わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

文字の大きさ
11 / 116

11、王太子

しおりを挟む
 それから、ユリウスとどこかで顔を合わせると、お互い微笑み合い、行き先が途中まで同じであれば、話すようにもなった。

 彼は修道士でもあるからか、それとも根が紳士的であるからか、常にイレーネのことを気遣い、優しかった。おかげでイレーネはさほど緊張せず、親しみを持って彼と接することができた。

「王都はやはり華やか場所だな。おまけに食事も上手い。つい食べ過ぎてしまう」
「わかりますわ。でも、少し食べ過ぎてしまっても、騎士の方ならたくさん動いて、その分消費できると思いますけれど」

 ユリウスは笑って、なるほどと頷いた。

「だが我々は神に仕える身でもある。暴飲暴食はよくないとされているんだ」
「まぁ。そうでしたの。でしたら、他のみなさんも耐えていますの?」

 成人男性に質素な食事は辛いだろうとイレーネは同情した。

「いや、みんななんだかんだ言って肉や魚をたらふく食べている。他のことならば我慢できるが、食事だけはどうも……たまに規則通りの食事だけで終えることがあるんだが、そうすると決まって夜中に食べ物の夢を見てしまって、大きな音にハッと目が覚めるんだ」
「音?」

 こちらを振り返り、彼は悪戯っぽく目を細めた。

「そう。自分のかく腹の悲鳴でね」
「まぁ」

 イレーネはついその時の彼の姿を想像してしまい、笑みを零した。笑い事ではないとユリウスは真剣な顔をして言ったが、彼は絶対にイレーネを笑わせようとした。この前も、そういうことがあった。

(真面目な方だと思っていたけど……砕けた一面もおありなのね)

 イレーネがそんなことを考えていると、ユリウスはふと足を止めた。不思議に思って彼の横顔を見上げる。視線の先を辿ると、一人の貴族が数名の女性たちに囲まれて通り過ぎていくところだった。

「あと少しで、戦が始まるというのに……」

 聖戦だなんだともてはやされているが、貴族たちにとっては変わらぬ日常を送り続ける。その事実の一端を垣間見たユリウスの瞳は失望を隠しきれないようであった。

「私たちはこの戦いで聖地を奪還できれば、平和が我が国にもたされると信じている。だが時々、本当にそうなのか、ここにいるとわからなくなってしまうんだ」

 視線に気づいたイレーネの方を振り向き、ユリウスは寂しそうに微笑んだ。

 イレーネは彼の言った言葉が日を跨いでも忘れられず、繰り返し思い出してはあれこれと物思いに耽った。

「おや、見ない顔だね」

 だから見るからに高貴そうな雰囲気を纏った男性――この国の王太子、ヴィルヘルムに声をかけられるという隙を与えてしまった。いや、イレーネはきちんと端に寄って、彼が通り過ぎるのを待っていた。そして彼の両腕にはイレーネよりもうんと魅力的な女性が寄り添っていた。

 まさか声をかけられるとは思ってもいなかったのだ。

「顔を上げて、もっとよく見せてごらん」

 王太子にそう言われ、イレーネが逆らうことなどできない。

 おずおずと顔を上げれば、興味深そうに自分を見つめる金色の瞳とぶつかった。

「どこの子だろう? 最近入った子かな?」
「……グリゼルダ殿下に仕えております」
「ああ、あの子」

 なるべく顔を覚えられたくないと視線を下げれば、頬に触れられる。身じろぎしても、ヴィルヘルムは気にしたふうもなく、しげしげと眺めてくる。

「ほんのり垂れた目がいいね。あの子のもとにきみみたいな子がいるなんて知らなかったな」
「殿下」

 扇で口元を隠していた女性の一人が彼の耳元で何か囁く。嫌な予感がした。

「へぇ。あの男爵の……ディートハルトの婚約者か」

 イレーネを見つめる目が変わった。あの騎士たちと同じ、何かを征服しようとする目に。腰を屈めていたヴィルヘルムはスッと姿勢を戻した。そのままイレーネに興味を失ってくれればよかったが、彼はイレーネの腕を掴んで立たせようとした。

