名もなき姫の手記

sheryl00

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灰に埋もれた名

灰の上に残る温もり

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火は、夜の半ばを越えても燃え続けた。

翌朝。
風の中に、まだ灰がくるくると舞っている。

柳妃の宮は、崩れた壁と柱だけを残し、ところどころから薄い青煙を吐いていた。
濡れた地面は人の足で踏み荒らされ、泥に変わっている。

宮人たちは頭を低くしたまま行き来し、焼け焦げた梁や砕けた瓦を、ひとつずつ運び出していく。
誰ひとり声を張る者はいなかった。

私は瓦礫の縁に立ったまま、近づきもせず、離れもせずにいた。

炭色に変わった窓の格子が目に入る。
そこは、柳妃が雨を眺めていた場所だった。

雨の日には窓を少しだけ開け、湿った空気を部屋に招き入れる。
低い卓に湯の入った急須を置けば、白い湯気が細く立ち上り、外の雨霧と溶け合っていく――そんな光景を、私は何度も見てきた。

いま残っているのは、空っぽの枠だけだ。

断壁のあいだを風が抜け、低く唸る。
誰かが喉の奥に押し込めたため息のように。

灰が袖に落ちた。
軽く払ってみたが、きれいには落ちない。

その瞬間、はっきりと思い出した。
私が初めて、自分から柳妃の宮へ足を向けた日のことを。

――初夏の午後だった。

御花園では石榴の花が赤く咲き始め、空気は雨を含んだように重い。
回廊に立ち尽くすうち、理由のない苛立ちが胸に溜まり、私は小径を気の向くまま歩いた。

気づけば、柳妃の宮の門前に立っていた。

門は半分だけ閉じていて、中はひどく静かだ。

引き返そうとした、そのとき――
奥から琴の音が流れてきた。

宮宴で聞くような整いすぎた曲ではない。
とても軽く、ゆっくりした旋律で、
水が石の間をすり抜けるようでもあり、柳の梢を風が撫でるようでもある。

私は門の外で立ち止まり、音が途切れるまで動けなかった。

やがて扉が静かに開く。

柳妃が内側に立っていた。
素朴な袖、髪には銀の簪が一本だけ。

私を見ても驚かず、ただ微笑んで言う。

「殿下、どれくらい立っていらしたの?」

私は答えに詰まり、小さく言った。
「……通りかかっただけです」

柳妃は身を引き、静かに中へ促した。

部屋には、ほのかな桂花の香り。
卓の上には、まだ温かい杏仁の菓子が一皿。

柳妃は来意を問わず、ただ茶を注いでくれた。
杯の縁が、少し熱い。

「お菓子は、お好きですか」

その言い方は、驚くほどさらりとしていた。

後で知ったことだが、その菓子は皇后から賜ったものだった。
柳妃は甘いものを好まないのに、私のためにいつも少しだけ残していたという。

焼け跡に立ついま、私はまたあの桂花の香りを嗅いだ気がした。
けれど周りにあるのは、焦げた木と湿った土だけだ。

数歩、前へ出る。
砕けた瓦を踏むと、乾いた音がした。
足元の泥は柔らかく、靴底を吸い寄せるように重い。

風が再び断壁を抜け、低く唸る。
灰は舞い上がっては落ち、落ちてはまた舞う。
まるで、この場所から離れたがらないかのように。

掌からじわりと冷えがのぼってくる。

そのとき――
焦げた匂いとは違う香りが、ふいに混じった。

冬の夜、炭が赤くなり、松脂が小さく鳴る――
あの、静かな温もりの匂い。

記憶は、戸を叩かずに入り込んできた。

大雪の日だった。

私の小さな院は炭が足りず、指先が痺れるほど冷えていた。
手炉を抱えたまま窓辺に座り、庭に静かに積もっていく雪を眺めながら、誰にも言い出せずにいた。

