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第一章 BLOODLINE

第1話 吉報

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 『魔力』の発見によりテクノロジーの急速な発展を遂げつつも、社会構造の変革に足る人文科学的積み重ねがないために、未だ、封建制を脱しきれていない世界__






 静謐せいひつな柳の人工林を抜けると小さな湖畔が姿を見せ、そのほとりからは広大な平原が広がっている。平原はなだらかな斜面となっており、ごく緩やかな勾配はやがて遠くに優雅な稜線りょうせんを描き出す。亀の甲羅のようにゆるく弧を描いた丘……。そのてっぺんに、一棟の館が建っていた。
 深く暗い灰色をした石造りの壁面は、ともすれば不気味な印象を抱くやもしれない。しかし、苔一つもついていない清潔さ、ヒビの補修跡の几帳面な仕事ぶりから、ここが長い年月、代々大切にされてきた建物だと言うことは容易に察せられる。ひと目見たときに感じられる不気味さは、歴史の積み重ねが醸し出す荘厳さの表面的な印象なのだった。高名な彫刻家が彫った立像が、屋外展示を続けるうちに風雨に晒され輪郭も潰れて、それでもなお気品を保ち続けるのと同じように、この館もまた古びれながらも優美な佇まいをもって世界を睥睨へいげいしていた。

 そんな館の北側最奥、陽の陰りにある深窓を覗くと、ひとりの女の姿が見て取れる。物置として利用されている部屋である。埃っぽい空間の中で、女は額縁に飾られた一枚の絵画をじっと見上げていた。

 女はセムニア王国サン・テリア郡マローシェルが領主ジャック・フォン・ローネンダルク卿の夫人、ケイト・フォン・ローネンダルクと言った。

 彼女は眼前の絵画を射抜くような視線で見つめている。切れ長の目は、しかし下がり気味な目尻によって幾ばくかの柔和さを保っており、過剰に厳つい印象となるのを抑えている。眉骨は高く、顎は細く、だが尖りすぎてない鼻先は幼さの面影を残していた。
 外見のアンバランスさは、彼女の内面を直喩しているかのようだった。既婚とはいえ齢一八。少女としてのはつらつさを内に秘めながら、夫人としてのたおやかさを演じている。

 また、彼女自身、周囲から大人としての振る舞いを要求されることを楽しんでいる節があった。式典やパーティーなど少女としての自分を抑え込みながら歓談に臨むにおいて、他人が自身の年齢の若さに驚いているさまを見るのは痛快だった。
 あるいは、そういった心理の機序こそを少女らしさと言うのやもしれないし、むしろ彼女は実年齢より精神的にまだ幼いとすら形容されるやもしれないが、いずれにせよ彼女の外見はこのような背反を抱えるに相応しい代物だと言えるだろう。この種のアンバランスさは異性にとって蠱惑こわく的なチャームとして機能するという点についても、彼女は自覚的なのだった。彼女の髪型……少年のように短く切りそろえられた金髪とて、昨今の貴族間の流行りに乗じたというよりは、女性らしさと男性らしさの背反を魅力として演出する意図に依るものである。
 (表面上はともかく)どちらかといえば闊達かったつな性質のケイトである。そんな彼女は、内心に不安や物寂しさが募ると住まいを抜け出して、別邸たるこの館の絵画を見ることにしているのだった。

「奥様」

 ケイトの後ろから声をかける者があった。振り向けばふたりの使用人__ひとりはこの館の管理人であるラルフ・マンシェ。ケイトと同い年にして夭折ようせつした父親の家督を継ぎこの館と庭の管理を一手に担う青年である。
 もうひとりはレア・シャルランベルジュ。ケイトの付き人である妙齢の女性だった。

「奥様、先ほど屋敷の者が文を届けに参りました」

 レアが差し出した手紙をケイトが受け取った。封蝋を裂き素早く中身に目を向けながら、ケイトは彼女に話しかけた。

「ありがとう。その者は?」
「イザークです。今は馬車のもとに」
「そう。ひとりで来たのね」

 屋敷の者が封を開けなかったということは、これがケイト個人へ宛てられた手紙であるということを示している。また封蝋の印章にローネンダルク家の家紋が刻まれていることから、この手紙の差出人はケイトの夫ジャックであるとみて間違いない。

 レアは手紙を読むケイトに視線を向けていたが、やがて彼女の表情から察するものがあり、隣に立つラルフの方を見た。顎を少し上げるジェスチャーを、しかしラルフな何も解さなかった。彼女の黒髪の隙間から覗く瞳……人を引き込むような、奥底の見えない濃い茶色の目に魅了されていたのだ。
 レアはその目を閉じた。未だ、目配せの意味について要領を得ていないらしい彼に嘆息をついて、スカートを翻しながら足早に部屋を後にする。彼はここにきてようやく、手紙を読むケイトの口元がほころび、目が歓喜に細められているのを知ったのだった。

 レアがふたつの外套がいとうを手に戻ってきたのと同時に、ケイトは弾かれたように顔を上げて言った。

「屋敷に戻ります! ラルフ?」
「はい」
「私の部屋、散らかっているのだけれど、また来る時までそのままにしておいてくださる? 魔導書と……いくつかの図面が置かれているの」
「ご同行してお屋敷までお運びいたしましょうか?」
「いいえ、それにはおよばないわ。私の手慰みは主人には不評なのよ。設計にまで手を伸ばしたなんて知られたくないわ」
「承知いたしました」

 ハーフグローブを身につけ、レアが広げてくれた外套に腕を通す。丁度、部屋の中側に振り向いた彼女にラルフは聞いた。

「奥様、手紙にはなんと?」

 得心のいっていないラルフの顔を見てケイトは破顔した。元より童顔な彼である。きょとんとした表情をすると、大きな音に驚いて硬直したリスのようなおかしみがある。
 燦爛とした笑顔を向けたまま、ケイトはまるで数多の聴衆に向けて宣言するかのように答えるのだった。

「戦争が終わったわ!」
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