名前の無い喫茶店

天柳 辰水

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第1章 名前の無い喫茶店

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 いつしか、海岸線を歩いていた。

 道がどう繋がっているのか分からなかった頃、愛美は一人で散歩がてら海岸線を歩いて鎌倉まで行った事があった。その時も父親より祖母が一番心配してくれた。

 祖母が電車で迎えに来てくれて、強く抱きしめてくれた思い出がある。まだ、小学生の頃だった。

『そう言えば・・・』

 愛美はふと、記憶の片隅に残っている祖母と尋ねた場所の事を思い出した。

 祖母と二人で散歩をした時、海岸線から真っ直ぐな道を丘に向かって昇った事があった。周りは住宅街だったのに、ポツンと拓けた場所があり、そこから見える海が祖母は一番好きだと言っていた事を。

 愛美は記憶を頼りに歩き出す。何故か、そこに行けば祖母に会えるような気がしたからだ。

 海岸線を東に向かう。波の音が爽やかな潮騒を届けてくれる。反対側は相変わらずの交通渋滞で雰囲気を壊してくれるが、これもここならではの光景だろう。

 すでに四十近い年を取った愛美は、昔の若い頃のようにスタスタと早足では歩けない。それでも、早く祖母の好きな場所に行って、祖母が好きだった光景を眺めたい。その気持ちが愛美の心を逸る。

 長い海岸線を歩いた。ようやく、記憶にある丘に登る道を見つけた。

 道路を渡り、踏切を渡って最初の交差点を右に曲がって歩いて行く。

 近くの高校から学生の声が聞こえる。この雰囲気も懐かしい。

 子供の頃は、ここまで歩いて来るのに疲れたの、休みたいだのと言っては、祖母を困らせた記憶がある。それでも、頑張って歩いた先に辿り着いたその場所で見た光景は格別の物だった。

 緩い坂を昇って行く。もうすでに数十年前の記憶となれば、周りの景色も一転している。曖昧な記憶を頼って何度も思い出しながらようやくその場所を見つけた。

 いや、見つけたのだろう。そこには一軒の喫茶店が建っていた。

『喫茶店・・・?ここだよね。でも・・・』

 愛美は喫茶店の周りをジロジロと眺めながら、その向こうに見える景色を確認しようとする。しかし、ちょうどいい感じに店が建っているので、向こうの景色が見れない。

「どうかされましたか?」

 不意に後ろから中年男性に声を掛けられた。

「あっ、いえ・・・」

 愛美はその声に驚き戸惑った。

「宜しければどうぞ。何か、冷たい物でもお飲みください」と男は優しい声を掛けて、店の入口へと誘った。
愛美は男性に導かれるかのように喫茶店に入る。

カランカラン・・・。

 扉を開けると上に付いているベルが鳴る。それに気づいたかのように店内から「いらっしゃいませ」と女性の声が聞こえた。で、その次には「なぁんだ、マスターか」の言葉が続いた。

「美咲ちゃん。お客様も一緒だよ」と男性は微笑みながら言葉を返すと、「すいません。お好きな席にお座りください」と店内へと薦めてくれた。

 店内は落ち着いた雰囲気のログハウス風になっていて、正面に大きな窓と二人掛け、四人掛けのテーブルが並び、その右側には数段、階段を昇っての二人掛け用のテーブルが二つ並んでいる。そこに目が行った愛美だが、その一つに『リザーブ席』と書かれた札が置かれているのに気付いた。反対の後ろ側にはカウンター席が並んでいる。

 愛美は一人掛けのテーブル席に向かっていき、窓側に向かって座ると、バッグを窓側の椅子に置き、立てかけられているメニューを手に取った。

 メニューにはコーヒーや紅茶、ケーキの名前が並んでいる。その一つにレアチーズケーキと書かれており、『オーナーおすすめ』とも書かれていた。

「いらっしゃいませ。お客様、もし宜しければこれをお使いください」と、先程のマスターと呼ばれた男性がおしぼりと御冷を愛美の目の前に置いた。

「ご注文がお決まりましたら、お声をお掛けください」と言うと、深々と一礼をして男性はカウンターに戻って行った。

 愛美は一度、メニューから目を離して窓の外に視線を送った。そこに広がる景色はまさしく、祖母がお気に入りにしていた景色に似ている。

「お婆ちゃんの好きだった景色に似ている・・・」愛美は小さい声で囁いた。

 愛美は暫くの間、外の景色に見惚れていた。そして、一筋の涙がほほを伝わっていく。

「ご注文、お決まりですか?」

 その声に愛美は咄嗟に涙を拭きながら、「ミルクティーとレアチーズケーキを」と言って、席を立った。

 化粧を直そうとバッグを手にして洗面所へ向かう。

 鏡の中の自分の姿と顔を見て軽く化粧を直す。

 化粧を直すと、深呼吸をしてから愛美は化粧室から出て来た。

 愛美の姿を確認した美咲はマスターに目で合図を送ると、マスターは軽く頷いてミルクティーのセットとレアチーズケーキを準備した。

 愛美は席に座ると、再び窓の外に視線を送る。

「この景色がお好きですか?」と不意に後ろから声を掛けられて驚いた愛美は、「えっ!」と声を挙げて振り返った。

「あっ!驚かせてすみません。私、ここの店長をしている佐藤と言います。美しい眺めですよね。実は、ここのオーナーもこの景色が好きで、ここにお店を建てたんですよ」

「ここからの景色?」愛美は振り返っただけの顔を、身体ごと向きを変えて聞き返した。
目の前に立つ細身の女性。赤い縁のメガネに綺麗な黒髪のロングヘアーをポニーテールにまとめている幼い顔立ちの
女性。年は二十代半ばといえるだろうか?その女性が丁寧にミルクティーとレアチーズケーキをテーブルに並べながら、話を進めて行く。

「えぇ・・・。オーナーはここから見える海の景色が最高だと。いつまでもいつまでも見ていたいからと言って、無理を言ってここにお店をオープンしたんです」

「私の祖母も、同じ事を言っていました。ここから見る景色が最高だと・・・。そんな祖母と幼い頃にここに来た事を思い出してここに来たんです・・・」と、愛美は語尾を濁すように話した。

「そうですか・・・」

 佐藤店長はトレイを縦に両手で持つと、一緒になって愛美の視線の先を眺めた。そして、何かを思い出したかのように愛美の隣りに立った。

「もし宜しければ・・・、その思い出を残してみませんか?」と佐藤店長はにこやかに話す。

「思い出を残す?」愛美は不思議な気持ちで返事をする。

 佐藤は笑顔を崩さずに、右奥の数段上になっているリザーブ席に視線を向けながら、「オーナーは名前の無い売れない小説家でした。そんなオーナーの好きな事、趣味と言っても良い。いろんな人の思い出話を聞く事が大好きで、事実は小説より奇なりと口癖のように語っていた人です。ぜひ、オーナーの日記帳にその話を書き込んであげてくれませんか?」

「あっ・・・、でも」愛美は少し戸惑いをみせた。

 愛美はその日記帳にどういう風に書けばいいのかわからないし、そもそも、そんな他人でもあるオーナーの大切な日記帳に書き込んでも良いのだろうか?自分の思い出など、小説のモデルにもならない。そう思っているだけに、躊躇していた。
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