本物でよければ紹介します

便葉

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八月十五日 可愛いあの子

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 お風呂から出てきた加藤さんは、薄っすらと軽く化粧をしていた。髪も綺麗に乾かし、上品な姿は変わらない。

「あら、多実さん、待っていてくれたの?」

 加藤さんは私を見つけると、顔がパッと明るくなった。

「はい、109号室は一番奥になるので、加藤さんが迷わないか心配で…」

 私が話し終わらない内に、加藤さんは私の手を握ってきた。

「ありがとう。多実さんは本当に優しいのね」

 もし加藤さんが他の誰かと結婚をして普通に子供を産んでいれば、私と同い年くらいのお孫さんがいても不思議じゃない。そんなささやかな幸せの味も知らずに生きてきた加藤さんを想えば、私は、尚更、加藤さんのこの旅を有意義なものにしてあげたかった。

「加藤さん、もう、夕食の準備ができてますよ」

 私はお父さんに頼んで、ちょっと早めに夕食の準備をしてもらった。高齢の人達は夜が早いと聞いている。実際、私の祖母も夕方になれば、父に任せて早々と自分の部屋へ戻ってしまう。
 私の隣で嬉しそうに微笑む加藤さんは、幽さんの気配を感じているのかな…
 そんな事をぼんやりと考えながら、私達は幽さんの待つ109号室へ向かった。

「あら?」

 加藤さんは、ちゃぶ台に二人分の夕食が準備されている事に驚いた様子で私を見る。

「私も一緒に食事をしてもいいですか?」

「ええ、もちろん。嬉しいわ」

 加藤さんの喜びように私の心も穏やかになる。そして、視線の先には、しょうがなく微笑む幽さんの姿が見えていた。

…幽さん、もし気が変わって、加藤さんに何か伝えたいって思ったら、いつでも私にメッセージを送ってね。

 幽さんは困ったように微笑んでいる。私はそんな幽さんの事は無視をして、加藤さんへのおもてなしに精を出す。

「加藤さん、飲み物は何がいいですか?
 一応、ビールと日本酒も準備していますけど」

 加藤さんはちゃぶ台の前へ腰をかけると、首を傾げて考えている。その姿が可愛すぎて、私は幽さんに話しかけた。

…幽さん、加藤さんって昔っからこんな感じだったの?

 加藤さんの背後に姿を見せた幽さんは、前の方へ回り込み、加藤さんの様子を目を細めて見ている。

…昔のるりちゃんなら、中々決められないはずだよ。
 あっちもいいし、こっちもいいしって、いつまでも悩むんだ。

 幽さんの言う通り、中々、加藤さんからの返事はなかった。私は可笑しくてずっとその姿を見ていると、また幽さんの声が聞こえる。

…僕の予想では、日本酒かな。寒い日に、二人でよく熱燗を飲んだから。

…幽さん、今は真夏だよ。

 私は笑うのを堪えながら幽さんにそう呟いた。幽さんも笑っている。愛おしそうに加藤さんを眺めながら。
 しばらくして、やっと加藤さんの口が開いた。

「ごめんなさいね。中々、決められなくて… あの、日本酒をお願いします」

 私はさっきの幽さんの話を聞いてしまったせいで、もしや熱燗で?と目を丸くして加藤さんを見た。こんな暑い日に熱燗なんて思いもつかない。準備している日本酒は冷蔵庫でキンキンに冷えているのに。

「冷酒でいいですか?」

 加藤さんはまた何かを考え出した。冷酒か熱燗でまた迷ってる?

「あ、冷酒でお願いします。何だかこの部屋にいるせいか、昔の思い出がすごく頭の中に甦ってきて」

「康之さんと、寒い日によく熱燗を飲んだ事とか?」

 またしでかした…
 言った直後に後悔するなら、言う前になぜ気付かない?
 私が目を泳がせていると、加藤さんが半信半疑にこう聞いてきた。

「やっぱり、居るんでしょう?
 今、ここに、康之さんが…」

 私は、加藤さんの純粋で真っ直ぐな瞳に心があたふたする。遠めに幽さんの姿を感じながら、何も聞こえなかったように冷蔵庫から日本酒を取り出した。
 何も言わず、加藤さんに笑顔で小さめのコップを渡す。もう十分に大人の加藤さんは、そんな私を見て小さく頷き、私の気持ちに寄り添ってくれた。

「ありがとう。ほんの少しでいいからね。今の私には、お酒も毒になってるの。残念だけど」

 私は加藤さんの申し出通りに、コップの三分の一程度に冷酒を注いだ。そして、加藤さんの方から私のコップにも同じ程度の冷酒を注いでもらい、二人でグラスをカチンと合わせる。
 その音は窓際のいつもの場所に腰掛ける幽さんの耳にも届き、私達を見て微笑んでくれた。るりちゃんの幸せは僕の幸せみたいな、いつもの幽さんの穏やかな微笑みが、少し寂し気に見えるのがちょっと気になったけれど…

 私達は、ゆっくりと時間をかけて夕食のご馳走を堪能した。旅館でもてなす食事は、調理師免許を持つ父が、地元の食材を使って真心を込めて作っている。私は、一品一品に込められた父の思いを加藤さんに話した。加藤さんは私の話を真剣に聞き、その後にその料理をゆっくりと口に入れる。

「本当に美味しい…」

 優しい加藤さんは、何度も何度もそう言ってくれた。


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