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手の震えは止まっていた。なんだか自分のことを否定されたようで、酷く傷ついた。まさか彼女からそんなことを言われるとは思わず、むくむくと不満が湧いてくる。裏切られたような気分で、ぶっきらぼうに言う。
「じゃあ、私には何が必要だったの」
彼女は少しだけ考えてから答える。
「諦めとタイミング、かな」
なんだそれ。
「それなら、私には今それがそろったんだよ」
そっか、と彼女は言って、手を離した。私は半ば自棄になってその切っ先を自分の喉に当てた。そして、ほんのわずか食い込んだその感触で、これ以上は無理だと思った。
やっぱり私には、そんな覚悟はなかったのだ。いや、彼女に言わせれば、そんなものは覚悟でもないのだろう。
私は諦めたわけじゃなくて、ただ疲れただけ。うまくタイミングを計ったつもりが、ただ流されていただけ。覚悟を決めたつもりが、思い詰めていただけ。そんなのは、きっと最初から分かっていたのだ。だって私は、本当に死んでしまいたいと思ったことなんて一度もないんだから。
諦めたふりをするのは、もう諦めよう。突きつけた切っ先を喉元から下ろす。
「どうしてやめちゃうの」
その声は耳元でした。吹きかかる息にぞっとして振り向くと、さっきまで弟の救命措置に夢中だったもうひとりの少女が、後ろから私の肩をつかんでいた。
「今やらなくちゃ、きっと後悔するよ」
それは私に言っているのか、それとももうひとりの自分に言っているのか。
ほら、と彼女は背後から腕を回して、カッターナイフを持った私の手を自分の手で包み込んだ。そして、強引にその切っ先を喉元に向けさせる。声を出した拍子にそれが突き刺さってしまうのではないかと思うと怖くて声も上げられない。
「やめて!」
私の代わりにもうひとりの少女が悲鳴を上げた。
「どうして止めるの」
「またあの子に怨みを背負わせるの。見て、あの子の中は私への憎しみでいっぱいだよ。それなのに、今度は彼女の恨みまであの子に飲み込ませるの」
池からは幼い男の子がわらわらと這い出してきていた。青白い肌は水でふやけ、眼窩は落ちくぼみ、口からは赤黒い粘液を垂らしている。喉の奥から漏れているうめき声は、怨嗟の声か。まるで少年の胸から湧いていた憎しみのようだと思った。
「この子は恨んだりしない。だって、この子は望んでる!」
私の手の上から、ぎゅうっとカッターナイフを握り込まれる。痛い。
「私たちは似た者同士だもの。自分の死に意味が欲しいの。自分の生を価値あるものにしたいの。そうでしょう」
その通りのはずなのに、私は頷けなかった。頷くとカッターナイフの刃が刺さってしまうからだけではなかった。だって私は、死にたかったわけじゃないのだ。死ぬのは怖い。怖くない人がいるだろうか。誰かに願われて生きるのも疲れるし、誰にも望まれずに生きていくのも辛い。誰かに願われる死は悲しいし、誰にも望まれない死はやりきれない。
池から湧き出た男の子が、こちらへと這い寄ってくる。あれは憎しみだけで動いている。けれどそれは、彼女がそう思っているからだ。ここは鏡の中なのだ。彼女の望みが映されているのだ。
それとも、これも私のせいなんだろうか。少年の憎しみが私のせいで顕在化したように、あれも私の望みのせいであんな風に湧いてきたのだろうか。私が望まなければこんなことにはならなかったのだろうか。
もう耐えられない。これが私のせいなら、望みを変えなければ。私がそれを望んだのは、誰かの傷をより深くえぐりたかったからじゃない。何の目的もなくただだらしなく血を流すだけの胸の傷を見遣れば、それはもう、ただの醜い傷にしか見えなかった。
「本当に?」
横たわっていたもうひとりの私が徐に起き上がる。
「この子たちが見えなくなってしまっても、本当にいいの」
目の前の少女に、もうひとりの私が囁きかける。私は自己嫌悪でくらくらした。あれがそう言うということは、その気持ちは私の中にも存在しているということだ。
私の後ろには彼女がいて、もう一人の彼女の後ろにはもう一人の私がいる。まるでお互いに人質を取り合っているみたいだ。
