好きだ。
あの小さな町を飛び出して本当によかった。
でも、僕の胸には常に消えない翳りがある。
眠っている間に見ていた夢のような日々を。
愛する人のそばで笑っていられた幸せを想うたび、僕は心で涙を流す。
◇
僕には生涯をかけて愛し抜いた恋人が——いや、家族がいた。
彼との人生を全うし死の床についた僕は……ふたたび牧田都亜として、生まれ育った田舎町の病院で目を覚ました。あの事故から三年が経っていた。
幸せで、充実した数十年。
愛に満ちた賑やかな日々。それは全部夢だったのか?
全て覚えているのに。ついさっきまで、そこで僕の手を握っていた彼の姿が瞼の裏にまだ焼き付いているのに、あれは全部僕が夢見た妄想の世界だったのかと絶望した。
これ以上のバッドエンドがこの世界にあるのだろうかと、存在するはずのない神を呪った。
彼は人ならざるもので、僕はただの人間だった。
寿命に大きな差があることはもともとわかっていた。
僕らは一日一日を大切に生きた。その日々は穏やかで、僕らはとても幸せだった。
一緒に暮らしていた狼獣人の彼らにも年々家族が増え、小さな吸血鬼の彼にもつれあいができた。
賑やかで、幸せで、満ち足りた日を送っていた。
だから不安はなかった。彼を置いて死ぬことに。
ヴァルはもう孤独じゃない。ひとりじゃない。
だから安心して逝ける。次に会うときは天国かな——……なんて言葉を交わしながら最期のときまで笑い合い、彼の手を握って僕は死んだ。
とても、しあわせな最期だった。
——なのにまたこの人生に戻ってきてしまった。
絶望してもしきれない。
僕はもう一度死のうと考えた。
でも、抜けるように青い青空を見上げたとき、僕はふと思い出したのだ。
彼との約束を。
ざ……ざぁん……と、規則正しく寄せては返す波の音が心地良い。
「はぁ……着いた」
電車を乗り継いで二時間ほど。ここは僕のお気に入りの場所だ。白い砂浜がどこまでも長く伸びている。
真夏の太陽の下では白くまばゆく輝くこの砂浜も、真冬の今はどことなく灰色めいて見える。
だけど、空と海を染める深い青だけは、今日もすこぶる鮮やかだ。
風が僕の髪をめちゃくちゃに吹き乱す。
ひどく冷たい海風だが、暖房の効いた電車で火照った頬に心地が良かった。
遠い海の向こうから運ばれてきた海風のうねりに身を任せ、目を閉じて深呼吸をした。
まだなににも汚されていない潮風を胸いっぱいに吸い込んだあと、ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま空を仰いだ。
ここは祖母の墓参りの帰り道に、たまたま車窓から見えて心惹かれた場所だった。
空と海の曖昧な境界に浮かぶ夕陽があまりにも美しく、吸い寄せられるように電車を降りて、太陽が波間に消えるまで海を眺めた。
あの田舎町を捨ててきた日のことだ。
これが最後の墓参りになるかもしれないと祖母に謝り、その足で電車に乗った。
その時見つけたこの海の風景が妙に心に残っていて、僕は時折ここに足を運ぶ。何か辛いことがあったからというわけではない。ただ、不意にこの景色が見たくなるからだ。
——『いつか、一緒に見れたらいいな』
とある夜。
月光に照らされた僕の瞳を覗き込みながら、彼は微笑みとともにそう言った。
日の光に当たることのできない彼が決して目にすることができないもの——色鮮やかな海をいつか一緒に見られたら……そう言葉を交わした夜があった。
今の僕の瞳の色は、何の変哲もないただの焦茶色だ。
でも、目覚める前の僕の瞳は澄んだ空色をしていた。
僕の瞳から青空や海の色を想像しようとする彼がいじらしく、とても愛おしかった。
どうにかして見せてあげることはできないだろうかと、本気で頭を悩ませたものだった。
あの時感じたあらゆる気持ちを覚えているのに、ここにいる僕は『トア』ではなかったのだろうか。
