魔術師さんは爛れた関係の同居人に記憶を取り戻させたくない

さか【傘路さか】

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 朝日の眩しさに目を覚ますと、すっと胸元を冷たい風が過ぎていった。

 柔らかい毛布を掻き分けて、絡み付いていた腕から逃れる。昨晩は寝台に縺れ込んで繋がった上、雑に身体を拭って眠りについたようだった。

 毛布の中から手を伸ばし、床に落としていた服を拾い上げる。起き上がって身に纏っていると、空気が入り寒くなったらしい相手が毛布を引き寄せる音がした。

 部屋自体は相手のものだが、もう見慣れた部屋だ。広くはない室内、狭い寝台に、机にはごちゃごちゃと金属製の部品が積み上げてある。いずれ崩れそうな山は、奇妙な均衡を保っていた。

 昨日の情事の名残と、ほんの少しの油の匂いが鼻先に届く。意識しなければ無意識に落とし込めるほど、僕はこの部屋に出入りしていた。

 身体を流そう、と静かに部屋を出て、そっと扉を閉める。

「……うわ、寒い」

 息を吸い込むと、内側を刺すほど透明な空気の味がした。

 冬まっただ中の朝は、いくら毛布の中とはいえ裸で過ごすには寒い。二人で体温を分け合っていたから良かったものの、そのうち向こうも寒さで起きてくるだろう。

 廊下をぺたぺたと歩いていると、足裏から冷たさが染み付いてくる。熱を奪われぬよう、意識して足を持ち上げた。

 脱衣所に入って、羽織ったばかりの服を脱ぐ。

 手前に二人分の物が無秩序に置かれた鏡には、寝癖まみれの頭が映っていた。

 亜麻色と呼ぶには濡れて薄暗く思える髪色と、雨の後の濁った水溜まりのような瞳。僕にとっては、あまり好きにはなれない色だ。

「ひっどい顔」

 似た顔の母は、貴族である父の愛人だった。

 一人で働いて子どもを育てるには病弱すぎた彼女は、生活の殆どを父に頼った。

 僕はその貴族から魔術の素質を受け継ぎ、援助を受けて魔術学校に通わせて貰いもした。だが、学校を卒業する頃、母は病で亡くなった。

 母と住んでいた家は父の持ち物で、母がいなくなった以上、僕の存在は荷物でしかなかった。仕方なく小さな鞄を持って宿屋を転々としていた頃、今の同居人に出会った。

 彼はベイカー、と名乗った。

 個人で商店などの魔術装置の修理を請け負っている魔装技師で、初めて見たのは宿屋で壊れた暖房装置を直している姿だ。

 魔術の心得があった僕が、首を傾げている彼の横から術式の間違いを正したところ、礼代わりに食事に誘われた。

 それから魔術式が分からない場面では呼び出されるようになり、そのうち宿屋を移るのを機に同居を持ちかけられたのだ。

「同居人としては、悪くないんだがな……」

 給湯装置を操作してお湯を湯船に溜め、手足を温めて汚れを泡で洗い落とす。

 見下ろした胸元には情事の痕が残っており、強く吸い付かれた記憶が蘇った。

 ベイカーとの関係を言い表すなら、同居人で友人、と言うのが正しいのだろう。だが、酒癖が悪くて性欲が強いあの男は、平然と同居人である僕に手を出したのだ。

『お前のこと、恋人だって事にしておいていい? 断り文句を用意するの面倒でさ。ついでに、溜まったら抱かせてくれよ』

 初夜の翌日に相手に掛けるにはひっどい言葉だったが、さも当然のように言われた僕はただ唖然とする他なかった。

 しかも、ベイカーの性欲は尽きること無く、たまに、どころではない頻度で寝台に引き摺り込まれている。

 彼曰く『溝鼠の色』という黒に近い髪は艶やかで、相反するように鮮やかな夕陽の色をする瞳は目を引く。意志の強そうな目元と、高い鼻筋、筋肉質な体格といい、人から好かれるには十二分な容姿を持っている。

 一時期はたいへんな遊び人であったようで、初めての夜から僕の身体に痛みは無かった。あっけらかんと謝られてしまえば怒りも萎んでしまって、結果的に彼を受け入れるための魔術を使った自分が悪かった気さえしてしまった。

