交際0日婚の溺愛事情

江多之折(エタノール)

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結婚1日目。

 
「いただきます」

口を開けて、イチゴジャムをたっぷり塗られたトーストにかぶりつく。
苺の酸味と砂糖の甘味が舌に広がり、花のように朗らかで優しい香りが鼻に届いてプツプツと種の弾ける食感がパンのふんわりとした食感にアクセントを加えている。
久しぶりに食べたイチゴジャムに、やっぱりなと徐々に味を失いながら噛み砕き

───僕はそれを、異物感と共に喉の奥へと受け入れた。

美味しいことはわかってる。理解している。
ただ、美味しいだけでは好き嫌いというのは克服出来ないんだ。

美味しくないから嫌い、好みの味じゃないから嫌い、食べた事がないから嫌い。
様々な理由がある嫌いの中で

僕はイチゴジャムが嫌いではない。ただ、受け付けない。
その理由は明確に分かっている事でもあった。






───これは、僕の幼少期…保育園に通っていた頃の記憶だ。


「いただきます!」

昼食の準備が出来た人から手を合わせて、挨拶をして食事を始める。そこは、全員揃って食事の挨拶を合唱するような保育園ではなかった。
その中で僕は、必ず誰かと挨拶のタイミングを合わせ、手を合わせてお辞儀をしていた。


僕は物心がついた頃から、外で思うように発言の出来ない子だった。
声を出そうとしたら喉が詰まって、何も話せなくなる。だから「いただきます」も言えなかった。

両親は僕を「大人しい子」だとよく言っていたから、大人しい子は声が出せないんだと思っていたけど、違ったのだろう。
誰かに便乗して「いただきます」をしない僕は、悪い子だったから…その行為を見つかって昼食が食べられない日もあった。

園長先生は躾に厳しい人で、一向に挨拶しない僕を良くは思っていなかったのだろう。言葉を発さない僕に付きっ切りで「いただきます」を強要し、喉が詰まった僕はたださめざめと泣くしか出来なかった。

他の園児は昼食を済ませ、昼寝の時間に入り、起きておやつを食べ、午後の活動を始めていた。
しっとりとした雨の日、鼻に届く粘土の匂い。異質な僕は他の園児から気を止められる事もなく、普段通りの日常を過ごす。

教室の外で僕は一人、時々来る園長先生に睨まれながら昼食の席に座り続けていた。

給食の職員の都合だろう、気付けば昼食は無かったが、僕は時々泣きながら「いただきます」の言葉を出そうとしては喉が詰まり、ついに見兼ねた別の先生が僕にこっそりとおやつのジャムサンドイッチを食べさせた。

───しかし、園長先生の怒りは持続していて、僕の監視をやめていなかったのだ。

急いで駆け付けた園長先生は僕の幼い口に大人の大きな指を差し込み、僕は初めて強制的に嘔吐させられるという経験をした。
この日から、僕の世界で一番怖いものが嘔吐と園長先生になった。
どうにかして発音出来たらよかったけど、僕はどうしても喉が詰まって…卒園するまで話をする事は出来なかった。

その後も僕の思うように発言出来ないという状態は、中学まで続いていた。
全ての発言が出来ない訳ではない。育っていくうちに教科書を読めと言われれば音読出来たし、音楽の授業で歌う事も出来た。ただ、日常で対話だけはほとんど出来なかった。

話せたらいいのにいつも喉が詰まって、無理やり声を出そうとしたらヒクリと喉が痙攣して、涙が出るということはわかっていたから
喉が詰まったら僕は頑なに喋らなかった。





「美味しくないか?」
「…え、あ、ごめんなさい。考え事をしていました」

ぼんやりと考え事をするのは僕の悪い癖だ。
ハッとして目の前に座るはゆるさんを見ると、既に朝食を終えて珈琲を飲んでいた。
慌ててトーストをかじる。きっと、美味しい。イチゴジャムは美味しい。

そうは思ったが、やはり途中から息を止めて咀嚼し、異物感と共に嚥下を繰り返した。
やっぱり苦手だ。もうずっとずっと昔の事なのに、僕は未だに囚われている。そんな事ばかりだ。

光希みつき

名前を呼ばれて再び顔を上げる。眼鏡を挟んで向こう側に居るはゆるさんは少し不服そうな顔をしている気がして胸がドキリと絞められた。

「小学生じゃあるまいし、好き嫌いは駄目とか言わないぞ。俺も好き嫌いあるし」
「……ごめんなさい。食べられます」

嫌な気持ちにさせてしまった。急いで食べるも異物感が強い、本当に喉が詰まりそうになる。
どうにか食べ終わり、少し冷めた珈琲を一気に喉に流し込んだ。昨日とは違って何も入っていない珈琲はとにかく苦くて、イチゴジャムの甘味を全て洗い流すようでどこかホッとした。

「………光希みつき、好きな食べ物は?」
「え、えっと…なんでも」
「必ず指定して。何が好き?」
「えぇと…お刺身とか、好きです」

焦ってどうにか答えると、「了解」とはゆるさんはスマホを操作しているので僕は「ごちそうさま」と手を合わせて空になった二人分のマグカップと皿をシンクに運んだ。
挨拶のできない悪い子だった自分は、小学校で捨ててきた。

