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そこは今までの車両とはまるで様子が違っていた。
食堂車、だろうか。場違いな所に踏み込んでしまった、そんな気がした。
狭い空間に効率的に詰め込まれたイスやテーブルは、効率とはかけ離れた豪奢な意匠で、まるで高級レストラン。クラシック音楽でも聞こえてきそうな雰囲気だった。でも、実際には音楽どころか楽しげな会話のひとつもなく、料理が並べられたテーブルは一つだけ。他はすべて空席だった。飾り立てられた席も、主がいないと無性に寂しげに見える。
そのただ一つのテーブルには、天使と、お祖父さん。二人の手にはお酒の入ったグラスがあった。
二人の視線がこちらに向けられる。男の瞳は、相変わらず翳りの中に妙に幼げな雰囲気が隠れ、対するお祖父さんの瞳は、記憶の中の優しげな雰囲気は薄れ、なんだか虚ろな様子だった。
そのことにはこれまでの道中で既に気づいていたのに、気づいていない振りをしていた。でも、この瞬間、はっきりと分かってしまった。もう、お祖父さんに残された時間はわずかなのだ。いや、本当はもう、時間なんて残っていないのだ。私が駄々をこねる子どもみたいにお祖父さんの袖を引っ張って、無理矢理ここに留めているだけだった。
「悪いけれど、君の分はないんだ」
私は何も言っていないのに、男はそう言った。そんなつもりはなかったのに、そう言われるとお腹が空いたような気もする。夕飯はちゃんと食べたのに。ちゃんと、という程のものでもなかったかもしれないけれど。夜はお腹が空くんだろうか。私はあまり徹夜というのをしたことがないから分からないけれど、いつもなら寝ているはずの時間に起きているというのは、余計にエネルギーを使うものなのかもしれない。
くう、とお腹が惨めな鳴き声を上げた。聞こえてしまっただろうか。私は頬が熱くなるのを感じながらお腹を押さえた。
「ケチくさいんだな、天使って」
少年が私の後ろからひょこっと出てきて、お皿の料理を手づかみでさらっていった。行儀の良い子だとは思っていなかったけれど、さすがにちょっと無作法なのではとハラハラする。
私の気も知らずに、少年は脂の付いた指をぺろぺろと舐めながら、もごもごとした口調で言った。
「アンタ、天使なんだろ」
自称天使は片手を額に、片手を腰にやり、溜息を吐いた。
「ねえ、この子も一緒に行っていい?」
私の問い掛けに、男は深刻そうな顔つきで首を横に振った。
そもそも彼は私がここにいることも認めていないのだ。わざわざ了承を得ようとするなんて、どうかしていた。私がそうして来たように、彼が勝手にそうすることを、誰に止めることができるだろう。
「お前も食えば?」
少年は私の前に料理の乗った皿を突き出した。
「だめだ」
彼の厳めしい声というのを、私はこの時に初めて聞いた。少年はおどけた調子で肩をすくめ、皿をテーブルの上に戻す。ついでにひょいと別の皿の料理をつまんで、口に運ぶ。男の口からまた溜息が漏れた。
「座席に戻っていてくれないか。片付けを済ませたら、私も行くから」
溜息を吐くのと同じような調子で、男は私の方を見ずに言った。こんな立派な食堂車なのに、後片付けを自分でやらなくちゃいけないなんてことがあるだろうか。テーブルの片付けなんて係の人がやってくれそうなものなのに。そう思って車内を見渡して、確かにこの列車には私たち以外の人はいないようだと思う。
「それなら、私も手伝う」
「いや、いいんだ」
男はすっかり板に付いた困り顔で、私を見た。何度となく彼にそんな顔をさせてきた私は、今度もやっぱり何だか小さな罪悪感を覚えて、今回は私が悪いことをしたわけではないのだけれど、だからこそ、私は頷いた。
「これ、ありがとう」
手に持っていた上着のことを思い出し、男に返す。彼の顔に淡い笑みが浮かんだように見えた。それはどこか寂しげな笑みだった。もっとも彼の顔にはいつでも憂いが滲んでいるように見えるのだけれど。
