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第一章 一人暮らしのご主人様と献身的なメイドさん

第3話 「母はノアのことがとても心配なのです」

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 MSC……? メイド…………?

 情報量が多く、脳の処理が追い付かないノア。
 レンタルメイドとはなんなのか。そもそも、なぜ自身がご主人様なのか。
 ノアの頭は常識を逸した目の前の状況にオーバーヒート寸前である。
 対するリースと名乗ったメイドは、ノアが目をグルグル回して混乱し、黙ってしまっていても笑顔を絶やさず玄関先で待ち続けている。
 結局、ノアがどれだけ頭を回転させようが正しい回答に導かれることはなく、いつまでも女性を玄関で立たせているわけにはいかないという常識に則って行動するしかなかった。

「とりあえず、中にどうぞ」
「ありがとうございます。それでは、失礼致します」

 折り目正しく、綺麗な挙動で礼をすると、ノアに促されるまま室内へと入っていく。
 彼女をリビングのテーブルへと案内する。ただ、なぜかリースは椅子に座ろうとはしない。姿勢正しく、テーブルの前で立ったままだ。

「? どうかしましたか?」
「ご主人様より先に座るわけにはまいりません。いえ、なによりもご主人様と同じテーブルに着くなど、メイドとして許されざる所業でございます」
「……立たれたままでは事情も訊きづらいので、座って頂けると嬉しいんですけど。後、コーヒーでいいですか?」
「ご主人様に飲み物をご準備させるなど……! 私がご準備致しますので、どうかご主人様は席に着いてお待ち下さい!」
「家主の僕がこれでもかと気を使うんだけどぉ……」

 ノアの抵抗空しく、コーヒーはリースが淹れることになった。
 普段使っているキッチンをメイドが使っている姿は、夢ではないのかと疑いたくなるほど現実味がない。
 一方、リースはというと、使い慣れた自身の城であるかのように、淀みなく準備を進めている。家主よりもキッチン周りを把握していそうな手際の良さに、ノアは目を丸くする。

 給仕のプロって、みんなこうなの?

 いつどこであろうと完璧な給仕をするという意気込みすら感じられ、コスプレなどではなく本物のメイドであることをノアは実感する。
 そうこうしている内に、リースが温かいコーヒーをノアの席へと運ぶ。

「お砂糖とミルクはいかがいたしましょうか?」
「……一つずつ」
「かしこまりました」

 苦いのが苦手なノアは、本当は三つずつ入れるのだが、子供っぽいと思われたくなく意地を張った。
 リースは常備されているスティックシュガーとミルクをコーヒーに入れ、ティースプーンで混ぜる。

「ありがとうございます」
「メイドの務めでございます」

 気にした様子など欠片も見せず、リースは笑顔を向けてくれるが、ノアは恐縮し続けている。

 うぅ。メイドの務めとか言われても、困るんだけどぉ。しかも、僕の分しか用意しないし。

 異常な程の気の使われ方に、ノアは逆に委縮してしまう。そもそも、ノアはお店で給仕を受けたことはあっても、自宅でメイドにお世話されたことはないのだ。

 ん? 昔、そんなこともあったような……?

 幼い頃の微かな記憶に引っ掛かりを覚えたが、席の前で立ったままのリースに気が付き直ぐに忘れ去る。

「あの、座って頂けませんか?」
「申し訳ございません、ご主人様。先程も申し上げた通り、ご主人様と同じ席に着くわけには参りません。ご主人様の意に沿えぬ不出来なメイドを、どうかお許し下さい」
「許したくないぃ」

 神が手掛けた美しい彫刻であるかのように、リースは微動だにしない。息をしているのかすら、不安を覚えるほどに。
 頑なな姿勢に、ノアは息を吐き出し諦める。

 ご主人様と言う割に、自分の意思は曲げないよね。

 主に追従するだけがメイドではないとでもいうように、リースは頑なだ。主人を正しい道に導くという意味ではよいのだろう。

 僕、ご主人様じゃないけど。

 そもそも、なにかの間違いだと考えているノアは、この息苦しい状況を早く打破したかった。誰かも知れないメイドに誠心誠意お世話される環境は、ノアの心を不安にさせる。詐欺すら疑う。
 ともかく話を訊こうと、ノアは事情を質問することにした。

「それで、リース? さん?」
「リースでお願い致します」

 お願いされてしまった。拒否権もなさそうだ。

 初対面の女性を名前で呼ぶのにノアは抵抗があったが、いくら抗おうとも先程と同じように鋼のごとき硬い意思を貫かれてお仕舞いであろうと諦観する。

 会って間もないのに調教されている気がする。

 この流れすら狙っていたというのであれば、世のメイドのなんと恐ろしいことか。流石にそれは杞憂だとノアは自身の考えを否定する。

「それでは。その、リースはレンタルメイドということですが、そもそもなんですかそれは? ある程度は言葉から察せられるのですけど」
「それではご説明させて頂きます」

 丁寧にお辞儀をし、リースが説明を始める。

「レンタルメイドとは、MSC……メイドサーヴァントカンパニーが提供するメイドの派遣サービスでございます。ご家庭の炊事・洗濯など家事全般から、お子様の家庭教師まで幅広く承っております」
「つまり、リースはそこから派遣されてきた、と?」
「その通りでございます」

 流石です、ご主人様とリースが拍手をして褒め称える。

 とてもバカにされたような気がしたんだけど。今の説明でその程度も理解できなかったら、読解力に著しい欠如が見られる。早めに初等部からやり直して頂きたい。

 MSCから派遣されたメイドがリースであるというのを前提とした場合、問題点が一点ある。
 当然、疑問に感じたノアをそこを指摘した。

「それなら、そもそもメイドの派遣サービスを利用していない僕の元にリースが来るのはおかしいので……は…………? …………!」

 ――指摘しようとしたのだ。ただし、指摘している途中で思いもしていなかった可能性に行き当たってしまっただけで。

 まさか。いや、そんな、ねえ? 僕じゃなく、僕の元にメイドさんを派遣する人がいる?

