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11. かわいそうな子ども
マリアンヌの子どもが、ついに生まれた。その日はとても寒い日で、よく晴れた日でもあった。慌ただしく人が出入りしているようで、イレーナが暮らしている場所にまで子が生まれた賑わいと喜びが伝わってくるようであった。
伯爵は当然、イレーナのそばにいなかった。
(彼はどんな顔をしているのかしら)
何を思っているのだろう。
夫は一人の父親となった。産声をあげる赤ん坊をあの逞しい腕で抱きとめているのだろうか。笑みを浮かべ、母親となったマリアンヌと喜びを分かち合っているのだろうか。
「イレーナ様」
イレーナは庭に出ていた。部屋にいると使用人たちの気遣うような眼差しが向けられる。それがひどく、彼女の胸をざわつかせた。
一人になりたいと思うイレーナに寄り添うのは、シエル一人だけだった。気づけば彼はずっと影のようにイレーナのそばにいる。二人は何をするわけでもなく、池のほとりに突っ立っていた。不思議と彼の存在は、以前のように邪魔には思わなかった。
彼がいてくれてよかったと、今この時ばかりは強く思った。
「マリアンヌ様は、無事に子をお産みになったのね」
「はい」
「男の子?」
「……ええ」
「そう。よかった……」
伯爵に愛人がいても気にしない。マリアンヌが子どもを産んでも気にしない。
イレーナはそう思っていた。自分の心はいつまでも子どものまま、何も見ないままだと。耳を塞いで、蹲っていればよかった。
――それなのに。
「イレーナ様」
「シエル。私ね、変わらないと思っていたわ」
振り返ると、悲しそうなシエルの瞳と目が合った。空色の瞳に映った自分は、傷ついた表情をしていた。父になったダヴィド。母となったマリアンヌ。イレーナは一人、置いていかれたような気持ちになった。嫉妬だろうか。寂しさだろうか。苦しさだろうか。たぶん全部だ。
そんな自分に向けて、イレーナは静かに微笑んだ。
「でも、もう変わらないわ」
芽生えだした感情は、摘み取られた。摘んだのはダヴィドであったし、マリアンヌでもあった。そしてイレーナ自身でも。
「私、マリアンヌ様の子どもを大切にするわ」
シエルの目が大きく見開かれた。
「どうして……」
掠れた声は、イレーナの行動が理解できないと告げていた。夫の愛人の子を妻が大切にする。普通なら、ありえないことなのだろう。でもイレーナは普通じゃなかった。
「私の兄は父の愛人の子どもだった。それは前に言ったでしょう?」
「はい」
「母が二人目の妹を産んだ後、ある日父は、私たちが暮らしていた本宅へ兄を連れてきた。そして本当の息子だと思って育てるよう母に命じた。それがどれほど母の心を傷つけるか知らずに」
母だって死ぬ思いでイレーナや妹たちを産んだのに、それを嘲笑うように父は別の子どもを差し出したのだ。自分ではなく、別の女を愛して生まれた子どもをお前の子だと言って。
「母は父を愛していた。憎みたくても、憎めなかった。だから代わりに兄を、彼を産んだ女性を恨んだの」
初めて、自分の過去を語る。それはとても怖いことであった。だがシエルには、聞いてほしいと思った。
「母は、父がいない時に愛人だった彼女の所へ出向いて行った。兄も一緒に。そしてわざとその女の前で兄のことを可愛がったの」
『いいこと? あの女の前で、お前は私のことを母上と呼ぶの。とっても嬉しそうに。そして抱き着くの。お前の母親に見せつけるように。いい? 絶対に失敗してはだめよ』
母が兄にそうきつく言いつけるのを、イレーナは扉に隠れてじっと聞いていた。出かけていく寸前、ちらりと見えた兄の顔は蒼白だった。これから自分のする行いに恐怖し、怯えていた。幼かったイレーナには何もできなかった。
腹を痛めて産んだ我が子を、自分の子のように見せつける。
「それが母の復讐だったの」
さらに母はリュシアンの実母を卑しい女だと罵ったそうだ。妻がいる夫を誘惑し、子どもまで身ごもった。汚らわしい、神に背いた女。それは息子であるリュシアンの存在を貶めることと同じであった。あるいはそれも込めて、母は呪いをかけたのだ。
「可哀想な方ですね」
心からシエルはそう言っているようだった。彼ならそう言ってくれると思っていた。
「……ええ。本当に」