もと来た車両へ戻り、振り返ると、少年が男に呼び止められ、何か話している。向こうの車両の扉が、ぴしゃりと閉じられた。彼らと私の間を、扉が隔てる。私は馬鹿みたいに呆然としていた。
重たい金属が擦れるような、耳障りな音。何が起こったのか、すぐには分からなかった。私はまだ乗ってきた車両の扉を片手で押さえていた。私も、向こうの車両の二人も、その場から動いていないはずなのに、その距離がゆっくりと離れ始める。
車両の連結が外れたのだと、のろのろと理解する。私の脳味噌は恐ろしく緩慢な働きをしていた。隔たりはまだ小さい。今ならまだ、向こうの車両に飛び移ることができるだろう。ようやくそこまで思考しても、私の足は床から一ミリも離れない。
扉の向こうで少年が喚き、男が少年を諭しているような様子が見える。少年は制止を振り切って、勢いよく扉を開け、身を乗り出す。どうするつもりだろう。
男は少年の肩に掛けた手に力を込め、彼を振り向かせると、黙って首を左右に振った。二人はしばし見つめ合っていたかと思うと、不意に少年が男の手を振り払い、こちらの車両に飛び移ってきた。
その瞬間、私は悲鳴を上げていたと思う。
車両の間の距離は徐々に広がりつつあった。もう私では跳べる自信がない。でもそれは私の場合で、彼は危なげなく跳んだのに、何を思ったのか私は、少年を受け止めなくてはと思い、その着地点に立って手を伸ばしていた。
せめてあと一歩でも横にずれるなり後ろに下がるなりしていたら、少年も私の手をつかめたかもしれないのに、どうにも私の立った位置が悪過ぎて、少年も私に向かって手を伸ばしはしたものの、二人の手が触れることはなく、私たちは正面から衝突して、もつれるように倒れ込んだ。
「ごめん」
慌てたように頭を起こし、少年は言った。
「どうしてごめんなの?」
私が余計なことをしただけで、彼は何にも悪くなかったのに。なんだかおかしくなって、私たちは顔を見合わせて笑った。それから自分が置き去りにされた現実を思い出す。お祖父さん達を乗せた列車は、闇の中へと溶けて行き、私たちを乗せた車両は、ゆるゆるとスピードを落とし、やがて止まった。
天使は消えた。お祖父さんを連れて行ってしまった。
今や私を導いてくれるものは、どこへ続いているとも知れない線路だけだった。先へ行ってしまった二人に追いつくことは無理でも、この線路の行き着く先が同じであるなら、同じ場所へはたどり着けるはずだ。その果てしなくも思える道程を私の非力な足で歩いて行くことが現実的であるかどうかはともかく。
互いに掛ける言葉を持たず、私たちは並んでただただ闇に伸びる線路を見つめていた。夜気にさらされて冷えた身体をぶるりと震わせた時、ようやく少年が口を開いた。
「少し、休もうか」
扉を閉めようと、手を掛ける。でも、私は迷っていた。確かに、疲れてはいた。少し眠りたい。世界はまだ闇の中、朝は遠いのだ。起きている、ただそれだけで、体力は消耗する。そんなのは当たり前のことなのかもしれないけれど、私は今日、初めてそれを実感したのだった。
少年の言うように、少し休んだ方がいいのかもしれない。いまさら急いだところでどうなるものでもないし、これからどれほど続くかも分からない道程を思えば、無理はしない方がいい。休める時に休んでおくべきだ。
それでも、どうしても怖かった。もし、目を覚ました時に、少年まで消えてしまっていたら――。
不安だった。
私はか弱く、一人では何もできない。情けないけれど、それが事実だった。
「……行こう」
扉を閉めようとする少年の手をつかむ。声がかすれていた。
「行くって……」
「この線路をたどって行くの。行ける所まで行くの」
「でも、暗くて、危ないよ」
