本物でよければ紹介します

便葉

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八月十五日 可愛いあの子

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「幽さんが会いたくなかったら、加藤さんは違う部屋にしてもらう。
 そんな無理矢理な事はしたくないから…」

 幽さんはやっと顔を上げてくれた。その表情は晴れやかではないけれど、何か納得したようにも見える。

「多実ちゃん、いい機会だから、僕の秘密を教えてあげる。いつかは多実ちゃんに話す事になるってずっと思ってた。漠然とだけど、それは遥か昔から、心のどこかに引っ掛かってた。
 やっとその意味が分かったよ。
 多実ちゃんがこの世に生まれてこんなに仲良くなった僕達の絆が、こういう日を、きっと引き寄せたのかもしれないね」

 幽さんの秘密は、きっと自殺をした理由…
 私は冷静に聞く自信はないけれど、でも聞きたいと思った。
 どうして幽さんが幽霊になっちゃったのか、それを知る事で私達家族が少しだけ報われるかもしれないから。

「多実ちゃん、ここに座ってごらん」

 この台詞は今も昔も変わらない。友達にいじめられて泣いている私を、幽さんはいつもこうやって側に呼んでくれた。私は幽さんの目の前に座った。モノクロの世界の幽さんはいつも穏やかに笑っている。

「るりちゃんは…
 きっと、自分を責めて生きてきたんだと思う。
 僕が命を落とした理由が自分にあると思って…」

 私は自分の胸の鼓動が大き過ぎて、中々集中できない。それだけ、二人の過去を聞く事に勇気が必要だった。

「でも、加藤さんはそんな風じゃなかった…
 幽さんとの思い出話を幸せそうに私に話してくれたもん」

 幽さんに傷ついてほしくない。私はこうやって幽さんを守る事ばかり考える。

「るりちゃんは僕の初恋の人だった。
 お見合いで初恋っていうのも笑えるけど、でも、それだけ僕は奥手で仕事ばかりしている人間だった。
 そんな僕の生活を一変させたのがるりちゃんだった。可愛くて綺麗で品があって、僕の完全なる一目ぼれだったんだ」

「分かる…
 だって、私だって、一目で加藤さんの事を好きになったから」

 幽さんの嬉しそうな顔は本当に魅力的だ。心が純粋なのが手に取るように分かる。きっと、純粋過ぎたせいで、この汚れた世界で生きていけなかったのかもしれない。

「るりちゃんは、僕の勤める会社の大切な取引先の銀行のご令嬢だったんだ。
 僕はたまたまその会社で業績を上げていて、同期の中ではエースと呼ばれていた。
 特に、上司の中で何故だか評判がよくて、普通の家庭で育った僕なのに、るりちゃんとのお見合いをすすめられたんだ。僕は恐れ多くて何度か断ったんだけど、でも、一回会ってみればって事で、銀座の喫茶店で待ち合わせをした」

 私はもう夢の世界だった。今から五十年以上も前の日本がどんなだったか想像がつかないけれど、でも銀幕の世界が私の頭の中に広がっている。色のついた幽さんに若かりし頃の加藤さん。そんな二人が恋に落ちるなんて、もう素敵過ぎてため息しかでない。

「るりちゃんは、本当に素敵な人だった。すれてないというか、天使っぽいっていうのが一番合ってるかな」

 私はうんうんと何度も頷く。

「僕達は、あっという間に恋に落ちた。
 こんなにも人を好きになるなんて、僕の頭の中にあるはずのない言葉が次から次へと出てくるのが本当に不思議で、僕はつま先から頭のてっぺんまでるりちゃんに惚れていた。

 でも、半年ほどつき合って三か月後に結婚が決まっていたある日、ある出来事が起こったんだ」

 雲行きが怪しくなりだした幽さんの話は、きっと、ここからどしゃ降りになる。

「その頃の僕は自動車のエンジンの開発グループに属していた。
 自動車産業が勢いを増している時で、高性能のエンジンを開発する事が一番の仕事だった。
 僕は若かったけど、そのチームのリーダーで指揮を執っていて、僕達のエンジン開発は他のライバル会社より頭一つ進んでいた。
 ところがそんな中で、僕達が開発しているエンジンの図面が、他に流れたんだ」

 私は耳を塞ぎたくなった。ここから幽さんの転落人生が始まる。

「結局、犯人は見つからず、というか、どうやら犯人は僕となってる雰囲気だった。
 違うんですって声を張り上げるタイプじゃない僕は、会社から左遷を命ぜられた。
 今までのキャリアも人脈も全て否定されて、僕は着の身着のままでこの街にあった工場へ配属になったんだ」

 幽さんの沈んだ瞳を見たくない。私はおばあちゃんの言葉を思い出した。

「幽さんはこの旅館をすごく気に入ってくれてたって、おばあちゃんが言ってた。幽さんは優しい性格だったから、旅館で働く全員が幽さんの事を好きだったって」

 幽さんは目を細めて小さく頷いた。そして短い沈黙の後、また堰を切ったように話し出す。

「僕とるりちゃんの婚約ももちろんは破棄になったよ。僕の中の唯一の灯も消えて、でも、それでも僕は負けなかった。濡れ衣を着せられた事は悔しかったけど、でも、るりちゃんのために頑張ろうと思ったんだ。
 それが、僕にとっては生きる意味であって、目標だった。僕がここから這い上がってまたエースの地位に戻る事で、全ての悩みは解消できるとそう思ってた」


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