(…久しぶりにジャム食べたから思い出しちゃったな)

イチゴジャムはあまり得意じゃないが、子供の頃の話だ。別に園長先生を恨むとか、そんな事は何も思ってはいない。既に顔も声も思い出せない人だ。

人は最初に声を忘れ、顔を忘れ、記憶からその人を薄れさせる。完全な消滅というのは少ないかもしれないが、それに近しい状態になった記憶の中に眠る人は多い。
僕はそもそも顔を覚えるのが苦手なので、もしかしたら平均より忘れる速度が早いかもしれないけれど。

蛇口から流れ落ちるシャワーの音が、僕の耳を支配する。
皿を傾け、泡を洗い流して皿置きに並べる。はゆるさんの家に元々ある食器は統一感がなくて、何かの景品だったり旅先の勢いで買ったものだったり色々あるらしいが、全て一人用でペアの食器などは無かった。

この人の過去など何も知らないくせに、誰かと生活を共にした形跡がなくて内心ホッとしてしまう。交際もしていない浅い仲のくせに一人前に嫉妬するのは、結婚相手として意識しているから。

「ありがとう。後やるから光希みつきは着替えておいで」
「大丈夫ですよ、最後まで片付けてから…」

泡だらけのスポンジを握る手を包み込まれ、ぬるりと指の間を撫でられた。
僕より大きな手がぬるぬると撫で回す。くすぐったさにスポンジを握り締めてしまい、「逆効果だった」と頭の上で低く笑うはゆるさんに「頭突きしますよ」と少し背伸びをして威嚇した。

「可愛い光希みつきはそんなこと出来なさそう。ほら、早く離れないと色んなとこ撫で回すぞ」
「っ…もう!はゆるさんってスケベだ!」

これではいつまでも終わらないと諦めてスポンジを手渡して手についた洗剤を洗い流した。

「今日はランチに俺の友人と会う事になった。それまでに色々済ませたいから外出の準備してて」
「着替えるだけだから、そんなに時間かかりませんよ」
「寝癖。」

慌てて洗面所に向かう僕に、はゆるさんは肩を震わせながらシンクに残って皿を洗っていた。









「婚姻届のここ、証人って項目あるだろ。誰かにこれ書いてもらわないと出せないんだ」
「初めて見た…」

支度して、二日連続で来た役所で貰った婚姻届を眺めているとじわじわと実感してくる。
この魔法の紙が、僕とはゆるさんの関係を確かなものにするんだと、嬉しさと恐れが綯い交ぜになって、本当に良いのかと斜め上にある顔へと振り向けば「キスするぞ」と脅されてしまった。

「…先に僕の思考を読むの、やめてください」
「鬼ごっこ、忘れるなよ。捕まった光希みつきはもう逃げられないから」

サラサラと自分の欄を書くはゆるさんの手元を見て、僕も揺らがないようにしなければとペンを握った。
はゆるさんが書き終えるまで待って、自分も間違えないように気をつけながら記入していく。名前、生年月日、住所…

「そんなに力入れて書かなくても大丈夫だ。あとは…」

家出している僕がこんなに色々やって大丈夫なのかと思ったが、僕の心配の糸をひとつひとつ解すようにはゆるさん主導で事は順調に進んで行く。
書類を書き終わった時には筆圧が強すぎて手首が痛くなったけど、よく頑張ったなと頭を撫でられて痛みなんてどうでも良くなった。


「───まだランチまで時間があるな。スリッパを買いに行こう」

書類の入ったバッグを片手に、もう片方の手は僕に差し出して向かう店を思い浮かべているのか上を向いているはゆるさんの手を握り締めて顔を眺めた。
昨日も感じてはいたが、婚姻届を書いている時に実感した温かな液体が胸に広がり、染み込んだような感覚に漠然と「これが幸せって感情なんだ」と確信を持っていた。

口元は勝手に緩みだし、手は既に握っているのにもっと触れたくて仕方なくなる。
出会ったばかりの人にこんな感情を持ってしまってもいいのかと思いきや、はゆるさんも案外浮かれていて…

「キス、ほしい」
「………外では駄目だ。また後で」

つい、心の声がそのまま口から流れ出て恥ずかしくなる。急激に熱くなった顔に触れていると、はゆるさんも僅かに頬を赤らめていた。

「ふふ、僕達ってバカップルみたい」
「カップルじゃなくて、新婚な」

僕よりも結婚に執着しているはゆるさんに、どうしてだろうって何度目かの疑問をぶつけたくなる。確かに色々と便利ではあるのだろうけど…



───その疑問は、思ったよりも早く解消する事になる。







買ったばかりのスリッパが入った袋を手に、予約していたらしい和食処の個室へと二人通された。
少し古くなった畳は独特の香りが残っていなくて、黄色い色合いが捨ててきた家を少しだけ思い出す。だけどそんな事を気にしてもキリがないから、僕は気にしないようにメニューを眺めていた。
…いつまでも逃げ出した場所を意識をしているのが悔しいってのもあるけれど。


(それにしても、高い……)


