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便葉

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八月十四日 若者の暴走

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 私が控室に着いたと同時に、湯上さんが部屋を出て行こうとしていた。

「多実ちゃん、ちょうどよかった。私はもう仕事に行かなきゃならないから、後をよろしくね。
 可哀想に何があったか知らないけど、ずっと泣いているよ…」

 私は湯上さんの手を取りありがとうと囁いて、三奈さんの待つ控室へ入った。ソファに横になっていたはずの三奈さんは、起き上がってテレビを見ている。私が入ってきた事を確認すると、力なく笑って見せた。

「絵里がここに着いたんでしょ…?」

 受付のカウンターでやり取りをしていたのを聞いたのかもしれない。この場所は受付にほど近いから。

「…はい、で、一緒に泊まるって言ってます。私的には、あの109号室はとにかく狭い部屋なので、三人泊まるのは無理です。だから、後から来たお客様には別の部屋を用意すると言ったんですけど」

 三奈さんは泣き腫らしたせいで真っ赤に充血した目を細めて、私に優しく頷いてくれた。

「大久保さん、ありがとう…
 でも、私、やっぱり帰ります。できることなら、このまま二人の顔を見ずに帰りたい」

 私は幽さんの言葉を思い出した。三奈さんはもう敗北を認めている。男と女の関係は、時には残酷に片方の気持ちをぶった切る。私にはまだそんな経験はないけれど。

「分かりました。じゃ、今から、私が三奈さんの荷物をここへ持ってきます。
 で、でも、三奈さん、それでいいんですか?
 ごめんなさい… 私は、全然関係ない人間なのに、何だか腹が立って悔しくて。
 でも、実は、あの部屋って、そんな負のパワーを感じたら、変な事が起こったりするので、それに期待してください。いや、期待しましょう。
 修斗君みたいな、意地悪な人間のわがままがまかり通るなんて、絶対にあってはならないって思うから」

 三奈さんは私の勢いに圧倒されて、思わず笑みをこぼした。でも、すぐに悲しい顔になる。

「その変な事が起きる事を私も心の底からお願いします。
 修斗に絵里のやつ、私の気持ちを知っておいて、このツアーが終わるまで黙ってたなんて本当に許せない。
 私が当てたツアーなのに…」

 三奈さんの大きな目はあっという間に涙の洪水になる。

「三奈さん、私に任せて!
 い、いや、私がどうするわけじゃないんだけど、でも、絶対に、修斗君はいつか痛い目に遭うのは間違いないです。三奈さんをこんな酷い目に遭わせたんだから」

 私はそう言うと、すぐに三奈さんの荷物を109号室へ取りに行った。私がドアをノックすると、絵里という女が当たり前のようにドアを開ける。私は仕事モードに気持ちを切り替える。そうじゃないと、また幽さんに怒られてしまう。

「あの、三奈さんはやっぱり帰るそうです。なので、荷物を取りに来ました」

 私がそう言うのを待っていたみたいに、修斗のくそ野郎は三奈さんのトートバッグを足で私の方へ押しやった。そして、無言で私に顎で何か指図する。私はわざと声を出して、何ですか?と聞いた。

「早く出てって。それと、夕食も急いで準備して。
 それだけ」

 もしこの部屋が氷点下の氷の世界だったら、私の頭から湯気が立っているのがすぐに分かっただろう。いや、噴火して火を噴いているかもしれない。それほどに、私の怒りは頂点に達していた。部屋を出たと同時に、私はまた幽さんを呼んだ。

…幽さん、あの男を死ぬほど怖がらせて、お願い!

 幽さんは隠す事もせずに笑っていた。私の様子がそんなに可笑しいのか、クックと声まで聞こえる。

…もう、幽さん、笑い事じゃないよ。
 私と三奈さんはすごく真剣なんだから。

 幽さんのそよ風のような笑い声は、怒りに達している私の脳を優しく癒してくれる。

…怖がらす事は僕の得意な事だけど、落ち込ますのはどうだろう。
 多実ちゃんが気に入ってくれればいいけど。
 あの子達も、怪奇現象を今か今かと待ってるみたいだから、一個くらいは何かしてあげようと思ってる。

…一個と言わず百個でも。

 私のその思いに幽さんはまた笑った。

…その事は僕に任せて、多実ちゃんは早く三奈さんの元へ行ってあげて。
 それに、夕食の準備も急いでやらないと、またあの子から嫌味を言われちゃうよ。

 幽さんの言葉に私も苦笑いをした。本当にその通りだ。今度嫌味を言われたら、怒りのあまり修斗君の首根っこをつかみそう。私はちょっとだけ冷静になって、三奈さんの元へ向かった。

 三奈さんは口数少なくこの旅館を後にした。その様子を見ていたおばあちゃんが心配して、私に事情を聞いてくる。私が簡単に今の状況を説明すると、おばあちゃんはこうアドバイスをしてくれた。

「男と女の関係に、首を突っ込みすぎない事。旅館でもてなすというのは簡単なようで難しい。
 多実は、言ってしまえば、ただの通りすがりの人と一緒なんだよ。必要以上に、その人達の記憶に残るような事はしちゃダメ」



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