少年は私を気遣ってくれていた。そんなことは分かっている。でも、私はどうしようもなく身勝手で、小心者だった。今は何よりも、立ち止まることが怖い。怖いのだ。不安でたまらない。
「暗いから、行くの。夜が明けてもそこに線路があり続けるとは限らないんだよ」
そうだ。今ここで眠ってしまって、夜が明けて、消えてしまうのは、少年だけではないかもしれない。列車も、線路も、朝の光に溶けて消えてしまうかもしれない。全ては私の見ていた夢だったなんて、そんな結末は嫌だった。
「行くの。進むのよ」
「……わかった」
私の目茶苦茶な論理に、少年は頷いた。私の主張に納得してくれたのかどうかは分からない。いや、納得なんてできないだろう。それでも彼は頷いたのだった。多分、私が一緒に行こうと言ったから。彼もそう決めたから。誰かの人生に自分が関わっているのだという実感は、何だか胸がむずむずして落ち着かなかった。
停止した車両から飛び降りる。普段はホームから乗り降りをするから気にしたこともなかったけれど、電車というのは意外と背が高いのだと気づく。気にしていなければ気がつかないことというのは、思いの外たくさんあるようだった。
線路の上は歩きにくい。歩くようにつくられてはいないのだから、当然だ。だからといってあまり線路から離れてしまうと、道を見失ってしまいそうで怖かった。私たちはどうしてもこの道を見失うわけにはいかない。その不安から、線路の上を離れられなかった。
私がじゃりじゃりと敷石を鳴らして歩くのに対して、少年の足音はずっと静かだった。この細いレールの上を、踏み外しもせずに歩いているらしい。不意に本当に少年がついて来ているのか不安になった。彼は私のせいで電車から飛び降りて、私のせいでこんな足元もよく見えない中、こんな歩き難いところを歩かされているのだ。
後ろめたいような気分でしばらくは無言で歩いていたものの、ちょっと心細くなってしまったのかもしれない。その存在を確かめたくなって、後ろをついて来ているはずの少年に声を掛けた。
「ねえ、どうして私と残ったの」
「俺は、もともとあの列車を降りるつもりだったんだ」
私のためじゃない。そう思うと、少しだけ気が楽になった。私には、誰の人生にも責任を持てないから。向こうも分かっていて言ったのだろう。私はついその優しさに甘えてしまう。
結局それ以上の会話が続くこともなかった。
どこまでも続く暗闇の中、チカチカと瞬く明かりがあった。駅だ。改札と待合室だけみたいな小さな駅。ホームに一本だけ電灯が立っている。それが切れかけて瞬いているのだった。
まるで闇の中にぽっかりと浮かんだ島のようだ。ホームの端に腰かけて、足をぶらぶらさせている女の子の存在に気づく。
明滅する電灯の明かりに浮かび上がるのは、やけに細い手足に、お風呂上りなのかしっとりと水気を帯びた長い髪の、同年代くらいの少女。相手が年齢の近い少女だったからといって安心できるものではないけれど、少しだけ気が緩んだのは確かだ。
私たちは人に咎められても仕方がないようなことをしていた。子どもがこんな時間にというのもそうだし、線路の上を歩いているというのもまずい。けれど、私たちが咎められるのなら、彼女も同罪のはずだった。そう思い、何事もなく行き過ぎることができるのを期待しながら、いざとなったらいつでも走り出せるように体中に緊張をみなぎらせ、精いっぱい平静を装って、行き過ぎようとする。なのに、彼女は声を掛けてきた。
ああ、声を掛けられてしまった。関わりたくないなら無視すればいいのに、本当ならその瞬間に駆け出す準備をしていたはずなのに、その奇妙な問い掛けに、思わず足を止めてしまった。
「ねえ、私はまだ、生きている?」
その顔立ちはきっと整っていると言える方だろう。しかし、痩せこけた頬や、目の下の隈、不健康そうな顔色などのせいで、あんまり美人には見えなかった。
「コンクリートって冷たいんだねえ。お尻が冷えちゃったよ」