 身体を重ねるのは素直に気持ちがいい。色々な理由で、僕はずるずるとベイカーとの曖昧な生活を引き延ばしてしまっている。

「フィオノ、お湯溜めてる?」

 浴室の扉ががらりと開けられ、同時に低い声が聞こえた。僕が振り返ると同時に、彼は湯船に溜まった湯に視線を落とした。

 途端に機嫌が良くなった表情を見て、けっと息を吐き捨てる。

「来るな。ベイカーと一緒に入ったら湯が減る」

「俺が入ったほうが温かいだろうがよ」

「どこがだ」

「心が」

 平然と言い切った男は手早く服を脱ぐと浴室に入り、身体を洗い始めた。

 あぁ……、と悲しみで声を漏らしながら、身を縮めて男が入る空間を用意する。身体を流し終えると、僕が空けた場所に大きな身体が入ってきた。

 当然のように、体温を保っていた湯が流れてしまう。

「もっと寄れば?」

「……今日は読みたい魔術書があるんだ」

 この男に不用意に近付けば、だいたい丸め込まれて身体を重ねることになる。警戒して毛を逆立てながら言うと、ベイカーは湯船の縁に肘を突いた。

 髪を掻き上げる様は色男そのもの、恋人にするには悪すぎる匂いのする男である。流し目を向けられても、色香にはもう慣れたものだ。

「風呂で二回とかしないから、なァ」

「一回でも駄目だ」

 抱き込もうとする腕を払い落とし、湯船の反対側に寄る。

 それでも何だかんだと体勢を変えつつ抱き込まれ、背後から頬に吸い付かれた。ちゅ、ちゅ、と何度もキスを落とし、ねちっこく腰を撫で始める。

 腕の長さも、身体の大きさも向こうの方が上で、ぱちゃぱちゃと水を跳ねさせながら攻防しても敗色濃厚だ。

「……しな、……って、言って……。ァ」

 胸の尖りを摘まみ上げた指先に反応して、口から声が漏れた。慌てて口を覆っても、もう遅い。

 首筋を舐め上げる舌は、僕をまたあの時間に引き摺り込もうと欲を煽ってくる。身体を洗ったのはなんだったのか。気持ちよさに丸め込まれ、やがてまた腹を押し上げるほど奥に男根を含まされるのだ。