しばらくして、柳妃の宮から人が来た。
炭が二籠、厚い外套が数枚、それから温められた銅の壺。

その日、私は礼を言いに行かなかった。
けれど翌日、結局私は柳妃の宮へ向かった。

柳妃は茶盃を静かに私の前へ寄せ、やわらかく尋ねた。

「昨夜は、少しでも暖かく過ごせましたか」

恩着せがましい声でも、憐れむ目でもない。
ただ、姉が妹に「寒くなかった?」と問うような調子だった。

――火が空を赤く染めた夜。
私は炎の前で、帝の手が握られてはほどかれるのを見ていた。
柳妃の顔は、見えなかった。

けれど今、灰の中に立っていると、はっきり見えてしまう。
柳妃がいつも纏っていた表情――静かで崩れず、深い水の色を湛えた何か。

風がもう一度、瓦礫を撫で、折れた梁が空洞の音を返した。

私は顔を上げる。
宮墻に切り取られた空が、細い裂け目のように見える。
そこに夕映えが残り、赤と金が重なって、皇城全体が血と火に染まったようだった。

その空が、いつかの黄昏と重なる。

――あの日も、こんな落日だった。

柳妃は回廊に立ち、袖を垂らして空を見ていた。
影は長く伸び、身体はひどく細く見えた。
喜びも悲しみも浮かべず、ただ言葉にしがたいほど澄んだ目で。

私は迷ってから、小さく尋ねた。

「もし宮城を出られるなら……柳妃は、出ますか」

柳妃は振り返らず、淡々と言った。

「殿下。行きたいと思うだけで行ける道ばかりではありません」

あの時の私は分からなかった。
いまなら、少しだけ分かる気がした。

柳妃と帝の若い頃のことを、私は詳しく知らない。
けれど宮の中では、途切れ途切れの噂がいつも、ひどく小さな声で流れていた。

――昔、王府で目立たない侍女だった。
――街で助けられ、殿下のそばに置かれた。
――苦しい時期、読書や絵や茶で殿下の時間を支えた。

噂は噂のまま軽く語られ、すぐに消されていく。

いま、その欠片が火光と灰と折れた梁に重なり、やけに鋭く胸に刺さった。

風が灰を運び、私は思わず瞬きをする。
瞼が熱くなる。

私は気づいてしまった。
私が見ていた柳妃は、表面に過ぎなかったのだと。
私が「淡い」「静か」と呼んでいたものは、長い時間をかけて押し込めてきたものの形だったのかもしれない。

そして、この火は――

突然の出来事ではなかったのかもしれない。
柳妃がずっと前から見据えていた結末だったのかもしれない。

私はゆっくりしゃがみ込み、焦げた木片を拾った。
木というより、燃え尽きた記憶のように軽い。

私は小さくつぶやく。
空の庭に向けて――あるいは、自分自身に向けて。

「……あなたは、何を見ていたの?」

返事はない。
ただ壊れた門枠を風が抜け、灰と煙を連れて私の頬を撫でた。

もう一度、さらに小さな声で問う。

「……誰のために、これを背負ったの?」

遠くで宮人たちが残骸を運び続ける。
鉄がぶつかる耳障りな音。
天の向こうでは城の鐘がゆっくり鳴り、新しい一日を告げていた。

けれど私は、過去と現在の境目に立ったままだった。

柳妃の沈黙も、優しさも、淡さも、弱さではなかった。
それは胸の底に沈めてきた決断だった。

そして私は――
ただ平穏に、目立たずに生きたいだけだった私が、もう岸辺から水の流れを眺めていられないことを知る。

灰がまた舞い上がり、掌に数粒落ちた。
重さなんてほとんどない。
それなのに、手放せないほど重い。

私はゆっくり指を握りしめた。

泣かなかった。
けれど胸の奥で何かが割れ、静かに芽を出し始めるのが分かった。

宮城は変わらず高い。
それでも私は、もう壁だけを見てはいない。
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