そう言って少女は、ぴょん、とホームを飛び降り、ちょっとふらつきながら私の前に立った。膝に手をついて、私の顔を覗き込む。何となく嫌な感じがした。
「あなたたち、何をしているの」
「あなたこそ、何をしているの」
私は精一杯に虚勢を張って反問した。
「電車を、待っていたんだ。でも、止まらずに行ってしまった。私がいるのに気づかなかったのかな」
お祖父さんたちを乗せた電車だろうか。
「私を迎えに来たのかと思ったのに、違ったのかなあ」
「お前、それがどんなモノだかわかってて言ってんのか」
「そのつもりだけど」
「俺、こいつキライだ」
「君はそうかもね」
青白い顔の少女は表情が読み難かった。細い顎、こけた頬。きっと表情をつくる筋肉まで削げ落ちてしまっているんだ。
「でも、あなたは違うよね」
彼女は私の耳元へ顔を寄せて囁く。こめかみに触れる息に、背筋がぞわりとした。私が退こうとする前に、彼女はふっと体を離す。
「ねえ、私も一緒に行っていいかな」
「俺はイヤだ」
すぐさま少年は反応したけれど、私には何も言えなかった。だってそれは、私が許可することではないから。少年が何か言いたそうに私を見ても、勝手についてくるものはどうしようもない。私たちだってそうなんだから。
少年のむっつりした顔には気づかない振りをして、先に歩き出した少女の後について行く。後をついて行くつもりではなくても、道が一緒なのだから仕方がない。彼女の後について行くのがどうしても嫌なら自分が先頭に立てばいいのに、少年はそうしない。
「ところで、君たち二人はどういう関係なの」
そんなことを聞かれても困る。何と説明したらいいのだろう。
「たまたま一緒になっただけ……」
私は結局そう答えた。ちらと少年を見ると、やっぱり不機嫌そうな様子だった。彼は彼女と会話する気がないのだろう、まるでそっぽを向いている。
「どうしてそんなこと聞くの」
「だって気になるよ。変わった組み合わせだもの」
「そういうこと聞くの、失礼だって思わないのか」
俺たちと一緒に行こうというなら分かるだろ、と少年の厳しい声。詮索するな、と。
「それは申し訳なかったね」
まるで感情のこもっていない声。なんというか、表情のない声、感情の表現の仕方を知らないみたいな、知らないというか、教科書を音読するような感じ、ただ読んでいるだけ、声にしているだけ、というような。
ここまでどんなに大変な思いをしてきたのかも、彼女は知らないのだ。ここまで来るのにどれだけ歩いたか。それでも彼女は一緒に来るつもりなのだろうか。
空にはまばらに星。青白い月の明かりは、私たちの行く先を照らし出してはくれない。この夜は今、まだ深まっている最中なのだろうか。それとも、もう明けていく中途なのだろうか。この夜はいつまで続くのか。このままずっと明けない夜を旅する不安と、いっそこのまま夜がいつまでも続けばいいのにという希望がないまぜになっている。
私はうつむいてひたすら線路をたどるのに没頭していた。どこまで行くのかとか、どれくらい時間が経ったかとかいうことは、努めて考えないようにしていた。
前を歩く少女は、ふらふらしながらレールの上を歩いている。そのせいか、少年はレールの上を歩くのをやめ、敷石をジャラジャラと音を立てて踏んでいた。きっと本当はあの子を追い抜いて行きたいのだろうに、私に気を使っているのか、なぜかずっと私の後をついてくる。二人の間に立つ私は、なんだかシーソーの真ん中でバランスを取ろうとしているみたいで落ち着かなかった。別にそんなことする必要ないのにと思いながら、なんとなくそうしてしまう。些細なことなのに、私はまた自分が嫌になってしまう。
ずぶずぶと闇の中に沈んで行ってしまいそうな気分。ジャラジャラという足音と、フラフラと揺れる影が、なんとなく私をここに留めているような気がする。
食堂車、だろうか。場違いな所に踏み込んでしまった、そんな気がした。
