風ゆく夏の愛と神友

いすみ 静江

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第四章 慈愛のサファイヤ

第三十五話 迷宮のジュリエット

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 Ayaは、むくの哀しいアトリエでのできごとをスマートフォンで盗聴してしまった。
 談話室に一緒にいたKouも聞く。

「Kou、むく様がこんなにつらい心境にあるなんて思わなかったわ」
「ああ、俺も驚いた」

 Ayaが、悪いことをしたと感じ、丸いテーブルにそっとスマートフォンを置く。

「団地にご家族が誰もいなくて、どうしたのかしらと思っていたのよ。むく様も気が付いていなかったなんて、今年の夏は厄介だったのね。やっと、告白できて、これで胸の内がさっぱりできればいいけれども」
「忘れられないだろうな。男ってものを知ってしまったのだ」

「意外。Kouから男だなんて」

 Ayaはあんぐりとし、Kouは、膝に手を当てて汗ばんだ。

「それはそうと、『J』について、俺なりの見解がある」

「何だか、胸が一杯だわ。『組織J』と『未来への手紙Jの刻印撲滅機構』が、同じ『J』でも『J』違いって感じかしらね?」
「Aya、冴えているな」

「いやいや、ははーん! おそれおおくも孤高の黒龍じゃぞ」
「拳銃好きなだけだろう。俺は修行で、六芒星の力を手に入れたよ」

「あれは、何だか凄かったわね」
「まあな。さて、お茶を濁していないで、出るか。本気で行こう」


 DNAの残りそうな物は処分して発った。

 ◇◇◇

 むくが落ち着いたころ、むくは、受診し、検査と療養の為、個室の五〇九号室に入院した。

 むくは、ベッドから降り、木枠の出窓に浅く腰掛け、ドイツの旅行雑誌を開いていた。
 一頁めくった。
 又、一頁めくった。
 又、又、一頁めくった。
 しかし、雑誌に目を落とす訳でもなかった。
 白い壁の窓からのゆらりとした風に、ドイツ旅行は、宛先もなくめくり上げられ、ぱさりと落ちる。
 むくが、堕ちて行ったように。
 泣き腫らした目で、むく独り、うつろにいた。
 真昼の迷宮で。

 お昼を食べ終わった後もまどろんでいると、ノックに目が覚めさせられた。

「失礼いたします。お届け物です」

 看護師がお見舞いのエアメールと品物を付き添いの美舞に渡す。

「むくちゃん、読む? 後にする?」

 むくは、告白以来、黙り込んでしまった。
 美舞にも特段変わった態度を示さない。

「後にしましょうか。うん、テレビ台に置きますね」

 テレビ台の横に、『ジレとアデーレ』を立て掛けてある。
 ウルフが、きっといいことがあると飾ったのだ。
 一方、玲は予後が良好で、四一二号室の患者ではなくなっていた。
 様々な記憶も修復され、すっかり玲ぱーぱに戻っている。

「娘が会いに来てくれたお陰ですよ」

 ドクター・水島らと、むくについて話し合っている。

「ドクター・土方。体の方は、慎重を期しますが、我々で全力を尽くしましょう。後は、ご本人次第。気持ちの整理が先ですね」

 ひとつ息をのんでから答えた。

「分かりました。ドクターDr.マリーMarie水島Mizushima。娘のサポートは、全力で行います。父親ですから」


「はは。ドクター・土方は、愛情深いので有名ですよ」

 ◇◇◇

 二週間経ち、九月十四日になっても、むくは相変わらずぼうっとしている。
 ぼんやりと病院で過ごす日々が続いた。

 食事は食べさせられるので、ふっくらとまではならないが、少し筋ばった感じが取れている。
 八時半に就寝前の服薬後、九時には眠らないと看護師の見回りもあるので、規則正しく睡眠できるようにもなった。

 この夜、さささっさささっと、珍しく雨が降り、夏の終わりと呟くようにかなり涼が運ばれた。
 美舞は、近くの夢の城ホテルに滞在中のウルフとマリアから呼ばれて談話室に出掛けている。
 むくは、独りでベッドで膝を抱えて座り、ぶつぶつと言っていたが、テレビ台の手紙に細い手を伸ばした。
 差出人を数度確認する。