「来なさい」
「殿下。わたしは……」

 ヴィルヘルムは微笑んだ。

 きみに拒否権はない。そういう笑みだ。

 イレーネは真っ青になった。縋るように両脇の女性たちに助けを求める。だが彼女たちは面白げに――あるいは王太子の情けを授けてもらうことに嫉妬を覚え、何も言わずにイレーネを見るだけだった。

「さぁ、早く」

(そんな……)

 差し出された手を、自分は拒めない。この後王太子がどうするか。一つしかない結末にイレーネが絶望した時――

「あら、何をしているの。お兄様」

 眩い金色の髪を品よく垂らし、淡青色のドレスに身を包んだ女性が凛とした声で言い放った。

「おや、グリゼルダ」

 王太子の手が、スッと引っ込められる。グリゼルダはすたすたと歩み寄ってくると、ぴたりと兄の目の前で立ち止まり、ちらりとイレーネに目をやった。

「私の侍女に、何かご用で?」
「いいや。端に寄って俯いていたからね。具合が悪いのではないかと思って、声をかけただけよ」

 へぇ、とグリゼルダの目が細められる。彼女も扇で口元を隠しているぶん、目で雄弁に兄の主張が白々しいと訴えていた。

「私はてっきり、またお兄様の悪癖が出たのかと思いましたわ」
「悪癖とは、これまたひどい言い草だね」
「そうかしら。私の侍女はみな、お兄様の体調を心配されていたようですから」

 後ろに控えて居る侍女の顔が、全員強張った。

「それは僕ではなくて、父上に仕えている騎士たちじゃないかな」
「まぁ、そうでしたの。でも私はお兄様もだと思いますわ」
「そう。でも誰であれ、みんな善意で心配しているだけだよ」
「……では、善意で情けをかけたと?」
「もちろん」

 笑顔で言い切った兄に、グリゼルダは一瞬不快そうな、嫌悪の色を露わにした。だがすぐに諦めたように肩を竦め、もういいというように目を閉じた。

「お兄様と話していると、疲れてしまいますわ」
「そうか。なら部屋へ戻るといい。僕も用事があってね。もう行くよ」
「ご婦人方を戦の決め事に参加させるのですか」
「いいや。そういうのは父上の仕事だ。僕の仕事は花をめでるだけ」
「……そうですの」

 妹の目にも、王太子はにこやかに微笑むだけだった。

「ではね、失礼するよ。きみも、またね」

 王太子はイレーネに目をやると、青い目を細めた。

「ああ、そうだ。後でマルガレーテのもとへも行くから、その時にきみの婚約者にも会えるかもしれない」

 そうも付け加えると、じゃあねと背を向けた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』

鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」 華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。 王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。 そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。 レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。 「お願いだ……戻ってきてくれ……」 王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。 「もう遅いわ」 愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。 裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。 これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

夫が運命の番と出会いました

重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。 だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。 しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】捨てたものに用なんかないでしょう?

風見ゆうみ
恋愛
血の繋がらない姉の代わりに嫁がされたリミアリアは、伯爵の爵位を持つ夫とは一度しか顔を合わせたことがない。 戦地に赴いている彼に代わって仕事をし、使用人や領民から信頼を得た頃、夫のエマオが愛人を連れて帰ってきた。 愛人はリミアリアの姉のフラワ。 フラワは昔から妹のリミアリアに嫌がらせをして楽しんでいた。 「俺にはフラワがいる。お前などいらん」 フラワに騙されたエマオは、リミアリアの話など一切聞かず、彼女を捨てフラワとの生活を始める。 捨てられる形となったリミアリアだが、こうなることは予想しており――。

処理中です...