 少し魔力を扱えるこの男は、わざと境を崩して己の魔力を流し込んでくる。ベイカーとの魔力相性は極上で、この性格の悪ささえなければ恋に落ちていたほど強く理性を溶かす。

「い……ぁ、やぁ……! も、入らな……」

 いくら足掻いても流し込まれる魔力は変わらず、躰じゅうを掻き乱されて陥落するのは直ぐだった。

 魔術書が読めなかった、と文句を言う僕に、けらけらと笑いながら運動できたからいいだろ、とのたまう。

 同居人はそんな酷い男だ。









 その日は、数年そこら彼との生活が変わることはないだろう、と思っていた内の一日でしかなかった。

 ベイカーが夕食は不要だと言い、僕は自分だけの夕食を終えて寛いでいた。もし彼が飲み過ぎたら迎えに行こう、と同居人が帰るまでは待機するつもりでいたのだ。

 僕にとっての契機は、一本の連絡から始まる。魔術を使った通信が入り、見知らぬ声が僕の名を呼んだ。

『────ベイカーさんをご存じですか?』

 通信の向こうの声は、王宮の門番だと名乗った。

 彼は職業柄か好んで王宮の魔術装置を外から眺めに行くのだが、いつもなら王宮に入ろうとはしなかったはずだ。

 詳しく話を聞くと、酔っ払いが騒いで門を越えようとした時、近くを通りかかったベイカーが門番より先にそれを止めようとしたらしい。

 その時、王宮に仕込まれている防衛用の魔術がベイカーまで巻き込んで発動してしまったのだそうだ。今は目覚めているが、一時的に意識を失っていたと言う。

 王宮の医務室にいるので迎えに来られないか、と打診され、一も二も無く頷いた。すぐ出て行けるような服を着ていたため、コートだけを羽織って外に出る。

 外は防寒着が役に立たないほど寒く、大通りにある店の前を選んで王宮への道を急いだ。

 よくは聞けなかったが、怪我はなかっただろうか。特に彼が大事にしている指先に何かあったら。ぎりぎりと胸が痛み、不安を掻き消すようにただ脚を動かす。

 何をするにも器用なあの男が、事故に巻き込まれることを考えてもいなかった。

 大通りから裏路地に目を向ければ、そこには淡く闇が広がっている。近付かぬように気を付けながら、回り道をしても明るい道を選んだ。

 必死で脚を動かしていると、気づかぬうちに王宮に辿り着いていた。昼間に見れば圧巻の華美な建物は夜の静けさに彩を落とし、いまは落ち着きを保っている。

「夜の王宮って、どこから入れば……?」

 普段は縁のない建物を前に、感傷的な空気が一変して現実的な問題が持ち上がる。

 そろそろと閉まっている正門に近付くと、門の横にある小窓から門番らしき男が顔を出した。

「……王宮にご用ですか?」

 優しく尋ねる男が、救世主に見えた。縋るように慌てて声を上げる。

「ベイカーという男が意識を失って、医務室に運ばれたと連絡を受けて来たのですが……」

「ああ、フィオノさん?」

「はい!」

 僕が勢いよく言うと、門番は一度引っ込み、使用人らが使うのであろう小さな扉を内側から開けてくれた。

 そこから中に入ると、門番は整った姿勢のまま口を開く。

「夜分遅くに、急な連絡で失礼しました。では、医務室にご案内します。…………見張りよろしくな」

 言葉の後半は、同じく門番をしている別の男に向けられており、待機所のような場所から別の声で返事があった。

 門番は付いてくるよう言い、先導して庭を歩き出す。

「我々が酔っ払いに気づくのに遅れた所為で、ベイカーさんを巻き込んでしまって申し訳ありません」

「いえ。あの、怪我とかは……」

「双方、擦り傷程度のようですよ。越えようとしていた塀はさほど高くなく、だからこそ防衛用の魔術が仕込んであった箇所だったんです」

 その箇所は乗り越えやすそうだ、と度胸試しのように登ろうとする人間が後を絶たなかったが、景観も考えると塀を高くできず、防衛用の魔術を仕込むことになったそうだ。

 だが、今回も酔っ払いが塀を登ろうとして、近くを通りかかって止めていたベイカーごと魔術が発動してしまったらしい。

「────でも、意識を失っていたと聞いたのですが」

「ええ。ですが頭を打った訳ではなく、魔術式と魔力との相性? が悪かった、というような話をしていました。我々も詳しくない分野の話ですので、医務室で待機している専門の者に聞いてみてください。私から話すより詳しい話が聞けると思います」

「はい……、聞いてみます」

 頭を打っていないのなら、傷が残るようなものでもないだろう。少し安心しながら、普段は通ることのないであろう扉を通って医務室に向かった。

 昼ならば装飾の豪華さに見入る余裕もあったのだろうが、夜で状況もそれどころではない。広い廊下、と思う以外の余裕はないまま、門番の背だけを追って歩く。いくら静かに歩こうと努めても、かつん、かつん、と靴裏が立てる音が広い空間に響いた。