外食の経験は数える程しかない。放浪中にファミレスに入ったりして美味しさに感動したけど、目の前のメニュー表にはその時の倍の値段が書いてある。
少しでも安いものはないのかと目が泳いでいる僕に、「食べられない物がなければ俺と同じのでいいか?」とはゆるさんが見透かしたように頭を撫でてきた。

「なんでも食べられます、大丈夫です…」
「…そうか、なら決まり。もう少ししたら相手も到着するって」

婚姻届の証人になってくれる友人さん…どんな人だろうとそわそわしていたら個室の扉の向こうが少し賑やかになって、扉が開いた。

「おう、久しぶりー」
「急に悪かったな。久しぶり」
「結婚おめでとー!…おぉ、男だったんだ。」

はゆるさんの友人さんは二人来て、眼鏡でくっきりと見える視界から思った印象は普通の人だというだけだった。僕はやっぱり、人の外観に注視できないのかもしれない。せめて失礼のないようにしなければと背中に力を入れた。
お互いに名乗りあって、それぞれ注文して料理が届く前に本題…というところで友人の二人は特に深く考えない様子でサラサラと婚姻届の証人欄を埋めていた。

はゆるが結婚なぁ…俺、しないと思ってた」
「俺も。ってか実家には電話した?お前んとこのお母さんに最近会ったけど全然連絡してこないって言ってたよ」
「あー……そうだな、報告しないと…」
「マジかお前」

はゆるさんは、良くも悪くも態度が変わらない人なのかなと時々質問を投げ掛けられる以外では口を開かない僕は仲良さそうに会話をする三人を見守っていた。
僕は親に電話とかしないけど、はゆるさんは確かに必要だ。むしろ挨拶に行った方がいいんだよねと考えていると、はゆるさんのスマホが着信音を鳴らして会話は途切れた。

「このタイミングでお袋から電話とか…」
「ちゃんと出ろよ。俺も一旦煙草吸いたいから外行こうぜ」
「そーだそーだ。光希みつきちゃんは俺に任せて、行ってきなー」

焦って着信音を消すはゆるさんに、煙草に行くと一緒に個室を出る友人さんの一人。
ぽかんとしている間に僕はもう一人の友人さんと個室で二人きりになった。

にこにこと笑顔で対面に座っている友人さんに、正直僕は少し緊張している。人見知りだからって理由もあるけれど

「────で、どうやって知り合ったの?」
「…えっと」

はゆるさんとは仲良さそうに話していたけど、なんと言えばいいか、僕は目線に敏感すぎるところがある。
目の前の人からは、ほんの少しの悪意が見えていたから僕はこの場に居心地の悪さを感じていた。
友人さんは笑顔を崩さないけど、目を見開いて僕を真っ直ぐに見ている。

はゆると同じ職場とかじゃないよな?見た感じかなり若いじゃん。真面目なはゆるから手を出すとは思えないけど」
「……」

──家出してました、って言ってもいい情報なのだろうか。
今までなら、聞かれたらなんでも答えてた。過去に思い入れもないし……いいや、それは嘘だ。
過去は重く重く、僕をずっと苦しめてきた。そんな過去を、少しくらい哀れんで欲しかったから誰にでも話していた。
それで痛い目を見たこともあるけれど…

でも今は、そんな僕の存在がはゆるさんのマイナス面として作用してしまう。
訳ありな男を拾った善人と受け取られるか、同情で結婚した哀れな男と見られるか、それは目の前に座って僕を品定めしている人が判断する事で、僕がどう言ってもその人の受け取り方で印象は決まる。

「…偶然、出会って」
「偶然ってどこ?出身もここじゃないよな。発音に訛りがない」
「……」
「もしかして言えないような関係?…やましい事があるみたいな反応するんだな」

…どうしよう。
目の前の人は、僕が結婚する為の証人になってくれている。はゆるさんの友人で、大切にしなければならない人だ。そんな大切な人に、僕はどこまで言っていいのだろう。


どうしよう。


どうしよう。


黙ってばかりじゃいけないのに、ついに僕の喉は詰まってしまった。口を開くと拒否をするように、僕の身体が呼吸まで拒否する。

僕は子供じゃない。もう子供じゃないから、喋らなければ、しっかりしなければ。はゆるさんが結婚を後悔してしまう。

「ぼ、くは…」

情けない。
無理やり喉を開いて押し出した声は震えてしまった。目に涙が溜まり、溢れるなと必死に目を見開く。

「…お前みたいなやつが、意外と自分を売ってる率高いんだよな。目も合わせてこないし、喋りもしない。大人しく振舞って守ってくれそうな人間に付け入る奴。──友達を騙すような事はしないで欲しいんだけど?」
「ッ……」

騙すつもりは、ない。でも声が出せない。苦しい。


(話さないと………でも、なにを?)


