亡者の唄と森の幻味亭

O.K

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森の幻味亭

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かつて、ある深い森の奥深くに古びた小さな小屋がひっそりと佇んでいました。その小屋は、昼夜を問わずどんな時でも湯気を立て、ほんのりと光を放っているような場所でした。その名も「森の幻味亭」。

主人公である夜城(やしろ)という名前の若者は、幼いころから森に住んでいました。彼はある日、突如としてその小屋に住み着いたのですが、その小屋がどこからともなく現れたものとも、もともとあったものとも、はっきりとしたことは分かっていませんでした。夜城は人里離れた場所で暮らすことを好み、人との接触を極力避けて生きていました。
ある日、町の噂話が耳に入ってきました。それは、「森の幻味亭」が夜になると、おでんの臭いと共に不気味な歌声が聞こえるというものでした。町人たちはそれを「亡者の唄(なきもののうた)」と呼び、森の奥におでん屋を営む夜城が死者の魂を引き寄せているのではないかと噂し始めました。

夜城はその噂を聞いても、特に気にする様子はありませんでした。しかし、その噂は日に日に広がり、町の人々は森を避けるようになりました。夜城の元に客が来ることは滅多にありませんが、その客もまた「亡者の唄」の噂を聞いて遠ざかる者がほとんどでした。

ある晩、夜城は通り雨に見舞われ、小屋の中に閉じこもることになりました。湿気が漂う中、彼はおでんを炊きながらふと耳を澄ますと、本当に微かながらに歌声が聞こえてきました。その歌声は哀愁を帯び、不気味な響きが背筋を凍りつかせるものでした。夜城は驚きと共に興味も抱き、歌声の方へと足を向けました。

小雨が降る中、夜城は歌声に導かれて森の奥へと進んでいきました。その先には古びた祠があり、その中に佇む女性の姿がありました。女性は白い着物に身を包み、透明な肌を持ち、深い森の中でさえも彼女の美しさが際立っていました。

女性は歌を歌いながら夜城を見つめ、微笑みかけました。彼女の歌声はますます魅惑的に聞こえ、夜城はその場に引き込まれるような感覚を覚えました。しかし、彼の体はどんどん重くなり、動けなくなっていきました。彼は自分が女性の魔法にかかってしまったことに気付いたのです。

女性は微笑みながら、「ようこそ、夜城さん。私はこの森に住む妖精、リレンと申します。あなたのおでん屋のおかげで、たくさんの人々がこの森に足を踏み入れるようになりましたわ。そして、そのたびに私は彼らの魂を頂戴してきたのです」と言いました。

恐怖におののく夜城でしたが、動けない身体の中で必死に抵抗しました。「どうして、こんなことを…」と彼が呟くと、リレンは微笑みを浮かべながら「あなたもその一部になるのです。」と告げ、夜城の意識は次第に闇へと飲み込まれていきました。

翌朝、森の中には「森の幻味亭」の小屋が静かに佇んでいるだけで、夜城の姿はどこにも見当たりませんでした。町の人々は、「亡者の唄」の謎めいた歌声が消えたことに安堵しましたが、夜城の行方は永遠に語られることはありませんでした。

以来、森の中には誰も足を踏み入れることはありませんでしたが、時折、深夜の森の中から「亡者の唄」が聞こえてくるという話が、町の人々の間で語り継がれていました。そして、その歌声は聞く者の心を憑依し、永遠の眠りに誘うとされています。
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