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弐拾壱ノ章(弐)
李義府、美眉との関係に懊悩す【貞観二十二(六四八)年、十二月】
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長安城内の東南部、左街の晋昌坊に近づくにつれて、人波は徐々に大きくなっていく。玄奘の一行は、まだ宮城に着いたかどうかというぐらいの時分で、慈恩寺に到着するにはまだ六刻(約一時間半)以上はあろうかと思われるのに、この調子でいくと、寺の門前は既に黒山の人だかりとなっているのは確実だ。普通であれば、とても玄奘の姿が拝めるような場所を確保することは困難だったにちがいない。
(やはり清秀に頼んでよかった)
李義府はそっと胸を撫で下ろしている。
本当なら小狡い真似などしたくはなかったのだが、今日の行事の全般を指揮するのが御史大夫の李乾祐であることを知った時、実際の現場で差配にあたるのは、おそらく侍御史筆頭の劉清秀だろうと、李義府には直ぐに見当がついた。清秀はいまも御史台から離れることなく、役所内で一段とその重みを増し、上役である御史中氶でも一目置いていると、専らの評判だ。
彼であれば、これまで多少の腐れ縁がないわけでもない。両筆を通じて、玄奘の姿を遠目なりともなんとか拝む方法はないものかと、無理を承知で相談してみたのだが、清秀は、
「なぜ、李舎人が?」
そう首を捻って訝しみながらも、割と簡単にその頼みを聞き入れてくれた。警備や監視にあたる小者が待機・休憩する場所として御史台が確保していた、大慈恩寺正門の斜め向かいにある薬舗の二階を使うことを許してくれたのである。無論これは厳密に云えば規則違反で、露見すると罰せられても文句は云えないところなのだが、
「なに、令史が同行していれば、どうとでも説明はつくさ」
そう弁明の仕方まで両筆に教えてくれたらしい。
劉清秀がここまで李義府に気を配ってくれるのも、どうやら兄の劉陽に、太子中舎人(※一)への昇進の内示が出たからのようだ。望んでいた中書・門下両省への異動ではなかったが、皇太子が次代の皇位を継げば、間違いなく横滑りで両省のどちらかに配属されることが予想される枢要な官職だ。これもすべて『晋書』の編纂に関わり、功績を挙げさせてもらえたお蔭だと、清秀は李義府に大いに感謝していたと云う。
確かに、今回の『晋書』編纂に携わることとなった面々のなかで、実質的な褒賞や御下賜金などは別にして、官職面で昇任・昇格があった者といえば、中書令を拝命した褚遂良や秘書少監に抜擢された令狐徳棻ぐらいで、執筆者のなかには一人もいない。それなのに、補助役にすぎなかったはずの劉陽だけが例外的に昇進するというのは不思議で、
(どうやら、延族の爺さんが動いたな、……)
李義府はそう察しをつけていた。どうやら許敬宗には、劉陽(あるいは劉清秀?)に恩を売っておきたい思惑があるようだ。なので、本当なら自分が感謝される謂れなどなにもないのだが、この際だからと、ありがたく感謝の気持ちは頂戴しておくことにする。
「それに、盗賊団捕縛の一件で、王栄のために身銭を切ってくれただろう。あのことついても、礼を云っていたよ」
両筆からそうも聞かされている。
(まあ、それなら、二割ぐらいは感謝される権利はあるか)
ご都合主義だが、李義府はそれで気持ち的には手を打っておくことにした。
だが、やはり清秀に大きな借りができてしまったことは確かで、周囲の人間とは適度な距離を置くことを信条としている李義府としては、しっくりこない部分はどうしても残ってしまう。それなのに、なぜ、これほど無理をしたのかと云えば、
「なんとか遠くからでもいいので、一目なりと和尚のお姿が見られないでしょうか?」
普段、まったくものねだりなどすることのない美眉が、今回に限って、そう李義府に懇願してきたからである。
敬虔な仏教徒の単純な願いからとはとても思えない、そのあまりに真剣すぎる姿がなんとも奇異に感じられて、
(美眉と玄奘の間には、なにか特別な因縁があるんじゃないか?)
李義府はずっと心にかかっていたそんな思いが、確信に変わりつつあった。
そう考えれば納得のいくことが多いのだ。以前から不審に感じていた仏像の件や、閨を共にしている際、前に一度、美眉が夢に魘され、「和上‼」と叫んで飛び起きたことがあるのだが、どうしたんだと李義府が尋ねても、「なんでもないわ」とはぐらかし、具体的なことをなにも教えてくれなかったことなど、すべてがそこに結びついていく。
美眉と玄奘との間に何があったのか、そのことを考えると、嫉妬にも似た感情を抱き始めていることに、李義府は自分でも呆れている。冷静に考えれば、仮に、美眉と玄奘との間になにか特別な因縁があったとしても、長年天竺にあった玄奘の過去を考えると、二人の接点は美眉がまだほんの子どもだった頃以外には考えられず、ましてや相手はあの玄奘である。下世話な男と女の関係など絶対にあり得ないのに、そこが人間という生き物の不思議なところだ。理性では判っていても、それを感情で制御することができない。
(いつの間に俺は、こんな人間になってしまった?)
美眉の昔に拘ってしまう自分に、李義府は正直、戸惑っている。しかし、二人の間の約束で、過去に踏み込むことは禁忌だ。
(俺にすべてを話してくれる日が、本当にやってくるんだろうか?)