逃げたい。でももう、逃げちゃいけない。泣いてはいけない。僕は大人で、逃げずに生きるって、はゆるさんと結婚して…


(こんな、事情も話せないような後ろめたい人間のくせに、結婚って…)


考えてみれば、なんて烏滸がましいのだろう。
眼鏡を掛けているのに、僕の視界はぼやけてしまった。全てが元に戻るように。生きていいか、死んでいいかもわからない世界に戻ったように。
情けない。何度目か分からないけれどそう思った時、視界の端で個室の引き戸が静かに開いて、壁に掛けてあった僕のコートが頭に被せられた。

「──今日はこれで帰る。婚姻届も破棄して書き直すから、証人の話は無かったことにしてくれ。すまん。」
はゆる…!今の話はお前を心配して!」

真っ暗な視界で、友人さんの焦った声と、はゆるさんの今まで聞いた事がない低い声に心臓がドキドキと騒ぎだす。頭の奥から冷えて全身が氷になるようだ。

(コートが、眼鏡に当たってしまう…)

レンズに傷を付けたらいけないと思って、コートと眼鏡の間に手を差し込もうとしたら温かくて大きな手が先に僕の手を握ってきて引っ張られた。
───びっくりしたけど、はゆるさんの手だとわかってるから大丈夫。この手は怖くない。

光希みつきごめん。今日は別の所で飯にしよう」
「待てってはゆる、こいつも心配してくれたみたいだし…」
「心配するなら俺も居る所で言うべきだろ。光希みつきだけになった瞬間を狙った時点で、心配じゃなくて言いやすいから言ったんだ。」
「…盲目になったはゆるに直接は言えないだろ」
「俺に配慮して光希みつきに配慮しないって?」
「……それは」

ヒクリと喉が痙攣した。今、優しくしないで。僕が弱くなってしまう。
それに帰ろうと手を引っ張られても、恥ずかしい事に僕は足が痺れていてうまく立てなかった。


───情けない。情けない情けない情けない。
はゆるさんの言う事も聞けない。友人さんと嫌な雰囲気にしてしまった。僕のせいで。
声を出さなきゃ。ちゃんとしなきゃ。


「っ…ごめ、ごめんな、さい。結婚、やめますから…」


喉が震えても、必死に絞り出した。
盲目になってるって言葉は、僕を貫いて心にぽっかりと穴を開けた。はゆるさんは誠実な人だ。正しい事を好む人だ。だから僕を助ける為に盲目になっているとしたら、それは正しくて。
今まで知り合った、僕を「助ける」と言った人達とは助け方が違っただけで、違ったから、勘違いしてしまったんだ。
僕は救われるんだと、救いがあるんだと、はゆるさんにどれほど迷惑かけるかとか深く考えていなかった。自分の事ばかり考えていた。


「いなく…なるから、迷惑、かけないから…喧嘩やめてください。お願いします」


お願いです。もう、一人にして下さい。僕が甘く見てたんです。結婚って繋がりを、軽く見てたんです。
何も軽くなんてないって、書類を見るまで知らなかったんです。

ヒクヒクと痙攣する喉を抑える為に、息を止める。

今ならまだ、引き返せるから。全部無かったことになっても、この数日間だけで僕の一生は満たされていると言えるから。それだけ沢山、貰ったから。
はゆるさんを傷付けるような事だけはしたくない。大切な人を失うような事は、して欲しくない。

謝りたい。だから喉の痙攣も、止まって欲しい。僕はちゃんと話したい。一人で大丈夫だと、はゆるさんに教えたい。
……それでも握られた手は、引っ張っても離してもらえなかった。

「駄目だ。結婚はする。俺が光希みつきを離したくないから縛るんだ。俺が捕まえたんだから…お願いだ。逃げるなよ」

コートに隠れているのをいい事に、ぼろぼろと涙を零してしまう僕を、はゆるさんはみっともないなんて言わないって、もう知っているんだ。この人の誠実さに甘えて依存しようとしているのは僕だから。
人目をはばからず、コートの上から抱き締めるはゆるさんを…僕は拒めない。望んでいるから、この人を求めているから。

「……本当にごめん。いきなり決めつけて嫌な事ばかり言って大人げなかった。とりあえず、お店の人困ってるからさ、食べてから…」
光希みつきくんもお腹空いてるでしょ、食べさせてあげよ」
「……」
「……あの、はゆるさん」

どうにか、声を絞り出して。
小さな声で、はゆるさんにだけ聞こえるように「ごめんなさい、足が痺れて…立てません」って伝えたら、はぁと深めの息を吐いた気配がした。









「───盲目で何が悪い。それだけ光希みつきに魅力があるって事だろ。」
「わかった!俺が悪かったって…!」
「改めて…証人については感謝する。だが今はお前らとは縁を切りたいくらいに腹が立ってる。」
はゆる落ち着いて…そんなにピリピリしてたら光希みつきくんも怖がってしまうでしょ」

怖がる以上に、恥ずかしいんだけどな…とは言えなかった。僕の口には食べ物が絶え間なく供給されるから。

行儀は悪いけど、僕は頭からコートを掛けられたまま食事をしている。
座っている場所もはゆるさんの太腿の上で、僕の泣いた顔を誰にも見せたくないと言い張るはゆるさんに真横を向いた状態で肩を抱かれて、ご飯を食べさせてもらっているのだ。
赤ちゃんじゃあるまいし、いくら個室とはいえ対面に友人さん達も居るんだけど…

