旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ

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26. 約束

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 次の日、朝早く目覚めたイレーナは溜まっていた仕事をいくつか片付け、昼時に休憩がてら庭へと赴いた。

「これはこれは奥様」

 作業をしていた庭師がイレーナに気がつき、さっと帽子を脱いで頭を下げた。その様子にイレーナは別のことを思い出し、ふっと微笑む。

「毎日ご苦労様。寒いでしょう? 少し中で休憩してくるといいわ」

 主人の言葉に有り難り、彼は屋敷の中へと入っていった。温かいものでも使用人が出してくれるだろうと思いながらイレーナは辺り一面をぐるりと眺める。

 かつて荒れ放題だった草木は風景を損なわないよう刈りとられ、両脇を花で彩られた小道が作られていた。そこを通ると、池が見えてくる造りだ。

 他にも迷路や異国の珍しい植物を集めた温室……これだけ広い敷地なのでもっといろいろやってみてはどうかと庭師が目を輝かせながら庭を再建する案を出してきた。彼の熱意を信用し、イレーナは好きなようにやってくれと一任している。

(前の面影がなくなって、明るくなればいいわ)

 せめて庭だけは。イレーナはそう思い、しゃがんで池の水を眺めた。水面に映る自分の姿を、これまで何度見てきたことだろう。結婚して伯爵にまったく相手にされなかった時。マリアンヌが妊娠したと告げられた時。そして――

「イレーナ様」

 イレーナが振り返れば、シエルが微笑んでいた。イレーナもまた立ち上がり、自然と笑みを浮かべる。

「こんにちは、シエル」

 イレーナが変わったように、シエルもまた変わった。最初の頃よりも大人びた顔つきになり、背も伸びたように思う。

「ずいぶんと変わりましたね」
「ええ。本当に」

 透き通った池の水に目を細めながら、イレーナは彼の言葉に頷いた。そんな彼女をじっと見つめるシエル。彼の視線に気づいたイレーナもまた彼を見つめ返す。

「……シエル。改めて、ありがとう」
「私は何もしていませんよ」

 そんなことない、とイレーナは首を振った。

「ダヴィド様たちが亡くなって、なんとか私が気をしっかりもてたのは、あなたがそばで支えてくれたからよ」

 夫が愛人に刺され、二人ともイレーナの目の前で命を絶った。普通なら卒倒する悲惨な出来事だった。いや、実際イレーナは倒れかけた。そんな彼女を休ませ、その間使用人たちをまとめてくれたのがシエルだった。

『今はただ、我慢せず泣いてください。そうしたら、一緒にどうするか考えましょう』

 彼に申し訳なく、無理をして起き上がろうとしたイレーナを、そう言って抱きしめてくれた。その言葉でようやく、イレーナは泣くことができたのだ。

「本当に、ありがとう」
「あなたが大変なのに、放っておけません」

 わかっている。それでもイレーナはもう一度ありがとうとつぶやき、話を変えるように訊いた。

「ダヴィド様のお仕事は、上手く引き継げそう?」

 伯爵が大きく関わっていた事業は、彼の死によって大きく混乱し、関係者に不安を与えた。今までダヴィドを手伝っていたシエルはそこでもまた混乱を収めようと尽力した。改めて思うと、彼は本当にイレーナたちと強く関わりあっていたのだ。

「そうですね。ようやく落ち着いてきたというところでしょうか……」
「そう」
「私がまだ若いので本当に頼りになるのか信用されていない所があると思いますが、地道に頑張っていこうと思います」
「シエルなら、大丈夫よ」

 もっと彼を勇気付けたい。そう思っても、イレーナにはそう言うのが精いっぱいだった。不甲斐ないと思いながらも、優しいシエルはありがとうございますと微笑んでくれた。

「イレーナ様も、慣れないことで大変なのではないですか」
「私は……大丈夫」

 一人だったら、きっととっくに投げ出していただろう。だがずっとダヴィドを支えてきた執事や他の使用人たちが焦らぬようサポートしてくれている。だからなんとか、やっていけている状況だ。

「ダヴィド様が亡くなって、初めてあの人の大変さが分かった気がするわ」

 夫や父親としては問題のある人だったが、仕事を担う主人としては、彼は素晴らしい才能の持ち主であった。

(けれど仕事はこなせても、人間関係は上手くいかなかった……)

 ダヴィドがもう少し、マリアンヌのことを気にかけていたら……イレーナはそう何度も思ってしまう。

「もうすぐ、喪が明けますね」

 物思いに耽りかけたイレーナをシエルの声が呼び戻す。

(そうだわ。もうすぐ喪が明ける)