母の復讐は成功とは言えなかった。リュシアンの母にとって、息子などどうでもいい存在だったからだ。彼女にとって愛しい男の愛を独り占めできた。彼との間に子を身ごもった。生まれた子どもは男の子で、正式な跡継ぎとして選ばれた。それが何よりの勲章だったのだから。正妻である母から何を言われようと、何をされようが、痛くも痒くもなかったのだ。
「三人目の妹を産んだ後、母は亡くなった。そして今度は、父の愛人であった女性が、本妻として屋敷に出入りするようになったの」
それも結局、女の過度な金遣いや若い男との情事で父の怒りを買い、屋敷を追い出されることとなった。その後、妹の家庭教師をしていた若い女が父の新しい妻となり、今は病気で老いた自分を看病させている。
父にとって、母は何だったのだろうとイレーナは思う。いや、妻とは何だったのかと。誰でもよかったのだろうか。結婚をして、夫を持ったイレーナには父の気持ちはもはや理解し難いものだった。
「でもね、一番可哀想なのはお兄様よ」
復讐の道具にされ、人生を利用された兄。結婚しても、今度はその妻に裏切られた。イレーナは兄が可哀想でならなかった。
「だから私は、マリアンヌ様の子を大切にしたい」
母と同じ道を歩みたくはなかった。誰かの人生を傷つけて、狂わせて、のうのうと生きることだけは、イレーナにはできなかった。
「ダヴィド様に頼んで、伯爵家の跡を継げるようにしてもらう。それが一番、いいのよ」
どこか晴れ晴れとした表情で告げるイレーナを、シエルは悲しそうに見つめていた。てっきり褒めてくれると思っていたイレーナはそんな彼の表情に面食らう。
「私、何か間違ってる?」
間違えているのならば、どうか正してほしい。不安そうな顔をするイレーナに、いいえとシエルは首を振った。
「あなたは正しい。正しすぎて……辛いのです」
それはどういう意味だろう。イレーナが懸命に考えていると、シエルがそっと彼女の両手を包み込むように握りしめた。夫以外に触れられることを許してはいけない。とっさにイレーナは振り払おうとしたが、シエルの泣きそうな顔に息を呑む。
「シエル……?」
「先ほどあなたはご自身の母親や兄君を可哀想だとおっしゃったが、私からすればあなたも同じです」
「私?」
どうして、と瞠目する。
「気づいておられないかもしれませんが、あなたは時折不安そうな、怯えた表情をする。まるで見えない誰かから逃げるように。許しを請うように」
「そんなこと……」
「あなた自身も、お母様から何かされていたのではないですか?」
イレーナはひゅっと息を呑んだ。
『――お前のせいよ』
母の声が聞こえた気がした。
伯爵は当然、イレーナのそばにいなかった。
(彼はどんな顔をしているのかしら)
何を思っているのだろう。
夫は一人の父親となった。産声をあげる赤ん坊をあの逞しい腕で抱きとめているのだろうか。笑みを浮かべ、母親となったマリアンヌと喜びを分かち合っているのだろうか。
「イレーナ様」
イレーナは庭に出ていた。部屋にいると使用人たちの気遣うような眼差しが向けられる。それがひどく、彼女の胸をざわつかせた。
一人になりたいと思うイレーナに寄り添うのは、シエル一人だけだった。気づけば彼はずっと影のようにイレーナのそばにいる。二人は何をするわけでもなく、池のほとりに突っ立っていた。不思議と彼の存在は、以前のように邪魔には思わなかった。
彼がいてくれてよかったと、今この時ばかりは強く思った。
「マリアンヌ様は、無事に子をお産みになったのね」
「はい」
「男の子?」
「……ええ」
「そう。よかった……」
伯爵に愛人がいても気にしない。マリアンヌが子どもを産んでも気にしない。
イレーナはそう思っていた。自分の心はいつまでも子どものまま、何も見ないままだと。耳を塞いで、蹲っていればよかった。
――それなのに。
「イレーナ様」
「シエル。私ね、変わらないと思っていたわ」
振り返ると、悲しそうなシエルの瞳と目が合った。空色の瞳に映った自分は、傷ついた表情をしていた。父になったダヴィド。母となったマリアンヌ。イレーナは一人、置いていかれたような気持ちになった。嫉妬だろうか。寂しさだろうか。苦しさだろうか。たぶん全部だ。
そんな自分に向けて、イレーナは静かに微笑んだ。
「でも、もう変わらないわ」
芽生えだした感情は、摘み取られた。摘んだのはダヴィドであったし、マリアンヌでもあった。そしてイレーナ自身でも。
「私、マリアンヌ様の子どもを大切にするわ」
シエルの目が大きく見開かれた。
「どうして……」
掠れた声は、イレーナの行動が理解できないと告げていた。夫の愛人の子を妻が大切にする。普通なら、ありえないことなのだろう。でもイレーナは普通じゃなかった。