「そうか、銀杏は苦手か。覚えとこう」
「僕の反応を見ないでください…」

泣いた後の顔に、食べている最中の顔なんて…友人さんどころかはゆるさんにも見られたくない。
だけどずっと凝視されていて、はゆるさんの顔も真剣なのやら怒っているのやら判断つかない表情をしているから拒否もできそうにない状態で…正直、食べにくいなんてもんじゃない。

僕の反応を見て、好きな食べ物と嫌いな食べ物を探られているらしい。
僕に食べさせるよりも料理が冷める前に自分の分を食べて欲しいから何度も降ろすようにとお願いしているけれど、逃げると思って警戒しているのかはゆるさんの左腕は僕から一瞬も離れようとしない。

「あの、はゆるさんもご飯食べてください。僕もうお腹いっぱいだから…」
「まだ半分も食べてない。もう少し頑張って食べてもらわないと…」
「でも恥ずかしくて…」
はゆるー、俺らが悪かったから!本当に反省してるから!光希みつきくんに自分で食べさせてやりなって!」
「おい、いいから早く食べて俺らは帰るぞ。友人のこんな姿見せつけられんの気まず過ぎる」

結局、友人さん達が大急ぎで食べて帰るまで僕ははゆるさんから離してもらえなかった。
結婚をやめると言ったことで物凄く警戒させてしまったのだろうか…二人きりになってようやく食事を始めたはゆるさんが僕を気にしてばかりいる。
それがどうにも気まずくて、僕のせいで嫌な空気にさせてしまった事への後悔が強くて、隣に座って自分で箸を握ったけど、すぐに置いてはゆるさんへと向き直った。

「──はゆるさん、ごめんなさい。勝手に結婚やめるって言って」
「…」

黙々と食事をしている姿が遠い。今朝はジャムトーストに気を取られてしまってはゆるさんの食べている姿を見ていなかった事に気がついた。
そうか、僕の夫となる人は食べ方が綺麗なんだ。
はゆるさんは僕には振り向かず、口の中に食べ物が無くなるタイミングでようやく声を出した。

「…結婚はやめない。」
「うん」
「誰に何を言われても、付き合いが浅いとか言われても…俺は光希みつきと生きると決めた。だから絶対にやめない。」
「…同情してないのに、どうして?」

僕は生きるか死ぬかの選択肢だから、死ぬくらいならはゆるさんと生きてみたいと思った。動機を考えるならこれが全て…なんだろうか。
でももしかしたら、あのまま放浪したくらいじゃ死ななくて、誰かに保護されたり捕まったり、なんだかんだ生きていたかもしれない。だって僕は自分から死ぬ気はないのだから。

勿論、誠実なお兄さんの温かさをもっと欲しいと欲を出した事も、動機ではあるけれど。でもはゆるさんが僕を求めなければ、僕から求めることは無かった。だからこそ、わからない。はゆるさんの心の中が。

「ん。食べ終わった。続きやる」
「──え?」

また僕が考え事をしている間にはゆるさんは食事を終えて、僕を太腿の上に座らせた。今はもう二人きりだから顔を隠す必要もないし、食事を残すのは申し訳ないけれどお腹いっぱいだし…

「ほら、あーん」
「あ、え?」
「噛んで」

言われるままに口に入れたご飯を噛む。それをじっと見るはゆるさんは、頃合いを見て次のおかずを箸で摘んだ。
親が子に食事を与えるのとは違うし、介護でもない。もっと甘くて、愛おしげに僕の食べる様子を見ているはゆるさんにますます分からなくなる。

光希みつきは可愛いな」

ぽつりと、思わず漏れてしまったとでも言いそうな、心からそう思っていると言っているような一言だった。
ただ与えられた物を食べているだけなのにこんなに恥ずかしい。

「こんなに可愛い伴侶を、逃がしてたまるか。」
「………逃げないし、可愛く…ないよ。」

ついさっき、結婚やめるとか言っちゃったから信頼なくしてしまったかもしれないけれど。僕は本当にはゆるさんの元から逃げたいなんて思ってない。

もぐもぐと咀嚼している僕の頬を抱き締めてる親指が撫でて、言葉以外でも褒めてくる。この人はどこまでも僕を溺愛しているんだと伝えてくる。
…顔が熱い。僕の顔なんて目がギョロギョロしているし、なにも可愛いところなんて無くて、顔を見られるのも苦手だ。
それなのにはゆるさんは断言するように褒めるから、自分のこれまでの人生を真っ向から否定されているような気持ちになる。否定されるって、良くない事かもしれないけれど、僕にはとても嬉しい事で。

こくりと飲み込んで、次の食べ物が口に運ばれる前に僕は両手で顔を覆った。

光希みつき、もう少しだけ食べよう」
「…お腹いっぱいになりすぎるの、怖くて」

貴方と一緒にいると、僕はどこまでも弱くなってしまう。

「吐き気が、怖いんです。小さい頃に嘔吐して、怒られたのがずっと残ってて、…色んなところがややこしい人間で、ごめんなさい」

次から次へと問題ばかり出てきてごめんなさい。まともな人間じゃないのに、はゆるさんに執着される理由がわからない。
同情しないなら、何に惹かれたの?って聞きたいけど怖くて聞けないんだ。