いまはただ、黙ってその時を待つしかない。それまでの間は、美眉の思いがすこしでも晴れるように、自分としては出来る限りのことをしてやりたい。ただそれだけの思いで、今回、李義府はあまり好ましくない手段に手を染める羽目に陥ってしまったわけだが、なんだか深刻になっている李義府を心配したのか、両筆から、意外な提案が持ち出された。
「この際だ、みんな揃って見物としゃれ込んでみるっていうのはどうだい?」
美眉が玄奘和上の姿を拝む場に、春蘭、風柳に翔娘、そして孟拓も一緒に連れて行ってやろうというのだ。
「そんな物見遊山みたいに、……」
当初、その思いつきに違和感を持った李義府だったが、
(いや、むしろ悪くないか⁉)
そうすぐに思い直した。
妓楼に籍を置く妓女を店の外に連れ出すというのは、基本的には許されない行為だ。そこを店と談判し、美眉一人だけ特別に寺への参詣を許してもらうとなると、百華苑としても美眉一人特別扱いすることになるのは嫌がるだろうし、美眉にしても、他の妓女仲間に後々負い目を感じることになるかもしれない。しかし、そこに春蘭も一緒ということになれば、昨年の一件の厄払いという口実もできるし、さらに風柳と翔娘まで加われば、外部の宴席に店の妓女を派遣してもらうのと同じことで、花代を積みさえすれば、百華苑の方でも話を受けやすくなるだろう。
「よし、早速、蒙岳とかけあってみよう‼」
奇妙なぐらい意気込んで、李義府はすぐに話を通そうとするが、しかし、こちらが意気込んだ甲斐もないほど、意外にも蒙岳は気安く許しを出してくれる。
「店の他の女たちには知られないように、よろしくお願いしますよ!」
そう一本釘を刺されはしたが、法外な花代を要求されることもない。そのあまりの物分かりの良さがどうにも癇に障って、
「蒙旦那、やけに物分かりがいいね?」
皮肉たっぷりに、李義府がそう云ってやると、
「なあに、たまには女たちにも優しいところを見せてやりませんとね。これもまあ、美眉が云うところの功徳というやつですよ」
と、蒙岳はぬけぬけとそんなことを云う。しかし、そこに一部、どこか本音が含まれているような気がして、
(蒙岳は美眉の昔について、なにか知っているんじゃないか?)
そんな勘が働く。そう思うと、蒙岳に訊ねてみたくなる衝動が湧いてくるが、しかし、いくら問い詰めてみたところで、決して口を割ったりすることはないだろう。それがこういう商売で生きている者たちの筋というものだ。中途半端な無念さは残ったが、許しが得られたことに満足して、李義府は大人しく引き下がっておいた。
こうして百華苑とも無事に折り合いがついたことで、本日、七名による大慈恩寺参詣が実現したという次第である。
大慈恩寺は元来、長安城内にあった無漏寺という廃寺の故地に、皇太子が亡き母親、文徳皇后の追善のために創建したもので、その寺名は「慈母の恩」に由来するらしい。各地から選りすぐりの良材が集められ、その規模は子院(塔頭)十数院、建築物の総数千八百九十七、公度僧だけで三百名が住持する予定で、晋昌坊のほぼ半分を占める広さを誇っている。李義府らがその生涯で目にすることはなかったが、『唐』の御代も半ば以降になると、境内には大きな戯場が設けられて、俗講(※二)や見世物が盛んに行われ、また、牡丹の名所として、多くの漢詩に詠まれるようにもなっている。
「まあ、今日のところは寺のなかには入れないが、周りには見世物や露店が大勢繰り出しているそうだ。お楽しみは満載だぜ」
両筆が女たちの機嫌をうかがうように、巧みに気分を盛り上げている。
「そうよ、折角なんだから、うんと楽しまなくちゃ」
と、翔娘がそれに乗る。百華苑を出る前から浮かれ加減の翔娘は、久々に孟拓と店の外で会えるのがよほど嬉しいのか、ずっと一人ではしゃぎまわっている。さすがに美眉が窘めるものの、大人しいのはほんの一瞬で、すぐに孟拓の腕にまとわりつき、しなだれかかっているのだからいい気なものだ。
(しかし、随分といい娘に育ったものだな!?)
