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ピアニストI
ピアニストI①
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夏の夕方、駅前。行き交う人が密度を増し、ムッとした熱気が辺りに停滞しているのが分かる。そんな空気を誰もが疎ましく思いつつも、まるで駅という一つの生き物の呼吸のように、人々は駅へ入っては出ていく。その一人一人が『誰』であるか、幾つもの意志があるかなど、ここでは何の意味も持たない。ただの『人混みを構成する一個』でしかない。あらゆる意志など、「駅へ入る」「駅から出る」の二種類に大別されるのみであり、それ以外には意志などまるで存在しないようである。
そんな人混みに向けて、魂を鎮める捧げ物のように一本のサクスフォンが悲しげに鳴り響く。
~~~♪
路上ミュージシャンというものだろうか。髭だらけ、バサバサの髪の毛。小汚い中年男が誰に頼まれるでもなく、髪を振り回しながら、汗を飛ばしながら吹き鳴らしている。
しかし人混みの中の誰一人とて、それが自分への捧げ物だと言う事に気付くことなく、『呼吸』は滞りなく行われる。出ては入り、入っては出る。この時間になれば毎日繰り返される、ごく普通の日常風景だ。
たった一つの異分子。今日この日には、流れの中にあって立ち止まる男がいた。小綺麗なスーツ姿、中肉中背、整った髪型。どれを取っても凡庸としか表現出来ず、何というほどの特徴もない男だ。その男の表情は、周囲と同じように、最初は死んだかのようなものであったが、サクスフォンの音によってみるみる生気を取り戻し、そして青ざめ、目を大きく見開いた。そして立ち止まり、後ろからぶつかった人混みのちょっとした文句など聞こえないように立ちつくし、やがて流れに逆らい、サクスフォンの元へ人混みの波を掻き分け進み出した。
男が人混みからようやくの思いで這い出ると、サクスフォンを吹いていたと思われる中年男が、先程の優しい曲を吹いていたとは思えない風に、楽器ケースを乱暴に閉め、そして帰途へ着こうかという所であった。
「まま、待ってください! そ、そこの方!」
男は慌てて大声を上げる。誰しもが一度振り返るが、男が呼び掛けたのが自分ではない事が分かるとまた何事もなかったかのように進み始める。
中年男は例外で、一顧だにせず、まるで男の声など無かったかのように歩みを進めていた。
男は焦る。生来あまり大声など上げる気質ではなかったが、しかしこの機会を逃しては二度と『彼』に近づける事はなくなるだろう。これはそう言う意味で、恐らく男の人生にとって最大にして最後の機会なのだ。形振りになど構っていられるはずもない。
「そ、そこの! サ、サクスフォンを吹いておられた方! ま、待ってください!」
必死で人波を掻き分ける。彼にとっては、恐らく人の群れと言うよりも岸辺への行く手を阻む猛烈な離岸流を掻き分ける心境であっただろう。周囲を包む湿度を帯びた熱気が、ますます彼にそう錯覚させた。
掻き分けても掻き分けても届かぬ。而してこの時を逃しては自分が生きる、生き返る機会は永遠に失われてしまう。何としてでも岸に辿り着かねば生きられぬ、そんな溺れかけた人間の心境であった。
サクスフォンの中年男は、男の六度目の呼び掛けに遂に振り返り、男はようやく岸辺へ辿り着く事が出来た。
そんな人混みに向けて、魂を鎮める捧げ物のように一本のサクスフォンが悲しげに鳴り響く。
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路上ミュージシャンというものだろうか。髭だらけ、バサバサの髪の毛。小汚い中年男が誰に頼まれるでもなく、髪を振り回しながら、汗を飛ばしながら吹き鳴らしている。
しかし人混みの中の誰一人とて、それが自分への捧げ物だと言う事に気付くことなく、『呼吸』は滞りなく行われる。出ては入り、入っては出る。この時間になれば毎日繰り返される、ごく普通の日常風景だ。
たった一つの異分子。今日この日には、流れの中にあって立ち止まる男がいた。小綺麗なスーツ姿、中肉中背、整った髪型。どれを取っても凡庸としか表現出来ず、何というほどの特徴もない男だ。その男の表情は、周囲と同じように、最初は死んだかのようなものであったが、サクスフォンの音によってみるみる生気を取り戻し、そして青ざめ、目を大きく見開いた。そして立ち止まり、後ろからぶつかった人混みのちょっとした文句など聞こえないように立ちつくし、やがて流れに逆らい、サクスフォンの元へ人混みの波を掻き分け進み出した。
男が人混みからようやくの思いで這い出ると、サクスフォンを吹いていたと思われる中年男が、先程の優しい曲を吹いていたとは思えない風に、楽器ケースを乱暴に閉め、そして帰途へ着こうかという所であった。
「まま、待ってください! そ、そこの方!」
男は慌てて大声を上げる。誰しもが一度振り返るが、男が呼び掛けたのが自分ではない事が分かるとまた何事もなかったかのように進み始める。
中年男は例外で、一顧だにせず、まるで男の声など無かったかのように歩みを進めていた。
男は焦る。生来あまり大声など上げる気質ではなかったが、しかしこの機会を逃しては二度と『彼』に近づける事はなくなるだろう。これはそう言う意味で、恐らく男の人生にとって最大にして最後の機会なのだ。形振りになど構っていられるはずもない。
「そ、そこの! サ、サクスフォンを吹いておられた方! ま、待ってください!」
必死で人波を掻き分ける。彼にとっては、恐らく人の群れと言うよりも岸辺への行く手を阻む猛烈な離岸流を掻き分ける心境であっただろう。周囲を包む湿度を帯びた熱気が、ますます彼にそう錯覚させた。
掻き分けても掻き分けても届かぬ。而してこの時を逃しては自分が生きる、生き返る機会は永遠に失われてしまう。何としてでも岸に辿り着かねば生きられぬ、そんな溺れかけた人間の心境であった。
サクスフォンの中年男は、男の六度目の呼び掛けに遂に振り返り、男はようやく岸辺へ辿り着く事が出来た。
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