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しおりを挟む――ああ、これは、私の罪を映す鏡だ。
少女は暗闇の中の鏡を見つめている。それは罪の記憶だった。ちゃんと見ててよ、と言われていたのに。少女は面倒くさそうに、わかってる、と答えたのだった。
――何が、わかってる、だ。
棺には幼い弟の身体が横たえられている。化粧のせいでわずかに赤みのさした頬がどこか白々しい。青ざめた弟の顔が脳裏に焼きついて離れなかった。
濡れそぼった髪、血の気の失せた顔、張りついた衣服、浮き上がった肋骨、力のない手足、ぐにゃりとした肉の感触。
まだ手の平に弟の体温が残っているような気がする。けれど目の前には、冷たく硬直した弟の遺体。
あの熱を奪ったのは自分だ。
私が弟を殺したのだ。
――それなのに、どうして誰も私を責めないのだろう。
確かに弟が池に落ちたのは事故だった。ほんの少し目を離しただけだったのに、あんな庭の池なんかで溺れるだなんて、誰が思うだろう。少女は必死で弟を救おうとした。池から引き上げるだけでどれだけ苦労したことか。赤ちゃんの頃みたいに簡単にとはいかなくとも、いつもなら抱き上げることくらいは難しくなかったはずだ。けれど池の中のそれは、同じ弟とは思えないくらいに重く、いつものようにはいかなかった。
とにかく何とか弟を池から引き上げることはできたが、その時にはもう、弟は息をしていなかった。両親が帰ってくるのは夕方ごろの予定だったし、急な用事で不在の祖母は、一時間くらいで戻ると言って三十分ほど前に家を出たばかりだった。
弟の面倒なんかいつも見ているのに、どうしてみんな、ちゃんと見ててよ、なんて念を押すのだろうと思っていた。信用されていないみたいで何だかおもしろくない。確かに弟は他の子よりも少し手間のかかる子ではあったのかもしれないけれど、家族としてそんなことは理解している、つもりだった。
――みんな、私がどんな気持ちで弟を助けようとしていたか知らないんだ。
怒られたくない。自分が責任を果たせなかったのだと思われたくない。自分には弟の面倒を見ることくらい、なんてことないはずなのだ。そうでなくてはならない。孫が心配で早めに予定を終えた祖母が帰ってくるまで、少女はただそれだけを考えていたのだった。
祖母は血相を変えて救急車を呼んだ。慌てていてそんなことは思いつかなかった、と少女は言い訳したが、それは嘘だ。救急車なんて呼んだら大ごとになってしまう、弟が目を覚ましさえすれば、そんな大ごとにはならなくて済むという、浅はかな考えだった。
鏡の中から、自分だけは知っているぞ、という目で弟が見ている。
思い詰めた少女は、川に身を投げたことがある。川の水は冷たく、胸がキーンと痛くなった。衣服が体にまとわりつく。プールで泳ぐのとは全然違う。川の流れに翻弄されながら、何度も水を飲んだ。弟もこんな苦しい思いをしたのか、と思った。
やがて少女は意識を手放した。
気がついた時には病院にいて、目を覚ますと母親は大声で泣いた。少女はぼんやりとした意識で、嫌だな、と思った。父親は娘のことを気にしながらも、妻のあまりの取り乱しようにそれをなだめるのに徹していた。
どうして私は生きているのだろう。弟はあんなに簡単に死んだのに。
そんなことでは許さないという、弟の怨嗟の声を聞いたような気がした。
それから何をしていても弟が見ているような気がして落ち着かなかった。弟に誤りたかった。どうすれば許してくれるのか問いたかった。
弟にもう一度会いたい、そう思った。
仲の悪い姉弟ではなかったけれど、特に仲が良いというわけでもなかったのに、こんな気持ちになるなんて思いもしなかった。弟ひとりがいなくなっただけで家族がバラバラになるだなんて、考えてもみなかった。だって、弟が生まれる前には三人でも家族は成立していたのだ。なんて、そんな単純な話でないことくらいはわかっている。そんな風に割り切れるなら、こんなに悩まずに済んだだろうに。
弟が許してくれないのなら、せめて周囲の人間が、これでもか、というくらいに責め立ててくれれば、気も紛れたかもしれない。どうしてそこまで言われなくちゃならないんだと、開き直れるくらいの暴言をぶつけてくれれば、いっそ救われたかもしれない。何も言われないというのが、少女には一番こたえた。慰めの言葉さえ、少女には苦痛だった。せめて罪に見合った罰を与えてくれていたら、少しは素直になれていたかもしれないのに。
いつか、あらゆる言葉の裏に自分への非難が込められているのではないかと疑うようになってしまった。
――私は醜い……。
自分に嫌気がさした。早くこの世から去ってしまいたかった。けれど、どうしても弟の存在が頭を離れない。
――許さない。
もうどこにも自分の居場所はないのだと思った。ひたすらに許しが訪れるのを待つしかない。
家族は誰も弟のことを話さない。自分のせいだとわかってはいるのに、周囲が弟の存在をなかったことにしようとしているみたいで、無性に腹が立った。弟の死を無視したところで、弟が帰ってくるわけでもなければ、いなかったことにできるわけもない。もちろん自分の罪が消えるわけでもなかった。誰もそんなことを望んでいるわけでもないのに。
それでも、少女自身、弟のことを話題にあげることはできなかった。
――私は絶対にアイツのことを忘れちゃダメなんだ。
忘れてはいけない。幸せになってはいけない。いつか弟が自分のことを許してくれるまでは――。
それはいつだろう。どうすれば許してくれるのだろう。目の前が暗くなり、ぼんやりと弟の姿が浮かんでくる。濡れそぼった髪、血の気の失せた顔、張りついた衣服、力のない手足、まだあどけない男児の瞳が見開かれ、少女を睨む。
――許さない。
いつか許しを得られる時は訪れるのだろうか。
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