正直なところ、李義府は感心することしきりだ。
この年頃の娘の成長の速さには驚かされるものだが、この二年ほどの間で、翔娘の変容ぶりは半端ではない。あれほど子ども染みていた容貌はすっかり大人の女へと変わり、ふくよかさを増しながら身長も五寸ほど伸びて、均整の取れた見事な肢体を誇っている。そのくせ、内面的なものはそれほど変わらず、一途に孟拓を慕っているらしい様が妙に微笑ましく、そこだけは変わってくれるなと、李義府はまるで父親にでもなったかのような気分でいる。
四ヶ月前、ついに『晋書』が完成し、秘書省に納められて以降、有象無象の褒賞や下賜金が下され、そこからどのように都合をつけてくれたのかは知らないが、許敬宗がうまく段取りしてくれたお蔭で、翔娘の借財は百華苑との間できれいに片がついていた。そして孟拓についても、これも許敬宗が動いてくれて、来年の三月から洛陽宮を管理する下級役人の一人に採用されることが決まっている。贅沢はできないだろうが、なんとか二人で食べていくには十分な収入にはなるはずだ。
「このご恩は一生忘れません、私たちにとって、李舎人は仏様です!?」
そう云って、孟拓と翔娘から一緒に号泣されたときには、あまりに面映ゆくて、二人には早々にお引き取りを願ったが、その場に一人残った美眉にまで泣きだされたのには本当に参った。
「李大人、本当にありがとう‼」
その美眉の泣き顔がなんとも愛くるしくて、泣き止むまで抱きしめている間、ささやかな幸福を感じていた自分を思い出す。
(なんてことはない、一番変わったのは俺だ……)
関わった者次第で、人間はこんなにも簡単に変わるものなのかと、李義府は自分の変化に驚いてしまう。そんなことを考えながら、ぼんやり歩いていると、美眉の声が響いてきた。
「翔娘、往来でいい加減になさい‼通行の邪魔よ」
孟拓に対する翔娘の甘えぶりが度を過ぎていると、美眉が珍しく妙に苛立っている。いつもは翔娘に甘い美眉なのに、さらに声を荒げようとする様を見兼ねたのか、傍らから春蘭が宥めにまわってくれた。
「まあまあ、美眉。こんな機会は滅多にないんだから、いい加減、大目に見てあげなよ。ほら、本当にいい天気!?」
風は冷たいが、たしかにこの季節には珍しく、空は抜けるように青い。そう云って春蘭が空を見上げるものだから、つい美眉もつられてみてしまう。すると、そんな二人を眺めていた風柳が、急に噴き出した。
「馬鹿、何がおかしいのよ!?」
頬を朱に染めて春蘭が怒ったふうを見せる。だが、本気ではないだろう。美眉と春蘭、それに風柳の三人は、まさに気の置けない間柄が続いている。妓楼のような場所で生きる女たちにしては、非常に珍しい関係性だと、李義府は思っていた。そこには役人の世界には絶対にない、寄り添いながら生きている者同士の温かみがある。
そんな三人の様子を見ているうちに、李義府は春蘭に対して、
(もう大丈夫かな)
そう安堵の吐息を漏らしていた。
春蘭にとって、子顕の死が衝撃だったことは間違いなく、その傷が完全に塞がることは永遠にないだろう。だが、人は、誰しも痛みに慣れ、誤魔化しながらでも生きていけるものだ。
子顕の死の背景は、直接関与した妓女が誰だったのか、また、その背後に誰がいたのかも、いまだに判ってはいない。背後にいる者を炙り出すのは許敬宗に任せてしまったので、致し方ない部分はあるにしても、直接の下手人を突き止められなかったのは悔しいわと、いまでも時折、美眉は歯軋りするほど残念がっている。
胡桃の油が溶かされた紅を、まだ自分の手元に置いてある可能性に賭けて、同僚の妓女たちの使い残しの紅を一斉に集めてもらったのだが、結局、そのなかに該当する品は見つけられなかった。相手の方が一枚上手で、犯行に使った紅は店が大量に買い置きしている紅のなかに戻し、改めて自分の手元の分としてそこから小分けし直したのだろう。
「あの人を殺した人と一緒に仕事を続けるなんて、私、耐えられないわ!?」
そう云って、暫くの間、春蘭は恐怖と怒りで店にも出られない日が続き、憔悴しきっていたらしい。だが、美眉や風柳の励ましもあまり効果のないなか、店で一番の人気の妓女をそういつまでも遊ばせておくわけにはいかないと、手を変え品を変えて、蒙岳が春蘭の機嫌を取るのに努めてくれたことは、それなりに春蘭を癒してくれたようだ。
「蒙旦那は、さすがに大したものだわ」
美眉がそんなふうに感心していたことを思い出す。
(それと、母親から子顕の形見の品を届けさせてやったのも、いくらかは効果があったかな?)
李義府は内心、自画自賛する。
さすがに墓参りをさせてやることまではできなかったが、王栄を通じて子顕の母親に話を通し、子顕と春蘭の仲を諄々と説いてやることで、子顕の母親の気持ちを動かしたのである。勿論、そう事は簡単には運ばなかったが、子顕が生前、春蘭のことを母親に打ち明けていたらしいことも大きかった。息子の最期を看取ってくれた人のためならと、子顕が『晋書』執筆のために最後に使っていた筆と硯を、母親は春蘭に形見として贈ってくれたのだ。それを手にした瞬間、春蘭は人目も憚らずに号泣していたと、李義府は後に、美眉から聞かされていた。
それでようやく気持ちに一区切りついたのか、以降の春蘭は、すっかり元の春蘭に戻っていた。無論、以前とまったく同じ心持ちで生活することは難しいだろう。しかし、少なくとも気持ちのなかに自分で鍵をかけてしまうようなことだけは、これ以降、なくなっていた。その証拠に、近頃、長安近郊に住まいを構える裕福な商人からの身請け話が持ち上がっており、本人も乗り気になっているようだと、美眉がそっと教えてくれた。それも妾ではなく、継室にと望まれているらしい。
(なんとか幸せになってほしいものだ)
そう願わずにはいられない。しかし、そんな李義府の感慨を尻目に、眼前では、春蘭が朱くなったことで、さらに興をそそったのか、風柳が追い打ちをかけていた。
「いい大人二人で空なんか見上げて、何してるの!鳥にでもなったつもり」
(鳥か、……!?)
それも悪くないなと、李義府は思った。
この女たちはみな、百華苑という籠のなかに閉じ込められている美しい鳥だ。だが、機会さえあれば、自由に空を飛び回ることができるはずだ。
(美眉も翔べるのだろうか?)