気づけば彼女の弟の幻影はすぐそこまで来ていた。目の前の少女はそれを抱き上げ、自分の胸に押し込んだ。ごめん、ごめん、と泣きながら謝り、這い寄ってくるそれを次々に胸の中へと押し込めていく。そしてとうとう少女は倒れた。それと同調するように、背後の少女が小さな呻き声を上げる。
わずかに少女の力が緩んだ隙に、その腕を振り解いた。その時、手にしたカッターナイフの刃が彼女の腕に赤色の線を引いた。それは勢い余ってのことで、もちろんそんなことをするつもりはなく、慌てて血の付いたそれを投げ捨てると、倒れた少女に駆け寄り、私は思い切ってその胸へと腕を突っ込んだ。彼女が押し込めたものを強引に引っ張り出す。
「やめて!」
悲鳴を上げる少女。私はそれを抱えて駆け出した。さっき少年を非難したのと同じことをしているという自覚はあった。血まみれの塊のぐにゃりとしてぬるぬるとして生温かい感触は酷く気持ち悪くて早く放り出してしまいたかったけれど、こうすれば今回も彼女は追ってくるはずだ。このままここにいてはいけないと思った。あの池から早く離れるのだ。
私の願いを取り消すためにも鏡を探さなければと思い、家の中に飛び込んだ。そのつもりだったのだけれど、なぜか私は白い壁の町に立っていた。激しく降る雨で、足元は水浸しだった。あまりの激しさに姿の歪んだ亡霊たちが町の中をさ迷っている。その中へ飛び出して行きたくはなかったけれど、このまま突っ立っているわけにもいかなかった。
向かいの建物の入り口へと駆け込むと、そこは私の見知ったデパートの中だった。けれど、そこに人の姿はない。後ろから、返して! と少女の叫ぶ声がする。私は止まったエスカレーターを駆け上がった。ふと服屋さんの試着室が目に留まり、そこには姿見があるはずだと思い至った自分を褒めてやりたくなった。
けれど、カーテンを開けた途端に雨が吹きつけてきた。また外だ。引き返すわけにもいかず、雨の町の中へと出てまた別のドアに入る。今度は学校の教室だった。後ろから入って前から出る。もちろん廊下には出ず、また外へ。次はパパと住んでいた頃の家のリビング。次は病院の待合室。やっぱりエレベーターは動かない。非常階段を駆け上がる。無駄だと分かりつつも、そこなら鏡があるはずだと、トイレに駆け込む。当然のごとくまた雨の町の中へと出る。積み木のように重なった建物の上から、町の様子を見下ろす。
雨は相変わらず激しく降り続け、町は瞬く間に水没してしまいそうに見えた。街灯がちかちかと瞬く。空は恐ろしいほどに暗い。町を浸す水は黒くうねり、あらゆるものを飲み込もうとしている。黒い水のように不安な気持ちが胸の中で逆巻く。追い掛けてくる少女の声がして、急いでまた別のドアに駆け込んだ。まるで迷路だ。どこへ出るやら見当もつかない。時おり私の知っている場所に出て、自分の頭の中をさ迷っているみたいだと思う。もしかしたら本当にそうなのだろうか。
次のドアに入ると、そこは見慣れた自分の部屋だった。思わず少しだけほっとしてしまった。それから、そこが本当に私の部屋なら、昔お母さんからもらった手鏡があるはずだと気づく。それはおもちゃみたいな代物だったのだけれど、当時の私にはおもちゃと本物の区別などなく、とても喜んだ。ただ、もらった時こそ嬉しくて意味もなく何度も覗き込んでいたものの、その小さな鏡は使い勝手が悪く、すぐ曇るし、鏡が見たければ洗面所に行けばいいだけなので、もうずいぶん引出しの中にしまいっぱなしになっていた。
机の一番下の引き出し。小さい頃に大切にしていたおもちゃのアクセサリーを入れた箱の中に、一緒に入っているはずだ。
「その子を返して!」
箱を取り出したところに、二人の少女が駆け込んでくる。思わず机の上に置いていたその血まみれの塊を抱えて二人と対峙すると、まるで人質を取って立てこもる犯罪者みたいな気分になった。実際そう遠くはないのかもしれないけれど。
少女が後ろ手にドアを閉める。逃げ場はない。まさに追い詰められた犯人の様相だった。
「お願い、もうその子のことをちゃんと覚えているのは私しかいないの。私が側にいてやらないと、その子は今のかたちを保っていられないの」
腕の中のぐんにゃりとした肉の塊を見て、確かに今はもう人のかたちには見えないな、と思う。けれど、彼女は必死にそれを取り戻そうとしている。
「だけど、この子といると辛そうだよ」
「私のこと、わかったみたいに言わないで!」
私たちは似た者同士だと言ったのは彼女なのに。