本当にただの夢だったのだろうか。
たまたま目についた流木に腰掛けてさざなみの音を感じながら目を閉じる。
するとまた一筋の涙が、僕の頬を滑り落ちていく。
——トア。
ふと、潮騒の中に懐かしい声が聞こえた気がした。
抱えた膝に額をこすりつけて嗚咽を堪えていた僕はゆっくりと顔を上げ、濡れた頬を冷たい指先でぐいと拭う。
耳を澄まして青い水面を眺めるも、聞こえるのはびゅうびゅうと容赦のない風の音だけ。
僕はもう一度目を擦って立ち上がり、もう一度深く息をした。白くけぶる吐息が、風に吹かれて消えていく。
「……寂しすぎて、とうとう幻聴が聞こえるようになっちゃったのかな」
あえて声に出してそう呟いてみると、自嘲の笑みがこぼれた。
今の暮らしに不満はない。穏やかな人々に囲まれながら働くことができて幸せだ。
だけどふとひとりになったとき、僕は前世——と表現したらいいのかわからないが、病院で目を覚ます前に生きた人生の美しさを思い出してしまう。
あたたかくて優しい、素晴らしい毎日。愛おしい人々に囲まれたかけがえのない日々を。
だけど今の僕は孤独だ。
牢獄のような故郷を飛び出してもなお、僕は孤独だった。
ひとりではないけれど、独り。
心にぽっかりと空いたうろが満たされることはない。
——……ヴァルに、会いたい。
あの小説を開けばヴァルに会えるのかもしれない。
でも、僕のスマホの中にあるデジタルデータの中に描かれた彼は、ヴァルフィリスであっても彼ではない。
目を覚まして以来、僕は本という本を全て捨てた。フィクションの中に描かれた恋物語があまりにも眩しくて、遠い。
「ヴァル……どこにいる? どうやったら、もう一回会える?」
もう一度死ねばいいのだろうか。もう一度この命を手放せば、彼に会えるのだろうか。
でも、自らこの命を捨てることはどうしてもできなかった。
自分で自分を殺してしまえば、あの幸せな日々が無になってしまう気がして、できなかった。
教えてもらった大切な愛が、どす黒いものに染まって消えてしまうのが恐ろしくて。
——ヴァル。アンル。リルベル。……会いたい、皆に、会いたい。
胸に当てた手を拳にして、僕は長く息を吐き俯いた。
……わかっている。こんなところでメソメソしていても意味がないことくらいわかっている。
僕にできることは、新しく得た人生を静かに生きていくことだけ。
彼らとの記憶を胸に抱いて、生きていくことだけだ。
——トア。
だけどまた、あの声が聞こえた。
大好きだった声。忘れられない声。甘くて低い、僕の名前を呼ぶ愛しい声——……
そのとき、視界の端でなにかが動いた。
つと視線を動かしてみると……波打ち際に立つ一人の男の姿が目に止まる。
スラリとした長身に、プラチナブロンドの短い髪がきらりと光る。
真っ黒なコートにダークグレイのマフラーを巻いた身なりのいい西洋風の男の人が、僕と同じように寂しげに海を見つめている。
ドクン……と、心臓が震えた。
見知らぬ西洋人の横顔にひどくなつかしい面影を垣間見たような気がして、胸が騒いだ。
不躾に見ていては失礼だ、やめなくてはと思うのに、視線を剥がすことがどうしてもできない。
——トア。
また聞こえた。今度は確かに、はっきりと彼の声が。
ふらふらと足が動く。吸い寄せられるように、波打ち際に立つ男のもとへ。
ざ……ざ……と砂を踏見しめながら進む。
そのとき、男の視線が僕を捉えた。
美しい人だった。
透き通るように白い肌と、冬の日本の海よりも数段明るい色をした淡い青色の瞳。
年齢は二十五歳の僕と同じか、少し下のように見える。目鼻立ちは端整で彫りが深く、髪と同じ色をした長いまつ毛が、彼の表情に言いようのない色気を醸し出している。
僕を見つめる空色の瞳の表情に、なぜだか郷愁をくすぐられる。
見たこともない人なのに、胸の奥から少しずつ少しずつ、なにか熱いものが込み上げてくる。