「私の兄は父の愛人の子どもだった。それは前に言ったでしょう?」
「はい」
「母が二人目の妹を産んだ後、ある日父は、私たちが暮らしていた本宅へ兄を連れてきた。そして本当の息子だと思って育てるよう母に命じた。それがどれほど母の心を傷つけるか知らずに」
母だって死ぬ思いでイレーナや妹たちを産んだのに、それを嘲笑うように父は別の子どもを差し出したのだ。自分ではなく、別の女を愛して生まれた子どもをお前の子だと言って。
「母は父を愛していた。憎みたくても、憎めなかった。だから代わりに兄を、彼を産んだ女性を恨んだの」
初めて、自分の過去を語る。それはとても怖いことであった。だがシエルには、聞いてほしいと思った。
「母は、父がいない時に愛人だった彼女の所へ出向いて行った。兄も一緒に。そしてわざとその女の前で兄のことを可愛がったの」
『いいこと? あの女の前で、お前は私のことを母上と呼ぶの。とっても嬉しそうに。そして抱き着くの。お前の母親に見せつけるように。いい? 絶対に失敗してはだめよ』
母が兄にそうきつく言いつけるのを、イレーナは扉に隠れてじっと聞いていた。出かけていく寸前、ちらりと見えた兄の顔は蒼白だった。これから自分のする行いに恐怖し、怯えていた。幼かったイレーナには何もできなかった。
腹を痛めて産んだ我が子を、自分の子のように見せつける。
「それが母の復讐だったの」
さらに母はリュシアンの実母を卑しい女だと罵ったそうだ。妻がいる夫を誘惑し、子どもまで身ごもった。汚らわしい、神に背いた女。それは息子であるリュシアンの存在を貶めることと同じであった。あるいはそれも込めて、母は呪いをかけたのだ。
「可哀想な方ですね」
心からシエルはそう言っているようだった。彼ならそう言ってくれると思っていた。
「……ええ。本当に」
母の復讐は成功とは言えなかった。リュシアンの母にとって、息子などどうでもいい存在だったからだ。彼女にとって愛しい男の愛を独り占めできた。彼との間に子を身ごもった。生まれた子どもは男の子で、正式な跡継ぎとして選ばれた。それが何よりの勲章だったのだから。正妻である母から何を言われようと、何をされようが、痛くも痒くもなかったのだ。
「三人目の妹を産んだ後、母は亡くなった。そして今度は、父の愛人であった女性が、本妻として屋敷に出入りするようになったの」
それも結局、女の過度な金遣いや若い男との情事で父の怒りを買い、屋敷を追い出されることとなった。その後、妹の家庭教師をしていた若い女が父の新しい妻となり、今は病気で老いた自分を看病させている。
父にとって、母は何だったのだろうとイレーナは思う。いや、妻とは何だったのかと。誰でもよかったのだろうか。結婚をして、夫を持ったイレーナには父の気持ちはもはや理解し難いものだった。
「でもね、一番可哀想なのはお兄様よ」
復讐の道具にされ、人生を利用された兄。結婚しても、今度はその妻に裏切られた。イレーナは兄が可哀想でならなかった。
「だから私は、マリアンヌ様の子を大切にしたい」
母と同じ道を歩みたくはなかった。誰かの人生を傷つけて、狂わせて、のうのうと生きることだけは、イレーナにはできなかった。
「ダヴィド様に頼んで、伯爵家の跡を継げるようにしてもらう。それが一番、いいのよ」
どこか晴れ晴れとした表情で告げるイレーナを、シエルは悲しそうに見つめていた。てっきり褒めてくれると思っていたイレーナはそんな彼の表情に面食らう。
「私、何か間違ってる?」
間違えているのならば、どうか正してほしい。不安そうな顔をするイレーナに、いいえとシエルは首を振った。
「あなたは正しい。正しすぎて……辛いのです」
それはどういう意味だろう。イレーナが懸命に考えていると、シエルがそっと彼女の両手を包み込むように握りしめた。夫以外に触れられることを許してはいけない。とっさにイレーナは振り払おうとしたが、シエルの泣きそうな顔に息を呑む。
「シエル……?」
「先ほどあなたはご自身の母親や兄君を可哀想だとおっしゃったが、私からすればあなたも同じです」
「私?」
どうして、と瞠目する。
「気づいておられないかもしれませんが、あなたは時折不安そうな、怯えた表情をする。まるで見えない誰かから逃げるように。許しを請うように」
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