「似ているからって、私のすべてが分かるなんて思わないで。兄弟もいないくせに、勝手に理解した気にならないで」
ずいぶんな物言いだと思ったけれど、怒る気にはならなかった。他人のことを本当に理解することなんてできないのだということは、私にはよく分かっている。でも、それは彼女だって同じはず。確かに私には兄弟がいないけれど、いくら血がつながっていたってその人のすべてを理解するなんてできるはずがない。
「これがあなたの頭の中の弟ではなくて本物の弟だと、あなたは言えるの」
私にはとても人のかたちには見えないそれが、彼女には実の弟に見えているのだとはとても信じられなかった。
「お父さんやお母さんは、弟さんのことを何もわかっていなかったの。あなたのことを理解してはくれなかったの」
「父さんが私のことを知ろうとしたことなんてないし、母さんは弟を殺した私のことを憎んでる。二人共もう、弟のことなんて思い出したくないんだ」
だから自分だけはいつも弟のことを考え続けなくてはいけないのだと、彼女は言った。
「私だけは、本物の弟のことを覚えていられるように」
「でも、それもあなたの思い出の中の弟だよね」
「私は思い出なんかにしない!」
「なんだか、あなたの中の弟って、あなたを憎むことしか知らないみたい」
彼女を追い詰めるつもりはなかったのに、つい本音がこぼれてしまった。きっと彼女はその心ない言葉に傷ついたに違いない。一人は動きを止め、もう一人は刃物をかざして襲い掛かってきた。
私は部屋の中を必死で逃げ回り、とうとう壁際に追い詰められた。すんでのところで攻撃をかわし、その切っ先は壁に突き刺さった。引き抜かれた痕から水が滲んでくる。天井がミシミシと音を立て、ポタポタと水が垂れてくる。張りぼてのような私の部屋は、小さな傷をきっかけに簡単に悲鳴を上げ始め、今にも崩れ出してしまいそうだった。
雨がバチバチと激しく音を立てて窓を破ろうとしている。ガラスの窓は、このおもちゃみたいな部屋の中で一番頑丈なもののように思えた。逃げ回っている間に、ドアの隙間からも水が忍び込んできていた。それはもう踝の辺りまで来ていて、いずれこの狭い部屋をいっぱいにしてしまうのではないかという恐怖が込み上げてくる。
「じゃあ、私には何が必要だったの」
彼女は少しだけ考えてから答える。
「諦めとタイミング、かな」
なんだそれ。
「それなら、私には今それがそろったんだよ」
そっか、と彼女は言って、手を離した。私は半ば自棄になってその切っ先を自分の喉に当てた。そして、ほんのわずか食い込んだその感触で、これ以上は無理だと思った。
やっぱり私には、そんな覚悟はなかったのだ。いや、彼女に言わせれば、そんなものは覚悟でもないのだろう。
私は諦めたわけじゃなくて、ただ疲れただけ。うまくタイミングを計ったつもりが、ただ流されていただけ。覚悟を決めたつもりが、思い詰めていただけ。そんなのは、きっと最初から分かっていたのだ。だって私は、本当に死んでしまいたいと思ったことなんて一度もないんだから。
諦めたふりをするのは、もう諦めよう。突きつけた切っ先を喉元から下ろす。
「どうしてやめちゃうの」
その声は耳元でした。吹きかかる息にぞっとして振り向くと、さっきまで弟の救命措置に夢中だったもうひとりの少女が、後ろから私の肩をつかんでいた。
「今やらなくちゃ、きっと後悔するよ」
それは私に言っているのか、それとももうひとりの自分に言っているのか。
ほら、と彼女は背後から腕を回して、カッターナイフを持った私の手を自分の手で包み込んだ。そして、強引にその切っ先を喉元に向けさせる。声を出した拍子にそれが突き刺さってしまうのではないかと思うと怖くて声も上げられない。
「やめて!」
私の代わりにもうひとりの少女が悲鳴を上げた。
「どうして止めるの」
「またあの子に怨みを背負わせるの。見て、あの子の中は私への憎しみでいっぱいだよ。それなのに、今度は彼女の恨みまであの子に飲み込ませるの」
池からは幼い男の子がわらわらと這い出してきていた。青白い肌は水でふやけ、眼窩は落ちくぼみ、口からは赤黒い粘液を垂らしている。喉の奥から漏れているうめき声は、怨嗟の声か。まるで少年の胸から湧いていた憎しみのようだと思った。
「この子は恨んだりしない。だって、この子は望んでる!」
