デラシネ議事録

秋坂ゆえ

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 太い眉毛が流行りであるということはたまに見るテレビやら雑誌やらから何となくは知っていたのだが、それにしても今茹で時間七分のパスタを手に取りバーコードをピッとやって次に四分の一のキャベツを掴もうとしているレジ打ちのこの若い女子、恐らく高校生くらいだが、彼女の眉毛ときたら地毛は真っ黒だというのに描いているのが茶色のペンか何かで全体的に焦げ茶色、よくよく見ると無理して太くしましたと毛根が叫ばんばかりの荒々しさで、左右の眉頭がビッと存在感を、何の主張かは分からないけどとにかくアピールしているから、もういっそ一本につないでリアム・ギャラガーにでもなったらどうだ、別にノエルでもいいけど。レジ袋? 結構です。

 食品の入った緑のバスケットを左手に、右手はエコバッグを鞄から探り出し、主に女性、主に中高年の女性で構成されるこのスーパーの出口付近の台まで行って中身をエコバッグにざざざと入れる。ほとんど毎日来てるから店内放送で流れるこのチェーンのテーマソングみたいな音楽を頭が完全に記憶してしまった。太眉のレジ打ち女子に彼氏は居るのだろうか、居たらメイクが落ちた後どんな顔をするのだろうか、などと思いながら暖房が荒れ狂う店を出て、寒波が荒れ狂う通りに戻る。一応駅から続く目抜き通りだが暗黙の了解で車は滅多に通らず、通れてもせいぜい一台、しかも常時歩行者や自転車やバイクがうようよと居るから何も知らない奴が誤って車で侵入しようものなら通行人らは冷ややかな視線を投げかけることとなる。そんな蛇行した道を駅に向かって歩き、ちょっとした商店街、古き良き時代からの人情味ある下町風のこの一角、に、場違いなやかましさとけばけばしさで君臨するパチンコ屋の角を曲がって歩けば二軒先が俺のアパート、二階、角部屋。

 ドアを開けて、よっこら、と言わんばかりの体でエコバッグと我が身を室内にねじ込み、冷蔵庫を開けて牛乳や漬け物や生野菜を放り込む。パスタは冷蔵庫の脇の棚に射す。ぐちゃぐちゃのままシンクの横で萎えるエコバッグは放置して引き戸を開けるとエアコンを稼働させたままの部屋、俺の部屋、正面のテレビは真っ黒。静かだ。あと平和だ。ベッドに腰掛け、枕元に散乱している本本本、文庫本が主なんだけど、それらに視線を落としてゆっくり揺らす。色んな色と色んな文字が視界を泳ぐ。泳がせる。しばらくそうやって過ごそうかと思ったのだけど、この部屋は結構静かで、それが結構耐えがたい感じの静寂を形作ってきていたので、鞄からウォークマンを取り出して窓際のスピーカーに射し込み、再生ボタンを押した。俺は音楽を聞くけど、音を聞くんじゃない。音楽と共に頭のどこやらに焼き付いた記憶、記憶っていうと大義だけど、例えばこのアルバムを聞きながら通っていた高校、快速電車の混雑具合、その窓からかろうじて見えた雲の形、といった具合に、自分の中に蓄積された自分の痕跡みたいなもの、拾ってきたもの、意図せずして頭に残っているもの、それらを一個一個確認する、その作業が昔から大好き。さっきのスーパーのレジ打ち女子に敬意を表してオアシスを聞くことにする。「The Masterplan」を再生。ノエル・ギャラガーがオアシスの再結成は金目当て以外有り得ないとか言ったらしいけどどうだろな。ノエルといえば来日して日本の音楽番組に出演した後、それに対する大いなるディスを展開して妙に話題になったが、アレはテレビでも取り上げられたんだろうか。

 テレビ。テレビが世界を作るというか、テレビが世界の全てみたいな風潮は衰えつつあるけど地域や年齢層によっては未だもって全く有効、健在。確かにネットは広まった。でもアレだ、テレビの方がメディアとしてちょいとばかり先輩だからなのか、ネットの情報や媒体を軽視する向きというか、テレビが表でネットが裏みたいな、そんな空気はまだまだあって、ウチの親なんかネットの情報は全部デマか信憑性のないものだと思い込んでいる典型例。俺は正直テレビが恐いんだ。編集っつーのか、作り方っつーのか、撮り方っつーのか、そういうものが総じて暴力的だと思う。みんな同じことを言ってる、或いは有り得ねーよコイツみたいなキャラなり言葉なりをテレビという枠内だけで成立させて自己完結、その閉じっぷりが俺は恐い。テレビが映さない所にも光はあって人が居て生きていて生活していて各々の暮らしを展開していてそれら六十億だか七十億だかの大半はカメラに無視されるのに大衆とか視聴者とか呼ばれる。俺はテレビの素材よりもエディターでありたい。仮に俺がどんなイケメンでも顔をパッと写されてモラルに反した台詞のテロップでも付けられたらもう即死だ。だから俺は料理される側である素材にはなりたくない。
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