その機会を与えてやれる者がいるとするなら、それは自分しかいないと、李義府は勝手に決めている。だが、そのためには、美眉自身も過去に縛られるのではなく、そこから決別する勇気が必要なのではないか。そんな気がする。
(もしも今日、玄奘の姿を眼にすることで、その一歩が踏み出せるのなら、……)
李義府はいま、そんな期待に胸を膨らませている。
「さあさあ、慈恩寺はもうすぐそこだ。こんなところで無駄話していても、あっちの方から歩いてきてくれはしないぜ」
両筆が促すと、春蘭と風柳は互いに顔を見合わせ、仕方ないわねと、矛をおさめて並んで歩きだした。そして、その後ろには美眉が続き、
「ご一緒にいかが」
と、李義府と両筆を誘う。どうやら少し気持ちが和んだのか、翔娘と孟拓を自由にさせてやろうという心配りのようだ。喜んで李義府と両筆は、それに従った。
一行が大慈恩寺の荘厳な外観を目にするのに、それから一刻も必要とはしなかった。だが同時に、人の流れはそこで滞っている。李義府の懸念したとおり、朝廷から主だった重臣が遣わされていることもあって、慈恩寺の周りでは南衙の兵士らが厳重に警備を固めていて、玄奘を見物しようとする群衆はかなり離れたところで一線を引かれ、何重もの人垣となって、遠巻きから首を伸ばすしかない状態となっている。しかし、
「ほら、あそこだ」
両筆は、大慈恩寺の正門と街路を挟み、向かい合っている店舗の入口を指さしていた。
「取りあえず、あそこの二階からなら、人波に邪魔されることなく、なんとか和尚の姿が見られるはずだ」
周りの騒音がひどく、かなり大声で話しているのに、よほど耳を澄まさないと両筆の声すら聞き取りづらい。なのに、その声を聞きつけたのか、御史台の下役らしい二人が、軽く頭を下げているのに李義府は気がついた。どうやら話はきちんと通じているようだ。
「だけど、一旦入ってしまうと、警備の都合もあるので、少なくとも南衙の警備が解除されるまで出ることはできない。一行が到着するのにまだ時間があるが、とりあえず、みんな、どうする?」
そう云って、両筆は一同の顔を見回した。
「あのう、……」
最初に口を開いたのは、翔娘だ。
「できれば私たち、この辺を自由に見て回りたいんですけど」
そして、そのまま左肘で孟拓の脇腹をつつく。
「そうさせていただければ……」
首筋まで赤くして、孟拓も頭を下げる。
「あらいいわねえ‼それじゃあ私もご一緒させていただこうかしら」
にこやかに春蘭がそんな意地の悪いことを云うと、
「若い人の邪魔をするんじゃないの。私たちは露店でも冷やかしにいきましょうよ」
と、風柳が春蘭を窘める。
「それじゃあ、両筆さん、お付き合いしてくれる?」
さらに風柳が両筆の方に向き直ると、間髪を置かず、
「もちろん喜んで‼」
と、両筆が返す。その間合いがなんとも絶妙で、
(両筆の奴、実は風柳といい仲なんじゃないか?)
李義府はなんだか嬉しくなった。両筆は鰥夫で、子どももいない。こんな関係も悪くないんじゃないかと、李義府は思う。どうにも今日は、色々と考えさせられる一日だ。
「じゃあ、美眉はどうする?」
「そうね、……」
少し小首を傾げながら考え込むが、
「私は、ここで待たしてもらおうかしら」
「だけど、一行がここに到着するのは、まだ四刻以上先だよ」
と、両筆。それに合わせて、
「美眉も一緒に行こうよ」
そう春蘭が誘うが、その袖を風柳がそっと引っぱった。そして、春蘭と両筆に目配せしながら首を横に振る。
「あっ、……そ、そうね、美眉は李大人と一緒にここで待っているといいわ」
「あら、ごめんなさい。私ったら勝手なことを、……」
恥ずかしそうに美眉が謝りかけた。自分がここに残るなら、責任上、李義府も残るしか選択肢はなくなる。その意向も確かめず、自分だけの勝手な思いを口にしてしまったことに気が付いたのだろう。しかし、そんな美眉を李義府は静かに眼で制し、
「いや、俺も人混みに酔ってしまって、なんだか疲れたよ。ここで一緒に休んでいられる方がありがたい」
そう冗談めかして笑う。それで一同の行動は決まり、
「じゃあ、六刻後にここで」
両筆が全員に確認したうえで、一行は一旦、解散することとなった。
「それじゃあ、ともかく店に入ろうか」
李義府がそう声をかけ、美眉を促すと、
「李大人、本当にごめんなさい。私、我儘ばかりで……」
美眉は唇を軽く噛み、苦しげな表情でそう云った。
「なに、構わないさ。云っただろう、俺も少し疲れているんだ」
李義府は笑顔を見せると、そのまま入口の番に立っている二人の下役に近づき、紙にくるんだ粒銀を握らせる。一瞬、驚いたような表情を見せた二人だったが、礼を云う代わりに、素知らぬ顔をしてよそを向くことで、それに代えてくれた。
(やはり、今日の美眉は変だ)
あとから美眉が付いてくることを背中に感じながら、李義府は思った。二人きりの時ならまだしも、周りに人がいれば人一倍気配りを忘れない女なのに、今日に限っては心ここにあらずといった感じが隠せない。よほど玄奘のことで頭が一杯なのだろう。
(玄奘和上の姿をみれば、なにか話してくれるだろうか?)