 灯りが落とされている部屋も多くある。近付けば話し声がすることで、直ぐに医務室の場所は分かった。

 部屋の前まで辿り着くと門番が中に声を掛け、待ち侘びていたようにすぐ返事がある。

「失礼します。ベイカーさんの身内の方をお連れしました」

 身内、と言われたことに、どういう経緯があったのか気になりはしたが、追及する間も惜しくそのまま続いて部屋に入った。

 門番は部屋の中にいた人物に引き継ぎをして、医務室から出て行く。

 医務室、と呼ばれる部屋は薬品の匂いに満ちていた。

 白を基調とした室内は、簡単な治療ならすぐ行えるように棚には薬品が並び、病人を寝かせるための空間はカーテンで仕切られている。

 医務室の主らしい白衣姿の男が、ベイカーが寝かされているであろう、仕切られた奥の方へと歩いて行く。

 もう一人。僕の元に残ったローブ姿の人物が、こちらに向けて優しい声を掛けた。

「連れてくるから、ちょっと待っていてくれ。…………顔色が悪いな。身体も冷えてるだろ?」

「あ……。急いでいて、着込む余裕も無くて」

 その人は緑色の目を細めると、指先を動かして魔術を起動させた。僕の身体にふんわりと、あたたかな空気が纏わり付き、肌に温度を戻す。

 ぺたぺたと血色の戻った頬を優しく叩き、安心するように頭を撫でられた。

「大丈夫、ベイカーさんの外傷は擦り傷くらいだ。頭を打ってもいないんだが、本人の魔力と防御用の魔術の相性が悪すぎてな。頭を巡る波まで乱れて、記憶が混乱しているみたいなんだ」

「記憶……?」

 僕が心細く声を漏らすと、ああ、と男性が頷く。

「自分の名前なんかの基本的な事は問題なく覚えてる。ただ、短期間の記憶が飛んでいるらしい。酔っ払いを止めに入った経緯を聞いても、なぜ自分がここに居るのか分からない、って言い始めてな。体調も心配だし、家の人を、って聞いて連絡先を教えてもらったんだ」

「そうですか……。あの、ご迷惑をお掛けしました」

 ローブ姿といい、使う魔術の滑らかさや感覚的な言葉選びといい、この人は王宮の魔術師なのだろう。

 態度は落ち着いており、眼鏡の奥からは急に呼び出された僕を労る視線を向けてくる。その態度につられて、僕自身も落ち着きを取り戻しつつあった。

 頭を下げると、男性は手を振る。

「こっちも門を越えようとした人じゃなく、止めようとした人の方に大きく被害が出てしまって申し訳なかった。記憶も、おそらく魔力の波が戻れば元通りだとは思うんだが、もし長引くようなら、魔術に知識のある医者に掛かった方がいいかもしれない」

「そうですね。魔力の波は元に戻ろうとする傾向がありますので、完全に記憶を取り戻すのに長くは掛からないと思います」

 ベイカーを連れた白衣姿の男性が、そう言いながらこちらへ歩いてくる。背後から付いてくる見慣れた顔には擦り傷が残っていたが、既にかさぶたになっていた。

 同居人は僕を見つけると、早足で歩み寄ってくる。

「悪いな、フィオノ」

「本当にな。酔っ払いを止めようとして自分が魔術を食らうなんて何をやっているんだ」

 怪我はあれど、元気そうな姿につい憎まれ口を叩いてしまった。

 怪我人だということを思い出し、はっと口を噤む。僕の態度をにやにやと見守っている彼に、繕う言葉を続ける。

「……まあ、無事で良かった」

「ああ。お前も仕事に慣れてきた頃だろうに、ようやく休んでる夜に呼び出し掛けて悪かったよ」

 ん? と僕はその言葉に違和感を抱いた。

 だが、こんな夜遅くに医務室を開けてもらっている、という焦りの方が先に来て、疲れたのか、早く帰りたがるベイカーの態度に従ってしまう。

 後日、詳細に状況を聞きたければ、と言われ、医務室への連絡先だけを貰って僕たちは部屋を退室することにした。

「あ、ちょっと待った。念のため、馬車で送っていくから」

 ローブ姿の男性はそう言うと、僕たちを伴って王宮内を歩き始める。途中、彼がどこかに連絡をすると、門まで辿り着いた時には前に馬車が待機していた。

 ベイカーは馬車の側面を見て、目を丸くしている。僕が詳細を尋ねる前に、朗らかな声が掛かった。

「お待たせいたしました。中へどうぞ」

 御者はこんな夜遅くだというのに晴れやかな笑顔で、扉を開いて僕たちを招き入れる。立派な馬車に恐縮しながら中に入る僕と、少し緊張しているベイカーとで、隣の席に座った。