 広大な領地と遺産を持つイレーナのもとへ、再婚を申し出る手紙や殿方が大勢訪れることだろう。ダヴィドとマリアンヌのことをいつまでも引きずっているわけにはいかない。

「シエル。私、ノエルをこの屋敷で正式に育てることに決めたの」

 イレーナの決定にも、シエルは特に驚かなかった。自分が選ぶ道を、すでに彼は予想していたのかもしれない。

「正直、私は自分が母親になれるかどうか自信がない。……でも、乳母のアネットや、頼りになる使用人たちがこの屋敷にはいる。みんな、ダヴィド様の血を引いたノエルを愛している。だから、育てるのならばここがいいと、そう考えたの」

 イレーナはそこで一呼吸置いた。ここからが、本題であった。

「でも、私が母親になると言っても、あの子にはまだ父親がいない。あの子が幸せになるには、母親と父親の、両方が必要だと思うの」

 震えそうになる手を必死で抑え、シエルを真っすぐに見つめた。

「シエル。あなたに私と結婚してほしい。そしてノエルの父親になってほしいの」

 遠回しな表現などせず、はっきりと自分の要求を述べたイレーナに、さすがのシエルも目を見開いた。だがそれもすぐに落ち着いた様子で、一歩、イレーナに近づいた。緊張で、イレーナは視線を落としてしまう。

(急だったかしら……)

 相手は未亡人。しかも子持ちだ。そんな相手から突然、結婚し、父親になってくれと求められた。大抵の男ならば戸惑い、ちょっと考えさせてくれと答えるだろう。いや、この場で無理だと断られるかもしれない。いくらシエルが優しいからといって、今回ばかりは――

「シエル、ごめんなさい。いきなりこんなこと頼んでしまって。でも私は――」

 言いかけた言葉は、シエルに抱きしめられ、途切れてしまった。

「イレーナ様はやっぱりひどい方です」

 ひどい。彼の言葉に一瞬頭が真っ白になる。ノエルの父親になってくれという頼みは、シエルを傷つけてしまったのか。でも……だとしたらどうして自分はいま抱きしめられているのか。彼の気持ちがわからず、離れようとするイレーナをシエルはなぜかますますきつく抱きしめた。

「シエル。私……」
「私が今日言おうと思っていたことを先に言ってしまうだなんて」

 彼の言葉に驚いて、イレーナは顔を上げる。シエルは困ったようにイレーナを見つめており、その頬は薄っすらと赤く染まっていた。イレーナの心はまさか、という気持ちとかすかな高揚感が湧き起った。

「シエル。それはつまり……」
「一つ、約束してくださいますか」

 シエルの手が愛おしげにイレーナの頬を撫でた。

「約束?」
「ええ。ノエル様の幸せとは別に、イレーナ様自身も幸せになると」
「私自身も?」

 はい、とシエルは頷いた。

「それは……ノエルの成長に必要なことだから?」

 たしかに親が不幸だったら、子も幸せになるのを躊躇うかもしれない。イレーナの考えに、シエルはちょっと苦笑いした。

「たしかにそれもありますが、それだけじゃありません」

 シエルの手が、イレーナの頬を滑り、唇へと触れた。かつて伯爵と同じことをされた、戸惑いと嫌悪感、恐怖が支配した行為。

 だが今は、戸惑いこそあるものの、イレーナはまったく逆の感情を抱いていた。その先を望む自分がいた。シエルの目がどこか熱を持っているようで、落ち着かない気持ちに拍車をかける。

「私があなたを好きだからです。好きな人には、幸せになってほしいからです」
「シエル……」
「あなたがノエル様を大切にしていることは十分承知しております。それでも、だからといってイレーナ様の人生をすべて犠牲にしてほしくないのです。ノエル様の人生はあくまでも彼のものであり、あなたの人生はあなただけものだから」

『俺は今度こそ、おまえに幸せになってほしいんだ』

 兄と同じことを、シエルは言っているのだ。

「……ばかね」

 ぽすんとイレーナはシエルの胸に顔を埋めた。泣きそうな自分を見られたくなかった。

「私があなたに父親になってほしいと頼んだのは、あなたとこの先もずっと一緒にいたいから……あなたが好きだからよ」

 もちろんシエルが自分と違って、普通の家庭京環境で育ったからという理由もある。でも、それだけなら他にも当てはまる男性はたくさんいるだろう。

 一番の理由は、イレーナがシエルを好きになったからだ。

「あなたと、もっといろんな話がしたい……いろんな所に行ってみたい……あなたに似合う服を私も選んでみたい。そんな願望が、次から次へと湧いてくるの」

 潤んだ目で、イレーナはシエルを見上げた。

「あなたが私の隣にいてくれること、それが私の幸せなの」

 そう言って、自分からシエルの唇を奪った。空色の目が真ん丸と見開かれるものの、すぐに身をかがめ、イレーナに応えてくれる。好きな人との溶けあうような口づけは熱く、イレーナの頬に涙がこぼれ落ちていく。それすらも、シエルは愛おしげになぞってくれた。

「――ずっと、そばにいます」

 池のほとり、温かな日差しの中で、シエルはイレーナに約束する。それはイレーナの約束でもあり、幸せでもあった。

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