心の奥底で、早く決着をつけたいと願う気持ちと、そうするのが怖いと感じる感情とが綯い交ぜになっている。こんな気持ちのまま、美眉と二人、しばらくここで向かい合っていなければならないのかと、李義府は少々重荷に感じ始めていた。
【注】
※一 「太子中舎人」
皇太子を補佐する東宮府の役職の一つ。官品は「正五品下」
※二 「俗講」
一般大衆に向け、仏典などを講じた法話
(やはり清秀に頼んでよかった)
李義府はそっと胸を撫で下ろしている。
本当なら小狡い真似などしたくはなかったのだが、今日の行事の全般を指揮するのが御史大夫の李乾祐であることを知った時、実際の現場で差配にあたるのは、おそらく侍御史筆頭の劉清秀だろうと、李義府には直ぐに見当がついた。清秀はいまも御史台から離れることなく、役所内で一段とその重みを増し、上役である御史中氶でも一目置いていると、専らの評判だ。
彼であれば、これまで多少の腐れ縁がないわけでもない。両筆を通じて、玄奘の姿を遠目なりともなんとか拝む方法はないものかと、無理を承知で相談してみたのだが、清秀は、
「なぜ、李舎人が?」
そう首を捻って訝しみながらも、割と簡単にその頼みを聞き入れてくれた。警備や監視にあたる小者が待機・休憩する場所として御史台が確保していた、大慈恩寺正門の斜め向かいにある薬舗の二階を使うことを許してくれたのである。無論これは厳密に云えば規則違反で、露見すると罰せられても文句は云えないところなのだが、
「なに、令史が同行していれば、どうとでも説明はつくさ」
そう弁明の仕方まで両筆に教えてくれたらしい。
劉清秀がここまで李義府に気を配ってくれるのも、どうやら兄の劉陽に、太子中舎人(※一)への昇進の内示が出たからのようだ。望んでいた中書・門下両省への異動ではなかったが、皇太子が次代の皇位を継げば、間違いなく横滑りで両省のどちらかに配属されることが予想される枢要な官職だ。これもすべて『晋書』の編纂に関わり、功績を挙げさせてもらえたお蔭だと、清秀は李義府に大いに感謝していたと云う。
確かに、今回の『晋書』編纂に携わることとなった面々のなかで、実質的な褒賞や御下賜金などは別にして、官職面で昇任・昇格があった者といえば、中書令を拝命した褚遂良や秘書少監に抜擢された令狐徳棻ぐらいで、執筆者のなかには一人もいない。それなのに、補助役にすぎなかったはずの劉陽だけが例外的に昇進するというのは不思議で、
(どうやら、延族の爺さんが動いたな、……)
李義府はそう察しをつけていた。どうやら許敬宗には、劉陽(あるいは劉清秀?)に恩を売っておきたい思惑があるようだ。なので、本当なら自分が感謝される謂れなどなにもないのだが、この際だからと、ありがたく感謝の気持ちは頂戴しておくことにする。
「それに、盗賊団捕縛の一件で、王栄のために身銭を切ってくれただろう。あのことついても、礼を云っていたよ」
両筆からそうも聞かされている。
(まあ、それなら、二割ぐらいは感謝される権利はあるか)
ご都合主義だが、李義府はそれで気持ち的には手を打っておくことにした。
だが、やはり清秀に大きな借りができてしまったことは確かで、周囲の人間とは適度な距離を置くことを信条としている李義府としては、しっくりこない部分はどうしても残ってしまう。それなのに、なぜ、これほど無理をしたのかと云えば、
「なんとか遠くからでもいいので、一目なりと和尚のお姿が見られないでしょうか?」
普段、まったくものねだりなどすることのない美眉が、今回に限って、そう李義府に懇願してきたからである。
敬虔な仏教徒の単純な願いからとはとても思えない、そのあまりに真剣すぎる姿がなんとも奇異に感じられて、
(美眉と玄奘の間には、なにか特別な因縁があるんじゃないか?)
李義府はずっと心にかかっていたそんな思いが、確信に変わりつつあった。
そう考えれば納得のいくことが多いのだ。以前から不審に感じていた仏像の件や、閨を共にしている際、前に一度、美眉が夢に魘され、「和上‼」と叫んで飛び起きたことがあるのだが、どうしたんだと李義府が尋ねても、「なんでもないわ」とはぐらかし、具体的なことをなにも教えてくれなかったことなど、すべてがそこに結びついていく。
美眉と玄奘との間に何があったのか、そのことを考えると、嫉妬にも似た感情を抱き始めていることに、李義府は自分でも呆れている。冷静に考えれば、仮に、美眉と玄奘との間になにか特別な因縁があったとしても、長年天竺にあった玄奘の過去を考えると、二人の接点は美眉がまだほんの子どもだった頃以外には考えられず、ましてや相手はあの玄奘である。下世話な男と女の関係など絶対にあり得ないのに、そこが人間という生き物の不思議なところだ。理性では判っていても、それを感情で制御することができない。
(いつの間に俺は、こんな人間になってしまった?)
美眉の昔に拘ってしまう自分に、李義府は正直、戸惑っている。しかし、二人の間の約束で、過去に踏み込むことは禁忌だ。
(俺にすべてを話してくれる日が、本当にやってくるんだろうか?)