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「私たちは似た者同士だもの。自分の死に意味が欲しいの。自分の生を価値あるものにしたいの。そうでしょう」
その通りのはずなのに、私は頷けなかった。頷くとカッターナイフの刃が刺さってしまうからだけではなかった。だって私は、死にたかったわけじゃないのだ。死ぬのは怖い。怖くない人がいるだろうか。誰かに願われて生きるのも疲れるし、誰にも望まれずに生きていくのも辛い。誰かに願われる死は悲しいし、誰にも望まれない死はやりきれない。
池から湧き出た男の子が、こちらへと這い寄ってくる。あれは憎しみだけで動いている。けれどそれは、彼女がそう思っているからだ。ここは鏡の中なのだ。彼女の望みが映されているのだ。
それとも、これも私のせいなんだろうか。少年の憎しみが私のせいで顕在化したように、あれも私の望みのせいであんな風に湧いてきたのだろうか。私が望まなければこんなことにはならなかったのだろうか。
もう耐えられない。これが私のせいなら、望みを変えなければ。私がそれを望んだのは、誰かの傷をより深くえぐりたかったからじゃない。何の目的もなくただだらしなく血を流すだけの胸の傷を見遣れば、それはもう、ただの醜い傷にしか見えなかった。
「本当に?」
横たわっていたもうひとりの私が徐に起き上がる。
「この子たちが見えなくなってしまっても、本当にいいの」
目の前の少女に、もうひとりの私が囁きかける。私は自己嫌悪でくらくらした。あれがそう言うということは、その気持ちは私の中にも存在しているということだ。
私の後ろには彼女がいて、もう一人の彼女の後ろにはもう一人の私がいる。まるでお互いに人質を取り合っているみたいだ。
気づけば彼女の弟の幻影はすぐそこまで来ていた。目の前の少女はそれを抱き上げ、自分の胸に押し込んだ。ごめん、ごめん、と泣きながら謝り、這い寄ってくるそれを次々に胸の中へと押し込めていく。そしてとうとう少女は倒れた。それと同調するように、背後の少女が小さな呻き声を上げる。
わずかに少女の力が緩んだ隙に、その腕を振り解いた。その時、手にしたカッターナイフの刃が彼女の腕に赤色の線を引いた。それは勢い余ってのことで、もちろんそんなことをするつもりはなく、慌てて血の付いたそれを投げ捨てると、倒れた少女に駆け寄り、私は思い切ってその胸へと腕を突っ込んだ。彼女が押し込めたものを強引に引っ張り出す。
「やめて!」
悲鳴を上げる少女。私はそれを抱えて駆け出した。さっき少年を非難したのと同じことをしているという自覚はあった。血まみれの塊のぐにゃりとしてぬるぬるとして生温かい感触は酷く気持ち悪くて早く放り出してしまいたかったけれど、こうすれば今回も彼女は追ってくるはずだ。このままここにいてはいけないと思った。あの池から早く離れるのだ。
私の願いを取り消すためにも鏡を探さなければと思い、家の中に飛び込んだ。そのつもりだったのだけれど、なぜか私は白い壁の町に立っていた。激しく降る雨で、足元は水浸しだった。あまりの激しさに姿の歪んだ亡霊たちが町の中をさ迷っている。その中へ飛び出して行きたくはなかったけれど、このまま突っ立っているわけにもいかなかった。
向かいの建物の入り口へと駆け込むと、そこは私の見知ったデパートの中だった。けれど、そこに人の姿はない。後ろから、返して! と少女の叫ぶ声がする。私は止まったエスカレーターを駆け上がった。ふと服屋さんの試着室が目に留まり、そこには姿見があるはずだと思い至った自分を褒めてやりたくなった。
けれど、カーテンを開けた途端に雨が吹きつけてきた。また外だ。引き返すわけにもいかず、雨の町の中へと出てまた別のドアに入る。今度は学校の教室だった。後ろから入って前から出る。もちろん廊下には出ず、また外へ。次はパパと住んでいた頃の家のリビング。次は病院の待合室。やっぱりエレベーターは動かない。非常階段を駆け上がる。無駄だと分かりつつも、そこなら鏡があるはずだと、トイレに駆け込む。当然のごとくまた雨の町の中へと出る。積み木のように重なった建物の上から、町の様子を見下ろす。