「イチゴジャムも、そういう感じか?」
「……はい。やっぱりバレてました?」
「教えてほしいけど踏み込むのを躊躇ってた。」
「教えたくないわけじゃないんです、ただ、僕にはこういった細かいことがあまりにも多くて…」

困らせたかなって思いつつ両手を下ろすと、はゆるさんが持っていた箸はお皿の上に置かれていた。
何も持たない手は僕が掛けている眼鏡を外して、それもテーブルに置かれてしまう。

心臓が忙しなく加速する。眼鏡を外された後にどうなるか、僕はもう学習してしまった。

「あの…ごはんたべてて、歯磨きしてなくて」
「今の今まで俺が食べさせていたから知ってる。俺も歯磨きしてからじゃないとキスは嫌か?」
「ちが、はゆるさんが汚いとか、そんなこと思ってなくて!」


───僕は、自分が汚くて。汚いと思ってて


「…生きるのが不器用でも、俺と居てくれる事が嬉しいんだ。少しずつ癒せるよう努力もする。
光希みつきは出会った時からずっと可愛くて、綺麗だよ」
「でも───」

迷ってばかりの僕に問答無用で重ねられた唇の柔らかさが、ややこしく生きている僕を真っ直ぐに肯定してくる。
泣きたいほどに誠実な人は、優しいキスで僕を満たす。

(こんな、こんなに優しい人…手放せるわけない)

僕は自分が汚いって思ってるくせに、はゆるさんの事がもっともっと知りたくて、離れそうになったところに縋り付いてまた重ねた。

ねぇはゆるさん、僕は自分がわからないです。貴方から与えられる全てが心地良くて、もっと欲しくなってしまう。
追い詰められたら簡単に二人の未来を否定したくせに、ただ重ねられる唇さえ、もどかしく思ってしまった。










「───お会計はお連れ様が既に支払って行かれました。」

レジを前に、顔を見合せた僕とはゆるさんにクスクスと笑いながら女性の店員さんは言葉を続ける。

「新しい門出に水を差すなんて、そんな無粋なことをしてはいけませんよって叱っておきましたからね。…ご結婚、おめでとうございます。また食事にいらして下さいね」

お店の名刺を僕に向かって差し出して来たから、両手で受け取って「ごちそうさまでした」と頭を下げた。
僕はもう、挨拶が出来る。声を出せない小さな子供は、人より遅くてもちゃんと成長しているんだ。
通りすがる店員さん達にも祝われながら、僕達は外に出た。

「あの店員、料理を運んでて俺らがピリピリしてたから個室前で困ってた人だ…また改めて食べに行かないとな」
「…とても美味しかったです。僕がお刺身好きって言ったからこのお店にしたんですか?」
「ん。その名刺、とっておいて」

勿論、僕もまたあの店員さんにお礼を言いたいし、名刺もとっておきたいけど、ポケットに入れたら曲がっちゃうかな…って手に持ったまま考えていたら「とりあえずこれに入れて」と真っ黒でシンプルなデザインの革財布を手渡された。

流れのままにはゆるさんの財布を受け取った僕は、今日一番ってくらい動揺する。

「え?あの、財布…!?これっ」
「はははっ、俺ら夫婦だから財布も一緒なのに…クッ」

慌てる僕に肩を震わせるはゆるさんが笑いを噛み締めながら「光希みつきの財布も新しく買おうか」と提案してきて僕は即答で「嫌です」と断った。

家出中に使っていたお財布はコインケースと言えば聞こえのいい、チャックがついたただの袋みたいなものだから、持ち歩いてなかったんだ。
だからと言ってこの流れでのはゆるさんは完全に僕を甘やかそうと高いのを買ってきそうなので、断固拒否して早く行こうと手を引っ張った。
そんな僕にはゆるさんは「拗ねた光希みつきも可愛いな」と、やっぱり喜んでいて僕は何をしたら嫌がられるんだと頭の中に新たな疑問が浮かんでいた。










「ご結婚おめでとうございます。」

事務的な祝福に、浮かれている心は関係なく喜んでその言葉を受け入れる。
色々あったけど、僕らは正式に婚姻関係になった。

「…婚姻届を出した後で聞くことじゃないけど」
「うん?取り消しは絶対にしない。離婚も絶対にしない。」
「違くて、僕はいいけどはゆるさんのご両親は大丈夫なの?」

友人さん達と会った時の話から、ううん、もっと前から気になってはいたけれど僕から言っていいものか分からなくて黙っていた。
僕みたいなのがはゆるさんの戸籍に連なって、ご両親がそれを知らされていないのはどうなのかと

「あー…今度、連れて来いとは言われてる。嫌だったら行かなくていいし気にしなくていい」
「ちゃんとご挨拶するよ。…僕の方は、会いたくないけど」

それでも、はゆるさんの両親がそこもちゃんとしたいと言ってきたら拒まず実家に行こうとは思ってる。それくらい覚悟しようって決めてはいたから。
…色々と、解決しないといけないこともあるし。

また考え込み始めた僕の頭をリセットするように、ぐしゃぐしゃと頭を掻き回されて驚いた僕が顔を上げると
なんでもないような様子で「キスしたいな」とはゆるさんの顔が近付いてきた。