 ローブ姿の男性は、御者に親しげに声を掛けている。

「仕事を増やして悪いな」

「いえ。送り次第、門の前に戻って来て待機しておきます」

「ああ、頼むよ。後処理はすぐ終わると思う」

 この馬車の主は、あの魔術師の男性らしい。続けて細かな内容を打ち合わせると、男性は僕たちが座る時に開けた扉に手を掛けた。

 にかり、と警戒心を和らげるように笑う表情は、夜には似つかわしくないほど日向の匂いがする。

「ベイカーさん。魔術式が巻き込んで悪かった。何か困ったことがあったら相談してくれ」

「いえ。俺が邪魔をしたようなもので、魔術式としては正しい動作だったと思います。馬車も、ありがとうございました」

「いやいや。俺の迎えのついでだから、短い時間だけどゆっくりしてって」

 ぱたん、と扉を閉めると、窓の外から律儀に手を振ってくれる。

 魔術式の動作に巻き込まれて怪我をした、と怒ることもできたのかもしれないが、一番悪いのは酔っ払いで、魔術式としては侵入者を排除するための挙動に問題は無いのだ。

 しかも、記憶が多少飛んでいるとはいえ、酔っ払いもベイカーも傷少なく無力化されている。

 僕が来るまでの手配をしてくれた彼らを、恨む気持ちは持てなかった。

 馬車は御者の指示でゆっくりと発進し、そのまま穏やかに進行する。

「そういえば、記憶が飛んでる、ってどれくらいだ? 明日……は仕事が休みで幸いだったな」

「数日間だと思うが。俺の記憶だと、フィオノがうちに住むことになって、ほら、台所に棚を増やそうって言ってただろ。それを明日、見に行く予定だった」

「え? それ、数ヶ月前の話だろ」

 僕がそう言うと、ベイカーは目を瞠った。彼自身、違和感がなかった所為か、数ヶ月も空いていると思っていなかったらしい。

 確かに、僕も明日に目覚めて数ヶ月分の記憶を失っていたとして、数日だと軽く考えるかもしれない。

「うわ。数日程度だと……。割と大ごとだったか?」

「うーん、数ヶ月だろ。仕事は同じ依頼が数ヶ月置きの仕事もあるし、常連さんも多いからそこまで問題ないんじゃないか。あと問題になるのは、お前の人間関係くらいだ」

 ベイカーは腕組みすると首を傾げた。

 色々と考えているようではあるが、彼の交友関係は僕も把握しきれていない。何処からか新規の仕事を持ってくるのは、だいたい酒場で知り合った客からだ。

「頭を打って直近の記憶が無い、って言ったら笑って済ます奴らばっかりだから、平気だろ」

「……いや。飲み友達じゃなくて…………」

 暗に僕が言いたいことが分かったのか、ああ、とベイカーは声を上げる。

「今はお前が来たばっかだし、慎ましくしてますよ」

 茶化して言う声音に、嘘はないようだった。

 僕が同居し始めてから、深夜に帰ってきたとしても朝帰りは無かった。仕事先から遊び人だ遊び人だ、と言われても、僕が見ている限り特定の恋人の影も見当たらない。

 その上で僕に手を出し始め、欲の発散をしていたのだから、そこから数ヶ月は本当に慎ましく暮らしていたはずだ。

「あれ…………」

 ぽつり、と呟いて重要なことに思い至る。

 数ヶ月前、僕が同居し始めて直ぐの棚を買うか買わないか、という時期ならば、僕たちはまだ身体を重ねるような関係では無かった筈だ。

 あれだけ散々抱き潰しておいて綺麗さっぱり忘れられているのは寂しいものだが、友人、と自信を持って言えないような曖昧な関係が終わるのは、望ましいことのような気もした。

 腹が立つ、というよりも、その事実に茫然と置いて行かれるようだ。

「フィオノ?」

「……何でもない。記憶、戻らなくても大丈夫そうだな」

「そう言うなよー」

 本人もあまり深刻には捉えていないようだし、白衣の男性も長く掛からずに戻るだろうと言っていた。

 もし記憶が戻らないとしても、彼が失うのは数ヶ月分の記憶と、僕との過ちの記憶くらいだ。

 がたん、と馬車が一度大きく揺れ、御者から詫びの言葉が掛かる。

 椅子の端に掴まりながら、それからも収まったはずの高低に揺さぶられ続けているような心地だった。





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