神逐(かんやらい)

潯 薫

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 断崖に突き出した大きな岩棚からは、日向ひゅうがの里が一望できた。緑と山河に囲まれた天然の要害をもつ堅牢な里だ。建速たけはやはこの里で産まれ、十五になるまでずっとここで暮らしてきた。

 ――なにより美しい。

 建速たけはやは、この日向ひゅうがの里が好きだった。
 国父おやじ殿は何かと言うと出雲への郷愁を口にし、この日向ひゅうがの里を田舎呼ばわりするが、彼にとっては出雲の国こそ縁もゆかりもない異国。この日向ひゅうがの地こそが世界のすべてだった……昨日までは。

 新緑眩しい眼下の景色から空へと目を移す。手元の岩魚いわなの焼きものを狙って、鷹がゆらりと風を掴んで飛んでいた。
「俺にも、かように自由な翼があればな」
「でかいため息じゃ。阿蘇の煙も吹きとぼう」
 人の気配などまったく感じなかった建速たけはやは、急に背中に声を浴びて驚いた。
月読つくよみ兄者あにじゃ! これは人が悪い。肝を冷やした」
「はっは。この程度のれ事で驚いていては肝がいくつあっても足らんぞ」

 建速たけはや月読つくよみは、六尺|(約百八十センチ)の高身長、固く締まった筋肉、彫りの深い顔立ち、切れ長の目もと、どれもが瓜二つの兄弟だ。違いは兄の月読つくよみが知に秀で、建速たけはやが武に秀でていることだった。

「で、どうだった?」
兄者あにじゃの言うとおりだった。出雲奪還の足掛かりに、夜見よみの国討伐を命じられた。手勢五十!」
「またえらく少ないな」
 元より討伐の成功など期待されてはいない。むしろ戦死を望まれている。命を落とさなかったとしても、敗北の責任を追及し亡きものにできる。これを無理難題だと出征を拒んだ建速たけはやは、国父おやじ殿の怒りを買って追放されることになった。どう転ぼうが、建速たけはやにとって分の悪い罠だった。

大宜都おおげつ異母姉上あねうえは、もはや魂胆を隠す気など更々ないようだな」
 これが国父おやじ殿ではなく、異母姉上あねうえの差し金であることは間違いない。かねてより異母姉上あねうえは、建速たけはやたち三姉弟が国母はは様の子ではないために、うとんじていたのだ。
「やはり、異母姉上あねうえの策略ですか」
「だな。それにしても、国父おやじ殿は、まるで言いなりじゃないか。酷いもんだ。ここまでとなると猶予はないな。建速たけはや、直ぐにここを出るぞ」
兄者あにじゃも一緒に?」
「ああ。ただし、俺は表の世界からは姿を消す。これよりはお前の影となる」
 一人ではなし得ないことも二人でならやれるかもしれない。
 建速たけはやが木串を勢いよく振ると、岩魚いわなかじり残しが空へ飛んだ。機を逃さず翼を折り畳んだ鷹が弾丸のように飛来した。そして両足にしっかりと獲物を捉えて再び空へと舞い上がっていった。

 ※※※

 建速たけはや月読つくよみを乗せた船が関門海峡に差し掛かった。従う兵こそ少なかったが、船には大宜都比売おおげつひめから奪った食料や酒をたっぷりと積み込んでいた。
兄者あにじゃ。上手くいった」
「ああ。上首尾だ」
「しかし、姉御と別れの言葉を交わせなんだのは残念」

 建速たけはやは、まず長姉の天照あまてらすを訪れた。あらかじめ使いを出して示し合わせていた通り、天照あまてらすは固く門戸を閉ざして会おうとはせず、建速たけはやに矢を放って追い払った。この時、随伴の兵たちともはぐれ、建速たけはやはたった一人で逃げることになった。
「弟が離反したことで肩身は狭かろうが、矢をもって追い返した姉御が酷い扱いを受けることはなかろう」

 次に建速たけはやは敢えてみすぼらしいなりに身をやつし、大宜都比売おおげつひめの館を訪れた。月読つくよみが気配を殺し、徹底的に建速たけはやを孤立させ、お供さえも失った単身のように見せかけたお陰で、大宜都比売おおげつひめも油断していた。
 長年密かに憎んできた異母弟が、恥も外聞も捨てて空腹を訴え、自分に命乞いをする様は、最高に甘美だった。
「そなた、天照あまてらすからも矢で追われたそうな。不憫よの。どうじゃ、我の慰みとして匿ってやってもよいぞ。われる身というのも悪くはなかろう」
 その夜、夜陰に乗じた月読つくよみが伏兵と共に守りの薄いところを攻め立てるのに呼応して、建速たけはやは、あっさりと大宜都比売おおげつひめを討ち取った。

 船は関門海峡の西へ向かう潮に乗り、順調に進んでいた。
兄者あにじゃ。この後は?」
夜見よみの先、鳥髪峰とりかみのみね|(現在の船通山せんつうざん)に住まう【たたらの民】と会う」
「たたらの民?」
「あぁ。製鉄を生業なりわいとし、釜に使う良き土の出る山中に住まう者たちよ。独立独歩の精神に富む連中で、支配されることを好まぬ奴らだ」
「そのような者たちが、味方になってくれますか?」
「なるさ。追放の身とはいえ、伊邪那岐いざなぎの血を引く者へ恩を売るのを拒むものなどおらぬ。そして……」
 そう言うと、月読つくよみは山と積まれた酒樽を指さした。
「これがある。たたらは八か所、これを遠呂智おろち八衆と言うらしい。彼らを味方にすれば鉄が手に入る。鉄があれば出雲を取り戻すことも、姉御を盛り立てていくことも意のままだ。俺たちで伝説を作ろう」
「わかった。兄者あにじゃを信じる」

 そう言うと、建速たけはやは空へと拳を突き上げた。そこへ日向ひゅうがの里から付いてきた鷹がふわりと留まった。
「良き仲間が出来たな。何か名を付けてやれ」
「そうだな。よし、俺の名をやろう。お前ははやだ」
 建速たけはや須佐之男すさのをは、そう言うと珂々と笑った。
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