狭い空間に効率的に詰め込まれたイスやテーブルは、効率とはかけ離れた豪奢な意匠で、まるで高級レストラン。クラシック音楽でも聞こえてきそうな雰囲気だった。でも、実際には音楽どころか楽しげな会話のひとつもなく、料理が並べられたテーブルは一つだけ。他はすべて空席だった。飾り立てられた席も、主がいないと無性に寂しげに見える。
そのただ一つのテーブルには、天使と、お祖父さん。二人の手にはお酒の入ったグラスがあった。
二人の視線がこちらに向けられる。男の瞳は、相変わらず翳りの中に妙に幼げな雰囲気が隠れ、対するお祖父さんの瞳は、記憶の中の優しげな雰囲気は薄れ、なんだか虚ろな様子だった。
そのことにはこれまでの道中で既に気づいていたのに、気づいていない振りをしていた。でも、この瞬間、はっきりと分かってしまった。もう、お祖父さんに残された時間はわずかなのだ。いや、本当はもう、時間なんて残っていないのだ。私が駄々をこねる子どもみたいにお祖父さんの袖を引っ張って、無理矢理ここに留めているだけだった。
「悪いけれど、君の分はないんだ」
私は何も言っていないのに、男はそう言った。そんなつもりはなかったのに、そう言われるとお腹が空いたような気もする。夕飯はちゃんと食べたのに。ちゃんと、という程のものでもなかったかもしれないけれど。夜はお腹が空くんだろうか。私はあまり徹夜というのをしたことがないから分からないけれど、いつもなら寝ているはずの時間に起きているというのは、余計にエネルギーを使うものなのかもしれない。
くう、とお腹が惨めな鳴き声を上げた。聞こえてしまっただろうか。私は頬が熱くなるのを感じながらお腹を押さえた。
「ケチくさいんだな、天使って」
少年が私の後ろからひょこっと出てきて、お皿の料理を手づかみでさらっていった。行儀の良い子だとは思っていなかったけれど、さすがにちょっと無作法なのではとハラハラする。
私の気も知らずに、少年は脂の付いた指をぺろぺろと舐めながら、もごもごとした口調で言った。
「アンタ、天使なんだろ」
自称天使は片手を額に、片手を腰にやり、溜息を吐いた。
「ねえ、この子も一緒に行っていい?」
私の問い掛けに、男は深刻そうな顔つきで首を横に振った。
そもそも彼は私がここにいることも認めていないのだ。わざわざ了承を得ようとするなんて、どうかしていた。私がそうして来たように、彼が勝手にそうすることを、誰に止めることができるだろう。
「お前も食えば?」
少年は私の前に料理の乗った皿を突き出した。
「だめだ」
彼の厳めしい声というのを、私はこの時に初めて聞いた。少年はおどけた調子で肩をすくめ、皿をテーブルの上に戻す。ついでにひょいと別の皿の料理をつまんで、口に運ぶ。男の口からまた溜息が漏れた。
「座席に戻っていてくれないか。片付けを済ませたら、私も行くから」
溜息を吐くのと同じような調子で、男は私の方を見ずに言った。こんな立派な食堂車なのに、後片付けを自分でやらなくちゃいけないなんてことがあるだろうか。テーブルの片付けなんて係の人がやってくれそうなものなのに。そう思って車内を見渡して、確かにこの列車には私たち以外の人はいないようだと思う。
「それなら、私も手伝う」
「いや、いいんだ」
男はすっかり板に付いた困り顔で、私を見た。何度となく彼にそんな顔をさせてきた私は、今度もやっぱり何だか小さな罪悪感を覚えて、今回は私が悪いことをしたわけではないのだけれど、だからこそ、私は頷いた。
「これ、ありがとう」
手に持っていた上着のことを思い出し、男に返す。彼の顔に淡い笑みが浮かんだように見えた。それはどこか寂しげな笑みだった。もっとも彼の顔にはいつでも憂いが滲んでいるように見えるのだけれど。
もと来た車両へ戻り、振り返ると、少年が男に呼び止められ、何か話している。向こうの車両の扉が、ぴしゃりと閉じられた。彼らと私の間を、扉が隔てる。私は馬鹿みたいに呆然としていた。