 ノアの表情の変化で察したのであろう。リースはニッコリと笑みを浮かべ頷く。

「お気付きになられましたか? 確かに、私はご主人様――つまり、ノア様にご依頼はされておりません。私が依頼を受けたのは、ご主人様のお母様、沢桔梗《さわぎきょう》・A・アグネス様でございます」

 母親の名前を出されたノアが頭を抱える。絶望するノアのポーズ。

 ありえる。凄くありえる。むしろ、この状況が正解を示しているんですけどぉ。

 ここまで説明されれば、動機もおおよそ理解する。ノアの推測が正しければ、半ばリースを帰すという願いは破綻しているが、最後の希望にノアは賭ける。ノアは夢見勝ちだった。

「……少し、電話をしてもいいですか?」
「はい。ごゆるりと」

 リースの言葉が煽りにしか聞こえないのは、僕の心が狭いからだろうか……。

 下手な邪推などさせない裏表のない笑顔で見守られる中、リースはポケットから取り出したスマートフォンで電話を掛ける。コールの相手は当然"お母様"。
 ワンコールの後、直ぐに応答がある。まるで、待ち構えたいたかのような速さだ。

『もしもし、ノアですか?』

 幼い頃から聞き慣れた、優しい声が耳から伝わってくる。間違いなく、ノアの母親であるアグネスであった。

 ここからが交渉。

 ノアは一つ息を飲む。

「お久しぶりです、お母様。ノアです」
『はい。お久しぶりです。元気な声を聞けて、母は嬉しく思います』

 言葉の通り、電話口から伝わってくる声には嬉しさが滲み出ている。

 これだったら行けるかな?

 母の機嫌の良さに、ノアは少しばかり警戒心を緩める。

「はい、僕も嬉しく思います。それで、本日のご用件なのですが――」
『理解しております。リースのことですね?』
「……はい」

 先回りされ、ノアの言葉が詰まる。この時点で、ノアの警戒心は最大値である。緩ませるなどとんでもない。
 的確に急所を狙い撃つスナイパーの如き正確さ。ノアの額からじわりと汗が浮き上がる。

『彼女から説明は受けましたね? なにか問題がありましたか?』
「いや、突然だったもので、驚いてしまって」
『それはこちらの連絡不備ですね、申し訳ありません。突然のことで、驚かせてしまいました。ただ、これもノアのためになると思っております』

 自身の非すら認めて謝罪する母に、ノアは声にならない呻き声を上げる。
 アグネスは子を想っている。それこそ、子煩悩と呼べるほどに。
 その行動は全てノアのことを考えており、他人からは甘やかし過ぎとすら言われるほどだ。
 故にリースの派遣についても、ノアを想ってのことだというのを、ノアも理解している。納得できるかは別であるが。

「お母様が私を心配して下さっているのは、とても嬉しく思います。ただ、そこまでする必要はあるのかなぁ、と疑問に思ってしまって、ね?」

 昔の一人称が出てしまうほどに、ノアは緊張し慌てていた。

 まずいまずい。この流れはまずい。逃げ道がなくなってるぅっ。

 元々逃げ道が存在していたかはともかく、ノアは一生懸命突破口を探す。けれど、その願いはタンポポの種のようにあっさりと吹き飛ばされてしまう。

『私も必要性についてはこれまで考えていました。ノアが一人暮らしを始めてからずっと。ただ、どうにもノアの私生活に問題があるのではないかと思ったのです』
「し、私生活に問題、ですか?」
『ええ』

 そして、まるで監視されているのではないかと戦慄するほどに、アグネスは正確にノアの私生活を言い当てる。

『朝・昼・晩とコンビニや外食で食事を済ませる毎日。部屋の掃除も毎日は行っていませんね? 栄養面だけでも心配ですし、生活環境も不安です。夜遅くまで起きていることもあるでしょう? いつ何時、身体を壊して倒れてしまった時、誰か面倒を見る人が居て欲しいと、母が願うのは不思議でしょうか?』
「……………………いえ、とても正しいことかと、私も思います」

 ぐうの音もでない、という言葉は正にこの状況を指すのであろう。
 口の中は乾ききって喉はカラカラだというのに、ノアの身体からはこれでもかと冷や汗がダラダラである。冷めてしまったコーヒーに手を付ける気にもならない。
 電話の向こうからは、とても嬉しそうなアグネスの声がノアに届く。満面の笑顔なのが、電話越しにすら伝わってくるほどだ。

『そうですか。それはとても良かったです。リースはとても優秀なので、彼女の言う事を良く聞き、規則正しい生活を送って下さいね?』
「はい、わかりました。ありがとうございます」

 互いにさよならの挨拶を済ませ、ノアから電話を切る。ノアから切らねば、いつまでも電話を続けるのがアグネスである。
 影の差した顔を俯かせ、画面の暗くなったスマートフォンを見つめ続ける。
 どれぐらい経っただろうか。突然、ノアが残っていたコーヒーを飲み干すと、一瞬咽る。

 うぅ、苦い……。

 目尻に涙を溜めて、ずっと待ってくれていたリースに伝える。

「これから、宜しくお願いします」
「はい。これから宜しくお願いいたします、ご主人様」

 引き攣った笑みを浮かべるノアとは対照的に、リースはそれは嬉しそうに笑顔を浮かべるのであった。
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