いまはただ、黙ってその時を待つしかない。それまでの間は、美眉の思いがすこしでも晴れるように、自分としては出来る限りのことをしてやりたい。ただそれだけの思いで、今回、李義府はあまり好ましくない手段に手を染める羽目に陥ってしまったわけだが、なんだか深刻になっている李義府を心配したのか、両筆から、意外な提案が持ち出された。
「この際だ、みんな揃って見物としゃれ込んでみるっていうのはどうだい?」
美眉が玄奘和上の姿を拝む場に、春蘭、風柳に翔娘、そして孟拓も一緒に連れて行ってやろうというのだ。
「そんな物見遊山みたいに、……」
当初、その思いつきに違和感を持った李義府だったが、
(いや、むしろ悪くないか⁉)
そうすぐに思い直した。
妓楼に籍を置く妓女を店の外に連れ出すというのは、基本的には許されない行為だ。そこを店と談判し、美眉一人だけ特別に寺への参詣を許してもらうとなると、百華苑としても美眉一人特別扱いすることになるのは嫌がるだろうし、美眉にしても、他の妓女仲間に後々負い目を感じることになるかもしれない。しかし、そこに春蘭も一緒ということになれば、昨年の一件の厄払いという口実もできるし、さらに風柳と翔娘まで加われば、外部の宴席に店の妓女を派遣してもらうのと同じことで、花代を積みさえすれば、百華苑の方でも話を受けやすくなるだろう。
「よし、早速、蒙岳とかけあってみよう‼」
奇妙なぐらい意気込んで、李義府はすぐに話を通そうとするが、しかし、こちらが意気込んだ甲斐もないほど、意外にも蒙岳は気安く許しを出してくれる。
「店の他の女たちには知られないように、よろしくお願いしますよ!」
そう一本釘を刺されはしたが、法外な花代を要求されることもない。そのあまりの物分かりの良さがどうにも癇に障って、
「蒙旦那、やけに物分かりがいいね?」
皮肉たっぷりに、李義府がそう云ってやると、
「なあに、たまには女たちにも優しいところを見せてやりませんとね。これもまあ、美眉が云うところの功徳というやつですよ」
と、蒙岳はぬけぬけとそんなことを云う。しかし、そこに一部、どこか本音が含まれているような気がして、
(蒙岳は美眉の昔について、なにか知っているんじゃないか?)
そんな勘が働く。そう思うと、蒙岳に訊ねてみたくなる衝動が湧いてくるが、しかし、いくら問い詰めてみたところで、決して口を割ったりすることはないだろう。それがこういう商売で生きている者たちの筋というものだ。中途半端な無念さは残ったが、許しが得られたことに満足して、李義府は大人しく引き下がっておいた。
こうして百華苑とも無事に折り合いがついたことで、本日、七名による大慈恩寺参詣が実現したという次第である。
大慈恩寺は元来、長安城内にあった無漏寺という廃寺の故地に、皇太子が亡き母親、文徳皇后の追善のために創建したもので、その寺名は「慈母の恩」に由来するらしい。各地から選りすぐりの良材が集められ、その規模は子院(塔頭)十数院、建築物の総数千八百九十七、公度僧だけで三百名が住持する予定で、晋昌坊のほぼ半分を占める広さを誇っている。李義府らがその生涯で目にすることはなかったが、『唐』の御代も半ば以降になると、境内には大きな戯場が設けられて、俗講(※二)や見世物が盛んに行われ、また、牡丹の名所として、多くの漢詩に詠まれるようにもなっている。
「まあ、今日のところは寺のなかには入れないが、周りには見世物や露店が大勢繰り出しているそうだ。お楽しみは満載だぜ」
両筆が女たちの機嫌をうかがうように、巧みに気分を盛り上げている。
「そうよ、折角なんだから、うんと楽しまなくちゃ」
と、翔娘がそれに乗る。百華苑を出る前から浮かれ加減の翔娘は、久々に孟拓と店の外で会えるのがよほど嬉しいのか、ずっと一人ではしゃぎまわっている。さすがに美眉が窘めるものの、大人しいのはほんの一瞬で、すぐに孟拓の腕にまとわりつき、しなだれかかっているのだからいい気なものだ。
(しかし、随分といい娘に育ったものだな!?)