唐突に湧き上がった予感に、ばくばくと心臓が暴れはじめる。胸が痛むほどに。
冷たく凍りついていた胸に、手足に、指先に、熱が回り始め——……さっきまで僕の頬を濡らしていた冷たい雫とは違う熱い涙が、新たに僕の眦を伝った。
相手もまた、探るように僕の瞳を覗き込んでいる。僕のなかにひそんでいるなにかを追い求めるように、なにかを手繰り寄せるように……。
「……トア」
「あ……ああ」
彼の唇が小さく動きその名前を口にしたその瞬間、僕の予感は確信へと姿を変えた。
喘ぐように彼の名を呼ぶ。
その瞬間、憂の翳りを帯びていたかに見えた彼の青い瞳が涙で覆われ、宝石のように輝いた。
力強く抱きすくめられた腕の中で、僕は声を上げて泣いた。
僕を抱く彼の腕も震えている。
バッドエンドを迎えたかに思えていた僕の物語に、ふたたび柔らかな光が差す。
『バッドエンドのその先に』 終
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番外編では。
・もふもふ獣人化
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・少年時代
などなど
最初は、推しの信頼を得るために、ほのぼの日常スローライフ、かわいい黒猫が出てきます。中盤にバトルがあって、解決、という流れ。後日譚は、ほのぼのに戻るかも。本編は完結しましたが、後日譚や番外編、ifルートなど、続々更新中。
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※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
餡玉先生……💕
まさか!トアくんがお独りで、戻って来られていたとは😣
年齢差はどうしようもないですものね💧
でも、バッドエンドのその先に…?
愛おしい彼とのハピエンが、ですね😭
トアくんとヴァル様の愛のお力ですね🤤
本当に🙏素敵な番外編をありがとうございました🩷
ikuさま
ご感想ありがとうございます!
番外編も読みにきてもらえて嬉しいです☺️
異世界に転生することがあるのなら、向こうで死んだらまた現実に戻ることもあるのでは……と思いまして、こういう番外編になりました。
愛の力でこちらの世界でも再会できたので、バッドエンドのつづきは幸せな日々が始まりますね✨
その後のお話、ありがとう。
記憶が残っている分、ある意味バッドエンドに思えちゃうよね。でも会えたね。たとえ外見は変わっていてもお互いの心が求め合って再会を果たしたのかな。よかったぁ。
yuーchiさま
ご感想ありがとうございます✨
番外編も読みにきてくれてありがとう!
こんな、ラストの続き、みたいなものもあるかなぁと思って書いてみたよ。
現実世界での二人も、これからは幸せに生きていけるね🥹
初めて投稿させていただきます。トア君とヴァル君、幸せになってよかった。両方の作品が好きです。ただ気になるのが、20話21話はもしかして同じ内容ではないでしょうか。読み進めていてアレっとなりまして。。。間違えておりましたらすみません。
この作品ではないのですが鬼のお話。名前失念すみません。また読みたいと思っていますのでお忙しいとは思いますが公開お願いします!!
花ふぶき様
ご感想をお寄せいただきありがとうございます😊
両方好きと言ってもらえて嬉しいです✨
ありがとうございます🙇
そしてご指摘の場面、修正いたしました。
ご確認いただけますと幸いです。
そして、鬼の話をまた読まれたいとのこと、ありがとうございます😊
全年齢化して公募に出そうかと考え非公開としていましたが、そちらが全く違う話になってきたので、近々再公開しようと思います。
どうぞよろしくお願いします🙏