風ゆく夏の愛と神友

いすみ 静江

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第四章 慈愛のサファイヤ

第三十三話 夏のかげり

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 翌日、九月一日の木曜日、むくとウルフは、BMWで『夢の城ホテル』を後にし、海岸をのぞむように切り立った所にある、『リューゲン島内総合病院』に着いた。

 ウルフに誘われて、AyaとKouもホンダHondaで追っていた。

 『リューゲン島内総合病院』は、殴ったように白い壁を造り、入口も堅苦しく真四角で、むくは帰りたいと肩を震わせる。

「緊張します。どうして病院へ来たのですか?」

 むくの顔は磨り硝子の向こうにあるようだ。

「大丈夫じゃよ。四階だそうだから、そこのエレベータで行こうかいの」

 ウルフが肩をぽんぽんと叩いて緊張をほぐそうとしたが、むくはびくりとしてしまった。

「むくは、病院が苦手です」

 エレベータが四階を告げる。

「四一二号室は、この奥右手のようじゃ」

 少し歩き、角を曲がった廊下で、空の花瓶を持ちながら向かって来る人がいた。
 じいっとこちらを見ている。

「むくちゃん……?」

 むくと花瓶を持つ人が、お互いに足を止める。

「美舞まーま……!」

 たたっと駆け寄った。
 そして、美舞の袖をつんと引く。

「びっくりした。今から病室に行くから、ついて来てね」

 美舞、むく、ウルフと続く。
 群れないが、近くにはAyaとKouもいた。
 四一二号室の数字を読み、美舞が戸を開ける。
 そこは、広めの個室だ。
 白いカーテンが開け放されており、むくは眩しくて目を瞑った。
 ラジオは見知らぬピアノを奏でている。

「むくちゃん、目を開けるがいいぞい」

 ウルフに従って、ゆっくりと双眸を起こした。

「玲ぱーぱ」

 ベッドには、むくの父の玲がいる。

「れい? ぱーぱ?」

 玲は、誰のことか分からないようだ。

「玲ぱーぱです」

 むくは、目をぱちくりした。

「俺のことか?」
「はい。むくのぱーぱです」

「むく……。聞き覚えがあるな」
「玲ぱーぱの子ですよ」

 父子は、お互いに何が起きているのか分からなかった。
 むくは、作り笑いで首を傾げる。

「まあ! むくちゃん……! それに、ウルフも!」

 ウルフの妻、マリアも来ていた。
 玲に緑茶を煎れていて、遅れてこちらに気が付く。

「久し振りじゃの、マリア。傭兵時代以来かの?」
「もう! 結婚前に契約切ったわよ。何の冗句よ」

 ウルフとマリアは、ハグをして、お互いの健康を確かめ合った。

「玲ぱーぱと美舞まーまにマリアおばあちゃまは、どうしてここにいるのですか?」
「まーまは、玲ぱーぱの付き添いをしているのよ」

 美舞に続いてマリアが答える。

「マリアおばあちゃまは、玲君のお見舞いよ」

 むくは、色々な再会があって驚きの連続だ。

「この病院には、玲ぱーぱの入院と美舞まーまの付き添いの為もあって、ドイツの旅をして来たのですか?」

 むくは、振り仰いでウルフに尋ねた。

「そうじゃな」

 病室がノックで驚く。

「先程、電話いたしました。河合光です」

 パステルカラーの花束を持って病室の前で立ち止まっていた。
 ウルフに促されて、Kouが入室し、Ayaも続く。

「お花を失礼いたします」

 花は、Kouが窓辺にある花瓶の横に置いた。
 そして、点滴と繋がっている玲と状況が呑めないでいるむくに、深く頭を下げた。

「巻き込んでしまってすまない。この通りです」

 Kouが、床に頭を擦り付ける。
 全身全霊で謝罪をしたかった。

「謝って済む問題ではありません。しかし、謝罪の意を伝えたく、参りました」

 Kouは、頭を一つもあげようとはしない。
 Ayaも頭を下げた。
 何かあるのだろうと思ったからだ。

「頭を上げてください。いや、俺も応戦したのですが、お酒に何か盛られて油断していました。医学の学会に来ていて、殴られたらしいと病院で聞きました。もう前後不覚ですよ」

 玲は、苦笑いでお茶を濁した。

「申し訳ございません。実は、むくさんにも謝らなければならない事があります」

 Kouは、白い床の額を動かさない。

「え? むくちゃんは関係ないわよね?」

 美舞はどきりとした。

「そうよ」

 マリアも関係ないと思った。
 Kouは、むくに向き直って、手をついて再び頭を下げ、その姿勢のまま語る。

「むくさん、朝比奈麻子さんが、ミロのヴィーナスを外に置いたと、もしかしたらお考えかも知れませんが、それは、『未来への手紙Jの刻印撲滅機構』の者がやった事です。彼らは『ジレとアデーレ』に特別なメッセージがあると思い、赤茶けた手紙と共に探していました」

 むくは、驚いた顔で話に引き込まれている。

「それから、むくさんの描いた絵の習作に赤で×バツをつけたのは、朝比奈麻子さんです。Ayaがむくさんの渾身の油絵、『タイトル未定』を鑑賞しにアトリエに入った折、Ayaが出た後に、蚊の様に一緒に入ったのです。Ayaも反省しております」

「ごめんなさい。蚊に気が付かないなんて、私としたことが」

 Ayaも何度でもと頭を垂れた。

「そうだったのですか」


 むくは小さくため息をつき、言葉を失っていた。

 ◇◇◇

 AyaとKouは、ひとしきり謝罪をした後、退室する。

「失礼いたしました」

 病室を出た後、誰もいない談話室に入って、紙カップの紅茶とミネラルウォーターを飲んだ。

「Kou。渚で別れたらレストランで再会して、又、この病院にいるなんてね」

「よ! Aya」

 Ayaの隣にKouが座る。

「何よ。こっちは、一生会えないと思ったわ」

 Ayaは、がたっと立ち上がって、肩をいからせた。

「すまない」
「すまないですまないわ!」

 つい語気が荒くなってしまう。

「分かった。ここは、病院だ。出よう、Aya」

 Kouは、Ayaの手を取り、きゅっと握った。

「そ、そうね」


 Ayaの頬に、気恥ずかしいとの落書きが読み取れる。

 ◇◇◇

 四一二号室にて、むくらは語り合っていた。

「美舞まーま、玲ぱーぱ。むくは、お留守番をしていたのですか?」
「むくちゃん、悪いね。俺が精神科の学会で単身こちらに来たのだが、暴漢に襲われて入院したのだよ。やっと連絡がついたら、美舞が飛んで来てくれてね」

 玲もむくの頭を撫でる。
 猫と同じだとむくでも思う程くしゃくしゃだ。

「夏休みじゃし、儂が、可愛いむくちゃんを守るよと美舞と約束したのじゃ」
「ウルフおじいちゃま」

 確かに、むくは守られていた。

「むくは、どうして、お家に誰もいないのか知らなかったです」

 むくは、急に哀しみから解かれたようだ。

「もう、がんばれます。むくは、美舞まーま、玲ぱーぱにお話を聞いて欲しいです」
「何? むくちゃん」

 美舞は、花を触る手を休めた。

「個室だ。誰も聞いていないよ」

 玲は、優しく促す。
 いつになく、川底のように薄暗いむく。
 家族の誰もが知らなかった恐ろしい話が、むく自身の口から明かにされようとしていた。
 病室のカーテンも、ふわりとし、窓を閉めよと物語っている。


 それは、誰が聞いても『悲劇のアトリエ』だ。
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