雨は相変わらず激しく降り続け、町は瞬く間に水没してしまいそうに見えた。街灯がちかちかと瞬く。空は恐ろしいほどに暗い。町を浸す水は黒くうねり、あらゆるものを飲み込もうとしている。黒い水のように不安な気持ちが胸の中で逆巻く。追い掛けてくる少女の声がして、急いでまた別のドアに駆け込んだ。まるで迷路だ。どこへ出るやら見当もつかない。時おり私の知っている場所に出て、自分の頭の中をさ迷っているみたいだと思う。もしかしたら本当にそうなのだろうか。
次のドアに入ると、そこは見慣れた自分の部屋だった。思わず少しだけほっとしてしまった。それから、そこが本当に私の部屋なら、昔お母さんからもらった手鏡があるはずだと気づく。それはおもちゃみたいな代物だったのだけれど、当時の私にはおもちゃと本物の区別などなく、とても喜んだ。ただ、もらった時こそ嬉しくて意味もなく何度も覗き込んでいたものの、その小さな鏡は使い勝手が悪く、すぐ曇るし、鏡が見たければ洗面所に行けばいいだけなので、もうずいぶん引出しの中にしまいっぱなしになっていた。
机の一番下の引き出し。小さい頃に大切にしていたおもちゃのアクセサリーを入れた箱の中に、一緒に入っているはずだ。
「その子を返して!」
箱を取り出したところに、二人の少女が駆け込んでくる。思わず机の上に置いていたその血まみれの塊を抱えて二人と対峙すると、まるで人質を取って立てこもる犯罪者みたいな気分になった。実際そう遠くはないのかもしれないけれど。
少女が後ろ手にドアを閉める。逃げ場はない。まさに追い詰められた犯人の様相だった。
「お願い、もうその子のことをちゃんと覚えているのは私しかいないの。私が側にいてやらないと、その子は今のかたちを保っていられないの」
腕の中のぐんにゃりとした肉の塊を見て、確かに今はもう人のかたちには見えないな、と思う。けれど、彼女は必死にそれを取り戻そうとしている。
「だけど、この子といると辛そうだよ」
「私のこと、わかったみたいに言わないで!」
私たちは似た者同士だと言ったのは彼女なのに。
「似ているからって、私のすべてが分かるなんて思わないで。兄弟もいないくせに、勝手に理解した気にならないで」
ずいぶんな物言いだと思ったけれど、怒る気にはならなかった。他人のことを本当に理解することなんてできないのだということは、私にはよく分かっている。でも、それは彼女だって同じはず。確かに私には兄弟がいないけれど、いくら血がつながっていたってその人のすべてを理解するなんてできるはずがない。
「これがあなたの頭の中の弟ではなくて本物の弟だと、あなたは言えるの」
私にはとても人のかたちには見えないそれが、彼女には実の弟に見えているのだとはとても信じられなかった。
「お父さんやお母さんは、弟さんのことを何もわかっていなかったの。あなたのことを理解してはくれなかったの」
「父さんが私のことを知ろうとしたことなんてないし、母さんは弟を殺した私のことを憎んでる。二人共もう、弟のことなんて思い出したくないんだ」
だから自分だけはいつも弟のことを考え続けなくてはいけないのだと、彼女は言った。
「私だけは、本物の弟のことを覚えていられるように」
「でも、それもあなたの思い出の中の弟だよね」
「私は思い出なんかにしない!」
「なんだか、あなたの中の弟って、あなたを憎むことしか知らないみたい」
彼女を追い詰めるつもりはなかったのに、つい本音がこぼれてしまった。きっと彼女はその心ない言葉に傷ついたに違いない。一人は動きを止め、もう一人は刃物をかざして襲い掛かってきた。
私は部屋の中を必死で逃げ回り、とうとう壁際に追い詰められた。すんでのところで攻撃をかわし、その切っ先は壁に突き刺さった。引き抜かれた痕から水が滲んでくる。天井がミシミシと音を立て、ポタポタと水が垂れてくる。張りぼてのような私の部屋は、小さな傷をきっかけに簡単に悲鳴を上げ始め、今にも崩れ出してしまいそうだった。
雨がバチバチと激しく音を立てて窓を破ろうとしている。ガラスの窓は、このおもちゃみたいな部屋の中で一番頑丈なもののように思えた。逃げ回っている間に、ドアの隙間からも水が忍び込んできていた。それはもう踝の辺りまで来ていて、いずれこの狭い部屋をいっぱいにしてしまうのではないかという恐怖が込み上げてくる。
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