重たい金属が擦れるような、耳障りな音。何が起こったのか、すぐには分からなかった。私はまだ乗ってきた車両の扉を片手で押さえていた。私も、向こうの車両の二人も、その場から動いていないはずなのに、その距離がゆっくりと離れ始める。
車両の連結が外れたのだと、のろのろと理解する。私の脳味噌は恐ろしく緩慢な働きをしていた。隔たりはまだ小さい。今ならまだ、向こうの車両に飛び移ることができるだろう。ようやくそこまで思考しても、私の足は床から一ミリも離れない。
扉の向こうで少年が喚き、男が少年を諭しているような様子が見える。少年は制止を振り切って、勢いよく扉を開け、身を乗り出す。どうするつもりだろう。
男は少年の肩に掛けた手に力を込め、彼を振り向かせると、黙って首を左右に振った。二人はしばし見つめ合っていたかと思うと、不意に少年が男の手を振り払い、こちらの車両に飛び移ってきた。
その瞬間、私は悲鳴を上げていたと思う。
車両の間の距離は徐々に広がりつつあった。もう私では跳べる自信がない。でもそれは私の場合で、彼は危なげなく跳んだのに、何を思ったのか私は、少年を受け止めなくてはと思い、その着地点に立って手を伸ばしていた。
せめてあと一歩でも横にずれるなり後ろに下がるなりしていたら、少年も私の手をつかめたかもしれないのに、どうにも私の立った位置が悪過ぎて、少年も私に向かって手を伸ばしはしたものの、二人の手が触れることはなく、私たちは正面から衝突して、もつれるように倒れ込んだ。
「ごめん」
慌てたように頭を起こし、少年は言った。
「どうしてごめんなの?」
私が余計なことをしただけで、彼は何にも悪くなかったのに。なんだかおかしくなって、私たちは顔を見合わせて笑った。それから自分が置き去りにされた現実を思い出す。お祖父さん達を乗せた列車は、闇の中へと溶けて行き、私たちを乗せた車両は、ゆるゆるとスピードを落とし、やがて止まった。
天使は消えた。お祖父さんを連れて行ってしまった。
今や私を導いてくれるものは、どこへ続いているとも知れない線路だけだった。先へ行ってしまった二人に追いつくことは無理でも、この線路の行き着く先が同じであるなら、同じ場所へはたどり着けるはずだ。その果てしなくも思える道程を私の非力な足で歩いて行くことが現実的であるかどうかはともかく。
互いに掛ける言葉を持たず、私たちは並んでただただ闇に伸びる線路を見つめていた。夜気にさらされて冷えた身体をぶるりと震わせた時、ようやく少年が口を開いた。
「少し、休もうか」
扉を閉めようと、手を掛ける。でも、私は迷っていた。確かに、疲れてはいた。少し眠りたい。世界はまだ闇の中、朝は遠いのだ。起きている、ただそれだけで、体力は消耗する。そんなのは当たり前のことなのかもしれないけれど、私は今日、初めてそれを実感したのだった。
少年の言うように、少し休んだ方がいいのかもしれない。いまさら急いだところでどうなるものでもないし、これからどれほど続くかも分からない道程を思えば、無理はしない方がいい。休める時に休んでおくべきだ。
それでも、どうしても怖かった。もし、目を覚ました時に、少年まで消えてしまっていたら――。
不安だった。
私はか弱く、一人では何もできない。情けないけれど、それが事実だった。
「……行こう」
扉を閉めようとする少年の手をつかむ。声がかすれていた。
「行くって……」
「この線路をたどって行くの。行ける所まで行くの」
「でも、暗くて、危ないよ」
少年は私を気遣ってくれていた。そんなことは分かっている。でも、私はどうしようもなく身勝手で、小心者だった。今は何よりも、立ち止まることが怖い。怖いのだ。不安でたまらない。
「暗いから、行くの。夜が明けてもそこに線路があり続けるとは限らないんだよ」