 手紙は、四通入っていた。

 一通目を開く。
 
 土方むくさんへ
 ご両親から、入院の旨を伺いました。
 お疲れのご様子、お見舞い申し上げます。
 又、元気なお顔を見せてくれることを心よりお待ちいたしております。
     徳川学園美術部
      神崎亮、朝比奈麻子、神崎椛、原田結夏

 二通目は誰だろう。

 むくへ
 元気か?
 入院しているし、元気かは無理な話だな。
 疲労がたまったと聞いている。
 もしかして、あの変態のことか?
 だったら、神崎渓に謝らせるか!
 優花ゆうかお母さんは、マザコンだったお父さんの母親、菊ばっちゃが、亡くなってから、手を焼いているのだ。
 僕が変なことを言ったのを気にしているのかな。
 あれは、見間違いだと思っている。
 僕が知るグラビアのお姉さんは、きっと特殊だろうな。
 椛もまな板だけど、むくはバレエを学んでいたから、気にすることはない。
 お茶位なら僕は一緒にしてもいい。
 麻子は、親しい友達だ。
 あれで結構お堅いから、友達以上に想えなくて、寂しい時のぬいぐるみみたいな感じなのだ。
 むくは、健全なお付き合いを一からしてみたらいい。
 好きになるって、僕で練習したらいい。
 先ず、元気に、帰って来いな。
     神崎亮

 三通目は開けるのも億劫だが、ぴらりとめくってみる。

 土方むくさんへ
 むっくんでいいと思ったけど、原田先生がダメだって。
 私、友達がいないから、あだ名で呼び合いたいのよ。
 ガチガチの眼鏡生徒会長は、寂しかったわ。
 亮と仲良くなれて、今までの反動が出ちゃったみたい。
 むっくんへは、亮を取られると思ったの。
 もし、むっくんにもう二度と会えなくなると困るから、今、告白します。
 亮とあたしの『ジレとアデーレ』のような肖像画の習作に、赤いスプレーで×バツを描いて、ごめん。
 むっくんなら、許してくれるよね。
 戻って来て、勉強とか分からなかったら、あたしに相談してね。
 学年トップがテスト対策まで教えるわ。
 美術は、教えられないけれどもね。
     朝比奈麻子

 四通目で最後とむくはがんばる。

 むくさんへ
 そっちに、寅屋ベルリン支店があるらしいよ。
 むくさんなら、心太だけど、寒天はないよね?
 培地用のアガーAgarを使っていたりして。
 寅屋にでも、にゃんこっこにでも、一緒に行こうね。
 無理しないで、ゆっくりだよ。
 話したい事があったら、お手紙ください。
     神崎椛

 降り続く雨が窓を打ち、まるでうがつように強みを帯びた。
 小箱を水玉の包装紙で包み水色のリボンをあしらった、お見舞いの品を開けてみる。
 美しく白いピアノの形をしたオルゴールだった。
 ぜんまいを巻くとポロポロポロと聞いた事のあるメロディーがあふれ出す。
 これは、プロコフィエフProkofiev作、ロメオRomeoandジュリエットJulietのバレエ音楽だ。
 むくは、ひとしきり聞き惚れている。
 何にも関心を示さなかったのに。

 トゥシューズはない。 
 靴下を二重にして、個室の隅に立った。
 美しいつま先立ち、ルルヴェをして、トントンと歩む。

 これは、二人の恋人を別つ悲しい物語。
 ジュリエットとロメオはバルコニーで告白し、神父により密かに結婚する。
 むくはこのシーンに憧れて、独り、ゆるやかに舞い出した。

「ああ! 初恋とは、なんと甘美なことでしょう」

 軽やかに滑るようなつま先に調べのようなかいなの波風。

「お願い……。密やかな愛でいいの」

 確かな手でロメオをとららえ、片足で美しいアラベスクのポーズを保つ。

「かりそめの一夜で構わない」

 片目を瞑り薬を迷いなく空ける。

「これでいいの。死んだようになるわ……」

 スローモーションで回転のピルエットをした。

「彷徨の『むく』は、死にました」

「『私』の中に、迷いの『むく』は、もういません」

 うつろから自力で蘇り、真昼の迷宮に注ぐ一杯の光の中に現れた。

 オルゴールのジュリエットの後、『ジレとアデーレ』にもたれかかる。

 そして、息も切らさずに休み始めた。


 美しい妖精は――。
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