正直なところ、李義府は感心することしきりだ。
この年頃の娘の成長の速さには驚かされるものだが、この二年ほどの間で、翔娘の変容ぶりは半端ではない。あれほど子ども染みていた容貌はすっかり大人の女へと変わり、ふくよかさを増しながら身長も五寸ほど伸びて、均整の取れた見事な肢体を誇っている。そのくせ、内面的なものはそれほど変わらず、一途に孟拓を慕っているらしい様が妙に微笑ましく、そこだけは変わってくれるなと、李義府はまるで父親にでもなったかのような気分でいる。
四ヶ月前、ついに『晋書』が完成し、秘書省に納められて以降、有象無象の褒賞や下賜金が下され、そこからどのように都合をつけてくれたのかは知らないが、許敬宗がうまく段取りしてくれたお蔭で、翔娘の借財は百華苑との間できれいに片がついていた。そして孟拓についても、これも許敬宗が動いてくれて、来年の三月から洛陽宮を管理する下級役人の一人に採用されることが決まっている。贅沢はできないだろうが、なんとか二人で食べていくには十分な収入にはなるはずだ。
「このご恩は一生忘れません、私たちにとって、李舎人は仏様です!?」
そう云って、孟拓と翔娘から一緒に号泣されたときには、あまりに面映ゆくて、二人には早々にお引き取りを願ったが、その場に一人残った美眉にまで泣きだされたのには本当に参った。
「李大人、本当にありがとう‼」
その美眉の泣き顔がなんとも愛くるしくて、泣き止むまで抱きしめている間、ささやかな幸福を感じていた自分を思い出す。
(なんてことはない、一番変わったのは俺だ……)
関わった者次第で、人間はこんなにも簡単に変わるものなのかと、李義府は自分の変化に驚いてしまう。そんなことを考えながら、ぼんやり歩いていると、美眉の声が響いてきた。
「翔娘、往来でいい加減になさい‼通行の邪魔よ」
孟拓に対する翔娘の甘えぶりが度を過ぎていると、美眉が珍しく妙に苛立っている。いつもは翔娘に甘い美眉なのに、さらに声を荒げようとする様を見兼ねたのか、傍らから春蘭が宥めにまわってくれた。
「まあまあ、美眉。こんな機会は滅多にないんだから、いい加減、大目に見てあげなよ。ほら、本当にいい天気!?」
風は冷たいが、たしかにこの季節には珍しく、空は抜けるように青い。そう云って春蘭が空を見上げるものだから、つい美眉もつられてみてしまう。すると、そんな二人を眺めていた風柳が、急に噴き出した。
「馬鹿、何がおかしいのよ!?」
頬を朱に染めて春蘭が怒ったふうを見せる。だが、本気ではないだろう。美眉と春蘭、それに風柳の三人は、まさに気の置けない間柄が続いている。妓楼のような場所で生きる女たちにしては、非常に珍しい関係性だと、李義府は思っていた。そこには役人の世界には絶対にない、寄り添いながら生きている者同士の温かみがある。
そんな三人の様子を見ているうちに、李義府は春蘭に対して、
(もう大丈夫かな)
そう安堵の吐息を漏らしていた。
春蘭にとって、子顕の死が衝撃だったことは間違いなく、その傷が完全に塞がることは永遠にないだろう。だが、人は、誰しも痛みに慣れ、誤魔化しながらでも生きていけるものだ。
子顕の死の背景は、直接関与した妓女が誰だったのか、また、その背後に誰がいたのかも、いまだに判ってはいない。背後にいる者を炙り出すのは許敬宗に任せてしまったので、致し方ない部分はあるにしても、直接の下手人を突き止められなかったのは悔しいわと、いまでも時折、美眉は歯軋りするほど残念がっている。
胡桃の油が溶かされた紅を、まだ自分の手元に置いてある可能性に賭けて、同僚の妓女たちの使い残しの紅を一斉に集めてもらったのだが、結局、そのなかに該当する品は見つけられなかった。相手の方が一枚上手で、犯行に使った紅は店が大量に買い置きしている紅のなかに戻し、改めて自分の手元の分としてそこから小分けし直したのだろう。
「あの人を殺した人と一緒に仕事を続けるなんて、私、耐えられないわ!?」
そう云って、暫くの間、春蘭は恐怖と怒りで店にも出られない日が続き、憔悴しきっていたらしい。だが、美眉や風柳の励ましもあまり効果のないなか、店で一番の人気の妓女をそういつまでも遊ばせておくわけにはいかないと、手を変え品を変えて、蒙岳が春蘭の機嫌を取るのに努めてくれたことは、それなりに春蘭を癒してくれたようだ。
「蒙旦那は、さすがに大したものだわ」
美眉がそんなふうに感心していたことを思い出す。
(それと、母親から子顕の形見の品を届けさせてやったのも、いくらかは効果があったかな?)
李義府は内心、自画自賛する。
さすがに墓参りをさせてやることまではできなかったが、王栄を通じて子顕の母親に話を通し、子顕と春蘭の仲を諄々と説いてやることで、子顕の母親の気持ちを動かしたのである。勿論、そう事は簡単には運ばなかったが、子顕が生前、春蘭のことを母親に打ち明けていたらしいことも大きかった。息子の最期を看取ってくれた人のためならと、子顕が『晋書』執筆のために最後に使っていた筆と硯を、母親は春蘭に形見として贈ってくれたのだ。それを手にした瞬間、春蘭は人目も憚らずに号泣していたと、李義府は後に、美眉から聞かされていた。
それでようやく気持ちに一区切りついたのか、以降の春蘭は、すっかり元の春蘭に戻っていた。無論、以前とまったく同じ心持ちで生活することは難しいだろう。しかし、少なくとも気持ちのなかに自分で鍵をかけてしまうようなことだけは、これ以降、なくなっていた。その証拠に、近頃、長安近郊に住まいを構える裕福な商人からの身請け話が持ち上がっており、本人も乗り気になっているようだと、美眉がそっと教えてくれた。それも妾ではなく、継室にと望まれているらしい。
(なんとか幸せになってほしいものだ)
そう願わずにはいられない。しかし、そんな李義府の感慨を尻目に、眼前では、春蘭が朱くなったことで、さらに興をそそったのか、風柳が追い打ちをかけていた。
「いい大人二人で空なんか見上げて、何してるの!鳥にでもなったつもり」
(鳥か、……!?)
それも悪くないなと、李義府は思った。
この女たちはみな、百華苑という籠のなかに閉じ込められている美しい鳥だ。だが、機会さえあれば、自由に空を飛び回ることができるはずだ。
(美眉も翔べるのだろうか?)
