風ゆく夏の愛と神友

いすみ 静江

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第一章 聡明のアクアマリン

第六話 麻子の足りない仮面

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 七月二十七日の水曜日、Ayaは、美術部員の動向を探るべく、美術準備室に潜んでいた。
 もう夏休みだが、徳川学園全体が、部活動を奨励している。
 モットーは、ペンと紙だけの勉強を学び舎でしないことだ。
 そろそろ、下校時刻になる。

 ――こちら、放送委員会です。徳川学園高等部、美術部の神崎かんざきりょう部長より、部員の方々は部室に至急集合されたしとの伝言を預かりました。

 放送委員でもある妹の神崎かんざきもみじに頼んだ。
 一人、高二の朝比奈麻子がつかまらなかったからだ。

 全員、学園の美術室兼部室で、イーゼル前の長脚に腰掛けたところだった。
 椛がワンレングスのボブでなければ、少し長い髪の兄、亮に似ていて間違われそうだ。
 二人とも赤い黒髪がさらさらとしている。
 亮は、赤いふちのメガネを中指で直し、ため息交じりに眉間に皺を寄せる。
 かったるく切り出した。

「急な呼び出しだが、仕方がない」

 むくが、丁寧に取り出したのは、Jの赤い封蝋がある古びた洋封筒だ。

「昨日、徳川学園美術部の皆さんに差し出されたものです。神崎部長、封を切りますか?」

 むくは、ペーパーナイフを支度していた。

「むっくん、何それ?」

 一つ上の朝比奈麻子は、いぶかしんで、シャギーの茶がかった髪をくるくると弄り、ちらりと見えた左目元の泣きぼくろが目立った。

「汚くない?」
「怪しいし!」
「脅迫状か何か?」
「開けるのよせば?」

 いつもの矢継ぎ早が出る。

「朝比奈副部長、慎んだ発言を望みます。むくさんが受け取った物を開けもしないで、脅迫状呼ばわりはよろしくないと思います」

 むくと同じ高一で友人の椛が立派に切り返してやった。

「もみじん、いつも上から目線だよね。あたし、好かないな」

 口をとがらせて、何か歌い始めた。
 再び、自分の髪を触って清潔感はない。

「はいはい、その辺にしておいて。全会一致で、封を切らずと。いいですか? 美術部員の皆さん」

 亮がまとめたが、四人の意見は分かれていた。

「私は、開けた方がすっきりするかな、亮兄さん」
「ダメよ、亮。余計な事はうんざりする」

 椛と麻子がじっくりと火花を散らしている。

「あー、もう。どっちなんだよ、二人とも」

 肩を落とす議長の亮に、苛立ちがみえた。

「むくは、皆さんに従います」

 おっとりとして話す。
 むくは、いつもこうだ。

「むくは、それでいいのか?」

 議長は、身を乗り出した。
 この場がまとまれば、それで済むから。

「はい、大丈夫です」

 右へちょいと傾げた。

「では、開封しない。この手紙の件はおしまい。折角集まったから、各自、今日中にマルスの木炭を仕上げて」
「分かったわ、亮!」

 拝む様に手を組むのは、麻子の亮への信奉しんぽうの印だ。

「亮兄さん、仕方ないですね……」

「……」

 むくは、学食で期日過ぎの食パンをいただいていたのを皆に配り、その後、自分のイーゼルに向かい、カルトンに木炭紙を留めた。

「マルスさん素敵にします。よろしくお願いいたします」

 軽く傾げる。

 Ayaは、全員が下校後、こっそりと学園を出た。

「むく、亮、椛、麻子……。マークしないとね」

 ◇◇◇

 翌、二十八日の木曜日、美術部は、活動場所を変えた。
 むくが以前バレエを練習していたところだ。
 今は、アトリエになっている。
 ぴりっと反応したのは、むくだ。

「むくは、気配を感じます。神崎部長、アトリエの地下に誰かがいるみたいです……」

 随分と冷え込む夕涼みの頃だ。
 むくは、階下からの風をふっと受けて、髪をなびかせる。

「むくは、あの手紙きょうはくじょうを受け取ったから、むくのお祖父さんに頼んで……」

 亮は、左手で口元を触り思案していた。

「……はい。三浦みうら司狼しろうお祖父さんから、美術部の皆さんにアトリエを借りたのです」

 むくの祖父は、ウォルフガングWolfgangアルベルトAlbertミュラーMüllerが帰化前の名であるが、特に皆には知らせていなかった。
 むくは、その名から親しみを込めて、ウルフおじいちゃまと呼んでいる。