「っ──おうち、帰ってから!」


顔の前に手を上げてキスを阻止したら、スリッパの入った袋がガサッと僕の顔に当たって二重に驚いた。

「わ、わぁっスリッパ…!」
「ははは!そうだな、今日も疲れたし帰ろう。…これからよろしくな、柊原光希くん」
「……よろしくお願いします。柊原映さん」

そんな挨拶をされてしまっては、僕までキスしたくなってしまうじゃないか。
本当に嬉しそうに笑っているはゆるさんを見ながら、今日のことを思い出した。役所での事務的な祝福、和食処の店員さん。厳しい言葉を投げた友人さん、謝ってきた声。
この結婚は正しいのか、本当にいいのか迷いはある。その迷いはまだ、消えていない。今後も否定されるかもしれない。


…でも、この笑顔だけは絶対に否定してこないって確信がある。


「ぼく…柊原光希です。はゆるさんと一緒に生きます、逃げません。…よろしくお願いします!」

もう二度と、結婚やめますって言わない。誰に否定されても、言わない。だからこれは決意表明だ。

目を合わせるのは苦手だけど、しっかりと目を合わせて。
僕は、どんな笑顔をしているんだろう。気持ち悪くないかな、怖くないかな。
眼鏡越しにくっきりと見える世界ではゆるさんの顔が少し赤くなって、「やばい…」と小さく呟かれて何か失敗したかと不安になる。

「むしろ俺の伴侶でいいのか?こんなに可愛い妻……俺の名字だ…」
「なんではゆるさんが混乱してるの」

変なの、って笑ってたらまた抱き締められた。はゆるさんはコートの前を閉めないからトレーナー越しに忙しなく動いている心臓の震えが伝わってくる。

「本当に、本当に大事にするから。愛してるから。」
「……へへ、幸せなのかも」

この感情が幸せなのか、初めて感じている僕には自信がない。だけどこの感情が、幸せって名前なら良いなと思う。
だってこんなにも口元が緩んで、口角が全然下がらないんだ。
嬉しいって感情よりも大きくて、この人に触れたくて仕方ないんだ。

愛してるかはまだわからないけど、大事にするよ。だから──

「早く帰って、スリッパ使いたいな」
「ん、帰ろうか。」

コートを着てる分だけ距離が遠いから、もっと近くで触れたいんだ。
でも素直にそれを言うには恥ずかしいから、僕はスリッパを言い訳にしてはゆるさんの手を引っ張った。



















おまけ

【side映】出会いのとき。独白。








───消費されそうな男を見かけた。


膨らんだリュックを背負い、身内ではなさそうな年上の男に手を握られ、引っぱられている若い男だった。
全てに落胆しているようで、全てに諦めた顔をしていた。
あんなに綺麗な顔をしているのに満たされない事などあるのかと、目撃した俺はただ漠然と思った。

きっと周りもその異様さには気付いているのだろう。歩く二人に一瞬眉を顰めたり、すぐに視線を逸らしたり、俺のようにじっと凝視したり。
朝からこんなに普通じゃない空気感に、それでも日常を壊されるリスクに見ないフリをされていた。

男なんだから、何かやばい事になりそうでも、どうにでも出来るだろう。そんなところか。

だから俺も、本当はここで真っ直ぐ会社に向かうべきだった。なのに暗い顔が見えなくなり、後頭部とリュックだけが見えるようになり、居てもたってもいられなくなった。


───俺は正義感が強いとよく言われている。


確かに、夜の誰も居ない車もまばらにしか通らない交差点だろうと立ち止まり、歩行者用信号が変わるのを待つような人間だ。
正しいと決められている事を優先して生きている。

だけどそれは、正義の為ではない。罪悪感を抱える行為というのは効率的じゃないからだ。




勢いで掴んだ腕は細くて、上っ面のお礼だけ言われて去られそうになったから引き止めたけど、全身で拒絶を示されて逃げられてしまった。

余計な行動だった。若い男は自分で選んで手を引かれていたのに、俺が邪魔をしてしまったのかとその日は一日中モヤついた。

しかし仕事が終わった帰りでまた、諦めた男と遭遇した。
朝、引き止めた時に家出をしているという情報だけはある。ぼんやりと立っている姿からして宿も無いのだろう。

──俺の正義感…いや、俺の信念からの行動に間違いはなかったのだと確信が欲しかったのかもしれない。

だから、もう一度捕まえた。驚いた相手に保護させてくれと、俺の正しさの証明を願った。





まともな生活をしていないらしい、溜まりに溜まった疲労が顔に出ている男は風呂を提案すると喜んだ。その顔があどけなさを残していて若いなと思いつつ、拾った者の責任と言わんばかりに世話を焼こうとしたが
男はやはり逃げたがっているようで、俺の正しさは証明されなかった。

そんな俺の意識が明確に変化したのは、少しでも床を汚すまいと小さなつま先で必死に立っている姿を見た瞬間だった。
体力的にも限界そうなのに、真面目な顔で少しでも床から離れようとしていた。まるで自分という存在を世界の異物として扱うように、俺の家に居ることが間違いだと突き付けるように。