そうだ。今ここで眠ってしまって、夜が明けて、消えてしまうのは、少年だけではないかもしれない。列車も、線路も、朝の光に溶けて消えてしまうかもしれない。全ては私の見ていた夢だったなんて、そんな結末は嫌だった。
「行くの。進むのよ」
「……わかった」
私の目茶苦茶な論理に、少年は頷いた。私の主張に納得してくれたのかどうかは分からない。いや、納得なんてできないだろう。それでも彼は頷いたのだった。多分、私が一緒に行こうと言ったから。彼もそう決めたから。誰かの人生に自分が関わっているのだという実感は、何だか胸がむずむずして落ち着かなかった。
停止した車両から飛び降りる。普段はホームから乗り降りをするから気にしたこともなかったけれど、電車というのは意外と背が高いのだと気づく。気にしていなければ気がつかないことというのは、思いの外たくさんあるようだった。
線路の上は歩きにくい。歩くようにつくられてはいないのだから、当然だ。だからといってあまり線路から離れてしまうと、道を見失ってしまいそうで怖かった。私たちはどうしてもこの道を見失うわけにはいかない。その不安から、線路の上を離れられなかった。
私がじゃりじゃりと敷石を鳴らして歩くのに対して、少年の足音はずっと静かだった。この細いレールの上を、踏み外しもせずに歩いているらしい。不意に本当に少年がついて来ているのか不安になった。彼は私のせいで電車から飛び降りて、私のせいでこんな足元もよく見えない中、こんな歩き難いところを歩かされているのだ。
後ろめたいような気分でしばらくは無言で歩いていたものの、ちょっと心細くなってしまったのかもしれない。その存在を確かめたくなって、後ろをついて来ているはずの少年に声を掛けた。
「ねえ、どうして私と残ったの」
「俺は、もともとあの列車を降りるつもりだったんだ」
私のためじゃない。そう思うと、少しだけ気が楽になった。私には、誰の人生にも責任を持てないから。向こうも分かっていて言ったのだろう。私はついその優しさに甘えてしまう。
結局それ以上の会話が続くこともなかった。
どこまでも続く暗闇の中、チカチカと瞬く明かりがあった。駅だ。改札と待合室だけみたいな小さな駅。ホームに一本だけ電灯が立っている。それが切れかけて瞬いているのだった。
まるで闇の中にぽっかりと浮かんだ島のようだ。ホームの端に腰かけて、足をぶらぶらさせている女の子の存在に気づく。
明滅する電灯の明かりに浮かび上がるのは、やけに細い手足に、お風呂上りなのかしっとりと水気を帯びた長い髪の、同年代くらいの少女。相手が年齢の近い少女だったからといって安心できるものではないけれど、少しだけ気が緩んだのは確かだ。
私たちは人に咎められても仕方がないようなことをしていた。子どもがこんな時間にというのもそうだし、線路の上を歩いているというのもまずい。けれど、私たちが咎められるのなら、彼女も同罪のはずだった。そう思い、何事もなく行き過ぎることができるのを期待しながら、いざとなったらいつでも走り出せるように体中に緊張をみなぎらせ、精いっぱい平静を装って、行き過ぎようとする。なのに、彼女は声を掛けてきた。
ああ、声を掛けられてしまった。関わりたくないなら無視すればいいのに、本当ならその瞬間に駆け出す準備をしていたはずなのに、その奇妙な問い掛けに、思わず足を止めてしまった。
「ねえ、私はまだ、生きている?」
その顔立ちはきっと整っていると言える方だろう。しかし、痩せこけた頬や、目の下の隈、不健康そうな顔色などのせいで、あんまり美人には見えなかった。
「コンクリートって冷たいんだねえ。お尻が冷えちゃったよ」
そう言って少女は、ぴょん、とホームを飛び降り、ちょっとふらつきながら私の前に立った。膝に手をついて、私の顔を覗き込む。何となく嫌な感じがした。
「あなたたち、何をしているの」
「あなたこそ、何をしているの」
私は精一杯に虚勢を張って反問した。