「階段の少し奥です。扉があります。むくが開けます」

 にじりにじりとアルビノかと思う程透ける様な肌の腕を伸ばした。

「お、おい。大丈夫か?」

 むくの腕に亮の左手が不意に触れる。
 はっと息を呑み、ゆっくりと笑みを浮かべた。

「大丈夫です。むくならくぐれる高さです。むくは一五四センチです」

「亮兄さん、むくさんは、バレリーナですかVous êtes ballerine? なんてよく訊かれたのよ。私もそう思うし。体も柔らかいんだから」

 椛が、口に人差し指を立てて、後を続けた。

「それは、椛さんとパリへ旅行した時の話です。お恥ずかしいです」

 むくは、バレエは習っていたけれども、スタジオを七月で辞めた。
 高校に入ってから嫌な事もあり、バレエから去ったことを悔いてもいる。
 だから、恥ずかしい気持ちがあった。

「亮兄さん、高三なのに扉に行かないの?」

 椛が、せっつく。

「ならば、兄さんは、一七五センチあるから、扉が小さいかな……。フフフ。体も柔らかくない」

 赤いフレームが目元で光った。

「亮兄さん! 冗談言わないの。行くよ」

 兄の背中をとんとつく。

「美術部の活動が、徳川学園の美術室でできていたら、こうはならなかったな……」

 亮は、ため息を三回はついた。

「むくが持って来た虫食いの手紙ですか?」

 亮に声を掛けたが、どうにも赤面してしまう。
 だから、俯いた。

「それしかないな。むく」

 眼鏡を中指で直すのが、癖になっている。

 美術部員が自らを崩壊の方向へ迷走している中、Ayaは、秘密のギャラリーで黄昏ていた。

 ◇◇◇

 亮が、三人しかいないのに気が付いた。
 麻子がいない。

「あの手紙、あれはどうした? むく!」

 興奮して、亮がむくの左腕を強く引っ張った。

「皆さんご存知の筈です」

 引っ張られたまま揺すられたので、体ががくがくと振れる。

「麻子は、今どこにいる?」

「はい。麻子さんなら、美術室にいます」

 亮の利き手ではない左手の握力は、想像よりも強かった。

「何故だ、手紙を読んだろう?」

「麻子さんは、あそこの石膏像、ミロのヴィーナスVénus de Miloがお気に入りです。毎日、木炭デッサンしています」

 むくは、麻子の木炭デッサンの為にだけでも食パンを用意していた。
 雑用係とは、あまり思わない。

「そうだわ……。私、見たの。朝比奈副部長は、今日も食パンの耳をちぎり取っていたもの」

 椛がさっと言葉を挟んだ。

「地下室に行くのは止めにして、麻子と合流しよう。そして、もう一度、あの手紙をむくに見せて貰おう」

 亮は、身を震わせる。
 何かを懇願する漆黒の瞳に、むくは降参して二度、頭を垂れた。

「むくは、了解です。学園ではスマートフォンが無理ですから、直接部室に行きましょう」

「亮兄さん、むくさん、私も同行しても構いませんか?」
「勿論、椛」
「椛さん。はい、分かりました」

 三人は、アトリエを後にしようとしていた。

 夏の蒸し返す暑さが恋しいなんて思えない。
 Ayaは、今をあつく生きたいタイプだ。


 Ayaは、地下室で、静謐せいひつに気を配っていた。
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