お風呂に入って清潔な状態にも関わらず、まるで汚いと言わんばかりに頑なに自分を認めない居心地が悪そうな姿に、少し腹が立った。俺の正義なんてどうでもいいと思った。

拾った男は気になっても俺は仕事があるから、逃げられるだろうなとは思っていた。
何かしら荒らされる可能性だって考えたけれど、ベッドで安心したように熟睡している顔がやけに可愛くて満たされたから、これで何か盗まれても文句は言うまいと合鍵を置いて出社した。

帰って来て、投函口に挟まれた封筒を見て絶対に逃したくないと確信した。
自分の形跡を残さないように気を使ったのだろう。綺麗に整えられたベッドから、必要最低限しか床に触れない小さなつま先を思い出していた。

洗濯機の上に畳んで置かれた服が、確かに居たのだと訴えている。律儀に糊付けまでされた封筒に入った合鍵が、やっと持ち主を見付けたのだと主張する。

一回目は逃げられた。二回目は偶然再会して捕まえた。
三回目にまた出会えたなら、運命だと思おう。本気で嫌だったらこの地には居ないはずだ。


「仕事で疲れたんだけどな…なにやってんだ俺」


終電の時間も過ぎて、暗くなった駅の前で呟いて。やっぱり駄目かと周りを見渡していたら遠くに見覚えのある姿を見つけて、全力で走って捕まえた。

このあたりから、絶対に手放さない為にはどうしたらいいのかと考え始めていた。
俺は正義感が強いと言うよりは、頭が固い真面目な人間だ。真面目に生きる為には正しい事をするのが一番楽だ。
だからきっと、今の俺は間違えている。

つま先立ちをする小さな足が可愛くて、ソファを濡らしてしまったと自分の髪よりソファを気にする不器用さがいじらしくて、
一生懸命だけど食べる事が下手で口元をよく汚してしまうのが愛らしくて
ベッドで抱き締めた身体が頼りなくて、静かに泣いているその涙を止めたくて。

きっと、世界は敵ばかりだったのだろう。幸せ以上に、不幸せな世界を知りすぎてしまったのだろう。
こんなにも寂しいと全身が訴えているのに一人で立たなければならないと自分を脅迫し続ける男の…光希みつきの世界の唯一になりたいと、俺は願っていた。

俺は光希みつきと結婚すると、何故か確信していた。

その為には、ちゃんと捕まえなければいけない。光希みつきにも決心してもらわなければならない。
だから一回だけ、逃げる選択肢を与えた。たった二日間の関係値でも少なからず好意を感じ取り、求めたがって揺れ動く心を信じて改札口から送り出した。

───不安そうに一人で進む小さな背中を見送りながら、今すぐにでも走って捕まえて閉じ込めたい気持ちを抑えていた。

もしかしたら、この感情は同情かもしれない。光希みつきが嫌がるだろうと思えば、同情なんてしないと口では断言するけれど、俺はそんなに出来た人間でもない。
可哀想だと上から目線で同情し、光希みつきの不幸な立場を利用して俺の腕の中に閉じ込めようと考えている。

 この「鬼ごっこ」は、そんな独占欲に塗れた醜い俺から逃げられる唯一の選択肢だ。このたったの一回のチャンスしか与えられていない状況で、安全な場所だとすり込まれた光希みつきの心は既に俺に向かいつつあると確信しているから送り出した。

……光希みつきの中の世界への失望が大きく育って既に手が付けられない状態なら、もう二度と捕まえられないが。
そこまでではない、あの子はまだ、愛情を求めている。希望を捨てきれずにいる。結婚の提案で僅かに頬を染めて期待した顔を信じている。
姿が消えた改札で、こんなに心臓に悪い賭けは二度としたくないものだと鬼ごっこらしくゆっくりと数を数えていた。


───でもそれ以上に、泣きながら来た道を戻ってくる光希みつきを見た瞬間の幸福感は、忘れられそうにない。


捕まえた。俺の最愛になる男。俺と夫婦になる男。
世界が敵だと思った分だけ、俺が味方だと甘やかす。
悲しい感情に支配された分だけ、甘く甘く支配する。

光希みつきは俺を誠実な人だと評価したが、俺から見たら光希みつき程、誠実な人は見た事がない。
誰かを苦しめたくなくて自分を蔑ろにし続ける過剰なまでの自己犠牲を、俺は出来ない。

それでもいい。光希みつきが誠実な人が好きならば、俺も誠実に生きよう。根が真面目で頑固な人間だ、正しい事をするのは得意なものだ。

驚いた。こんなに短期間で、ここまで他人に惚れ込めるものなのか。
俺の今後の人生になる男には、致死量の愛を与え続けよう。溺れるほどに愛されて、俺でしか呼吸出来なくなるのもいい。
絶対に手離さない。絶対に逃がさない。

ただ今は、光希みつきが見ている世界を怖いものから優しいものに変えたいと
ドロドロとした愛情は押し込めて頼りなく縋る身体を苦しくないようにそっと抱き締めた。

これは、運命だ。俺に与えられた特別な光だ。
柄にもなくそう信じて、急激に育つ愛を大切に、大切に腕の中に閉じ込めた。


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