その機会を与えてやれる者がいるとするなら、それは自分しかいないと、李義府は勝手に決めている。だが、そのためには、美眉自身も過去に縛られるのではなく、そこから決別する勇気が必要なのではないか。そんな気がする。
(もしも今日、玄奘の姿を眼にすることで、その一歩が踏み出せるのなら、……)
李義府はいま、そんな期待に胸を膨らませている。
「さあさあ、慈恩寺はもうすぐそこだ。こんなところで無駄話していても、あっちの方から歩いてきてくれはしないぜ」
両筆が促すと、春蘭と風柳は互いに顔を見合わせ、仕方ないわねと、矛をおさめて並んで歩きだした。そして、その後ろには美眉が続き、
「ご一緒にいかが」
と、李義府と両筆を誘う。どうやら少し気持ちが和んだのか、翔娘と孟拓を自由にさせてやろうという心配りのようだ。喜んで李義府と両筆は、それに従った。
一行が大慈恩寺の荘厳な外観を目にするのに、それから一刻も必要とはしなかった。だが同時に、人の流れはそこで滞っている。李義府の懸念したとおり、朝廷から主だった重臣が遣わされていることもあって、慈恩寺の周りでは南衙の兵士らが厳重に警備を固めていて、玄奘を見物しようとする群衆はかなり離れたところで一線を引かれ、何重もの人垣となって、遠巻きから首を伸ばすしかない状態となっている。しかし、
「ほら、あそこだ」
両筆は、大慈恩寺の正門と街路を挟み、向かい合っている店舗の入口を指さしていた。
「取りあえず、あそこの二階からなら、人波に邪魔されることなく、なんとか和尚の姿が見られるはずだ」
周りの騒音がひどく、かなり大声で話しているのに、よほど耳を澄まさないと両筆の声すら聞き取りづらい。なのに、その声を聞きつけたのか、御史台の下役らしい二人が、軽く頭を下げているのに李義府は気がついた。どうやら話はきちんと通じているようだ。
「だけど、一旦入ってしまうと、警備の都合もあるので、少なくとも南衙の警備が解除されるまで出ることはできない。一行が到着するのにまだ時間があるが、とりあえず、みんな、どうする?」
そう云って、両筆は一同の顔を見回した。
「あのう、……」
最初に口を開いたのは、翔娘だ。
「できれば私たち、この辺を自由に見て回りたいんですけど」
そして、そのまま左肘で孟拓の脇腹をつつく。
「そうさせていただければ……」
首筋まで赤くして、孟拓も頭を下げる。
「あらいいわねえ‼それじゃあ私もご一緒させていただこうかしら」
にこやかに春蘭がそんな意地の悪いことを云うと、
「若い人の邪魔をするんじゃないの。私たちは露店でも冷やかしにいきましょうよ」
と、風柳が春蘭を窘める。
「それじゃあ、両筆さん、お付き合いしてくれる?」
さらに風柳が両筆の方に向き直ると、間髪を置かず、
「もちろん喜んで‼」
と、両筆が返す。その間合いがなんとも絶妙で、
(両筆の奴、実は風柳といい仲なんじゃないか?)
李義府はなんだか嬉しくなった。両筆は鰥夫で、子どももいない。こんな関係も悪くないんじゃないかと、李義府は思う。どうにも今日は、色々と考えさせられる一日だ。
「じゃあ、美眉はどうする?」
「そうね、……」
少し小首を傾げながら考え込むが、
「私は、ここで待たしてもらおうかしら」
「だけど、一行がここに到着するのは、まだ四刻以上先だよ」
と、両筆。それに合わせて、
「美眉も一緒に行こうよ」
そう春蘭が誘うが、その袖を風柳がそっと引っぱった。そして、春蘭と両筆に目配せしながら首を横に振る。
「あっ、……そ、そうね、美眉は李大人と一緒にここで待っているといいわ」
「あら、ごめんなさい。私ったら勝手なことを、……」
恥ずかしそうに美眉が謝りかけた。自分がここに残るなら、責任上、李義府も残るしか選択肢はなくなる。その意向も確かめず、自分だけの勝手な思いを口にしてしまったことに気が付いたのだろう。しかし、そんな美眉を李義府は静かに眼で制し、
「いや、俺も人混みに酔ってしまって、なんだか疲れたよ。ここで一緒に休んでいられる方がありがたい」
そう冗談めかして笑う。それで一同の行動は決まり、
「じゃあ、六刻後にここで」
両筆が全員に確認したうえで、一行は一旦、解散することとなった。
「それじゃあ、ともかく店に入ろうか」
李義府がそう声をかけ、美眉を促すと、
「李大人、本当にごめんなさい。私、我儘ばかりで……」
美眉は唇を軽く噛み、苦しげな表情でそう云った。
「なに、構わないさ。云っただろう、俺も少し疲れているんだ」
李義府は笑顔を見せると、そのまま入口の番に立っている二人の下役に近づき、紙にくるんだ粒銀を握らせる。一瞬、驚いたような表情を見せた二人だったが、礼を云う代わりに、素知らぬ顔をしてよそを向くことで、それに代えてくれた。
(やはり、今日の美眉は変だ)
あとから美眉が付いてくることを背中に感じながら、李義府は思った。二人きりの時ならまだしも、周りに人がいれば人一倍気配りを忘れない女なのに、今日に限っては心ここにあらずといった感じが隠せない。よほど玄奘のことで頭が一杯なのだろう。
(玄奘和上の姿をみれば、なにか話してくれるだろうか?)
心の奥底で、早く決着をつけたいと願う気持ちと、そうするのが怖いと感じる感情とが綯い交ぜになっている。こんな気持ちのまま、美眉と二人、しばらくここで向かい合っていなければならないのかと、李義府は少々重荷に感じ始めていた。
【注】
※一 「太子中舎人」
皇太子を補佐する東宮府の役職の一つ。官品は「正五品下」
※二 「俗講」
一般大衆に向け、仏典などを講じた法話
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