「電車を、待っていたんだ。でも、止まらずに行ってしまった。私がいるのに気づかなかったのかな」
お祖父さんたちを乗せた電車だろうか。
「私を迎えに来たのかと思ったのに、違ったのかなあ」
「お前、それがどんなモノだかわかってて言ってんのか」
「そのつもりだけど」
「俺、こいつキライだ」
「君はそうかもね」
青白い顔の少女は表情が読み難かった。細い顎、こけた頬。きっと表情をつくる筋肉まで削げ落ちてしまっているんだ。
「でも、あなたは違うよね」
彼女は私の耳元へ顔を寄せて囁く。こめかみに触れる息に、背筋がぞわりとした。私が退こうとする前に、彼女はふっと体を離す。
「ねえ、私も一緒に行っていいかな」
「俺はイヤだ」
すぐさま少年は反応したけれど、私には何も言えなかった。だってそれは、私が許可することではないから。少年が何か言いたそうに私を見ても、勝手についてくるものはどうしようもない。私たちだってそうなんだから。
少年のむっつりした顔には気づかない振りをして、先に歩き出した少女の後について行く。後をついて行くつもりではなくても、道が一緒なのだから仕方がない。彼女の後について行くのがどうしても嫌なら自分が先頭に立てばいいのに、少年はそうしない。
「ところで、君たち二人はどういう関係なの」
そんなことを聞かれても困る。何と説明したらいいのだろう。
「たまたま一緒になっただけ……」
私は結局そう答えた。ちらと少年を見ると、やっぱり不機嫌そうな様子だった。彼は彼女と会話する気がないのだろう、まるでそっぽを向いている。
「どうしてそんなこと聞くの」
「だって気になるよ。変わった組み合わせだもの」
「そういうこと聞くの、失礼だって思わないのか」
俺たちと一緒に行こうというなら分かるだろ、と少年の厳しい声。詮索するな、と。
「それは申し訳なかったね」
まるで感情のこもっていない声。なんというか、表情のない声、感情の表現の仕方を知らないみたいな、知らないというか、教科書を音読するような感じ、ただ読んでいるだけ、声にしているだけ、というような。
ここまでどんなに大変な思いをしてきたのかも、彼女は知らないのだ。ここまで来るのにどれだけ歩いたか。それでも彼女は一緒に来るつもりなのだろうか。
空にはまばらに星。青白い月の明かりは、私たちの行く先を照らし出してはくれない。この夜は今、まだ深まっている最中なのだろうか。それとも、もう明けていく中途なのだろうか。この夜はいつまで続くのか。このままずっと明けない夜を旅する不安と、いっそこのまま夜がいつまでも続けばいいのにという希望がないまぜになっている。
私はうつむいてひたすら線路をたどるのに没頭していた。どこまで行くのかとか、どれくらい時間が経ったかとかいうことは、努めて考えないようにしていた。
前を歩く少女は、ふらふらしながらレールの上を歩いている。そのせいか、少年はレールの上を歩くのをやめ、敷石をジャラジャラと音を立てて踏んでいた。きっと本当はあの子を追い抜いて行きたいのだろうに、私に気を使っているのか、なぜかずっと私の後をついてくる。二人の間に立つ私は、なんだかシーソーの真ん中でバランスを取ろうとしているみたいで落ち着かなかった。別にそんなことする必要ないのにと思いながら、なんとなくそうしてしまう。些細なことなのに、私はまた自分が嫌になってしまう。
ずぶずぶと闇の中に沈んで行ってしまいそうな気分。ジャラジャラという足音と、フラフラと揺れる影が、なんとなく私をここに留めているような気がする。
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☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
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