名もなき姫の手記

sheryl00

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灰に埋もれた名

柳絮の面影

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柳妃の選択も、王府の昔語りも――私はもう輪郭くらいはつかんだつもりでいた。
けれど、見えたはずの線がそろうほど、かえって彼女がわからなくなる。

王府に入ったころから、あの人は淡々としていたという。
絵を描き、詩も作る――そんな教養は、ふつうの家では身につかない。

なのに宮中の噂はこう言う。
「花街の出」――路上でいたぶられていたところを王爺に助けられ、そのまま王府に入った、と。

もし本当にそうなら。
彼女の過去は、もっと曲がり、もっと黙り、もっと重い。

灯の下で長く座りつづけ、私は翌日、花街へ行くと決めた。

女の身で出入りするのは都合が悪い。
だから男装を用意した。

最初は護衛の衣を借りたが、着てみればひどくおかしい。
袖は余り、肩は落ち、帯を締めても体が薄く見える。
まるで子どもが大人の服を盗み着たようだった。

仕方なく、内侍官の服に替える。

布は柔らかく、寸法も合った。
鏡の中の私は髪を束ね、目を伏せている。公主には見えない。
――宮城に入ったばかりの若い内侍官。
身分をにおわせれば、問いただすにも都合がいい。そう考えて、そのまま行くことにした。

翌朝、馬車は隣の通りで止めさせた。
そこからは一人で歩く。

花街は昼の顔になると、どこか疲れて見えた。
赤い提灯はまだ灯っていない。
門の塗りははげ、脂粉のにおいが古い木の気配と混じって風に流れる。

門口に寄りかかって欠伸をする女がいて、私を一瞥し、すぐ視線を戻した。

屋敷の者が語っていた場所をたどり、私は小さな青楼の前で足を止めた。
門は半分だけ開き、格子は色あせている。年季の入った建物だ。

戸を押すと、中は薄暗いのに油灯が一つ点いていた。
鴇が帳台に寄り、算盤をはじいている。
私を見ると一瞬だけ目を見開き、すぐ笑みを作った。

「公公、昼間に珍しい。どなたかのおことづてで?」

私はすぐには用件を言わず、ゆっくり室内を見回した。
壁に古琴、隅に刺繍の屏風。古びてはいるが、妙に品が残っている。

それから静かに言った。

「宮中では近ごろ、人さらいの取り締まりが厳しい。
 ここにいる女は皆、名簿に載っているな?」

鴇の顔色がわずかに揺れたが、すぐに笑みを厚くした。
「もちろんでございます。少しお待ちを。すぐ帳面を――」

ほどなく、黄ばんだ厚い名冊が出てきた。
私は頁を繰り、指先で名前を追う。

そして、そこで止まる。

――「柳絮」。

墨は古いのに、文字だけははっきりしていた。

私は鴇を見上げた。
「この者を覚えているか」

鴇は目を細め、記憶を探る。やがて小さく頷いた。
「ええ。忘れようがありません」

柳絮は入楼したころまだ幼かったが、文字が読めた。
顔立ちは清らかで、身のこなしも崩れない。
目をつける客は多かったが、彼女は冷たく退けたという。

「気性が強うございました」
鴇はため息をつく。
「十五の年、客を取れと言えば死んでもいやだと。夜に逃げました」

私の指が、帳面の端で止まる。
「……そのあとは」

鴇は笑ったが、そこに侮りは少なかった。
「運のある子です。逃げた先で貴人に拾われ、その場で身請けされました。それきり戻りません」

私は帳面を閉じ、なお「柳絮」の二字から目を離せなかった。
「自分からここへ来たのか?」

鴇は首を振り、机の下から古い証文を引きずり出した。
「いいえ。牙行から買った子です」

紙はざらつき、墨はくすんでいる。牙行の名と、取引の日付。

牙行――奴婢の売買と契約を扱う場所。
追い詰められた家が子を売ることもある。
だが人さらいが連れ去った女や子を、帳面の上だけ「契」として流すこともある。
禁ずるほど、手口は巧くなる。そこはいつも灰色だ。

私は証文を袖に入れ、短く頭を下げた。
「礼を言う」

鴇は笑顔を崩さず、私を門まで送った。
外へ出ると、日の光がやけに眩しい。
通りはいつも通り騒がしいのに、胸の奥だけが重く沈む。

柳妃は、花街で生まれたのではない。
牙行から流れてきた。

私は迷わず踵を返し、牙行へ向かった。

牙行の構えは立派ではない。
戸口に古い札がぶら下がり、「雇」「売」「契」と雑に書かれている。
出入りする人の顔はさまざまだ。布の擦れた農夫、目の利きそうな仲買。

敷居をまたぐと、紙と墨の古いにおいが鼻を刺した。

帳台の向こうに座る男が、私を一度見て笑った。
「公公、旧帳の照会ですか。新しい契ですか」

私は柳絮の証文を、卓にそっと置く。
「これを」

男は目を細め、分厚い帳面を引き寄せた。
頁をめくる音が、室内に湿ったように響く。
紙をめくっているというより、誰かの一生をめくっているようだった。

長い沈黙のあと、男は手を止め、帳面の一行を指した。

「この子は……少しばかり、筋が変わっている。
 親が直に売りに来たわけでもない。飢えに負けた家の“身売り”でもない」

彼は少し声を落とした。

「当時、ある者が『行き場のない孤児だ』と言って預けてきました。
 どうにか口を与えてやれ、と」

言葉は柔らかいが、それが清い話ではないことくらい、わかる。

男はさらに続けた。

「そのころ、城外の別院で火事がありましてね。
 女と幼い子が死んだ。

 騒ぎのあとで、焼け跡のそばに泣いている小娘を見つけた者がいた――
 そして、そのまま連れて行った。牙行に流れてきたのは、そういう話です」

八つ。
その年齢が、胸の奥に重く落ちた。

私は何も言わないまま、証文を取り、牙行を出た。
風が頬に当たる。なぜか冷たい。

宮へは戻らなかった。
馬車に道を変えさせ、私はその「別院」の跡へ向かわせた。
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