わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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29、逃げる

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 その後もハインツはイレーネが行ったことのない場所を案内してくれたが、彼女は午前中のように楽しむことができなかった。ハインツもそれに気づいたようで、どうかしたのかと尋ねてくる。

「疲れたか?」
「いえ……」

 はっきり理由を述べないイレーネに、ハインツも苛立ちを見せる。

「なんだよ。こんなとこ来ても、やっぱり楽しくないってことか?」
「そんなこと言ってません」
「じゃあなんで急に不機嫌になったんだよ」
「別に不機嫌になってなんか……」

 ただ――

(あなたが他の人と比べるから……)

 イレーネも、どうして自分がこんなに気にしてしまうのかわからなかった。言いたいことを上手くまとめられず、結果黙り込んでしまうイレーネに、ハインツも匙を投げたようにため息をついた。些細な行動の一つにまた傷つく。だけどそれは彼も同じように見えた。

「そんな顔するくらいなら、わざわざ来なくてよかったのに」

 無理矢理連れてきて悪かったな、と謝られて、イレーネは慌てる。

「違います。わたしは――」
「あら。ハインツ?」

 イレーネの言葉を遮ったのは、華やかな格好をした綺麗なご婦人たちだった。ハインツが懇意にしていた女性たちだとすぐにわかった。以前も、こういうことがあったから。あの時はハインツではなく、ディートハルトだったが。

「久しぶりじゃない?」
「あ、ああ……」
「ここのところめったに会いに来てくれなくなったんだもん。寂しかったわ」
「ほんと。また来てよ。他の子たちも寂しがってるわよ」
「いや、俺はもう」
「あら、そちらの方はどなた?」

 今やっと気づいたというように目を向けられ、イレーネはこれもまた懐かしい感覚だと思い出した。でも城にいた女性たちよりも演技がわざとらしくて、敵意が隠せないでいる子もいる。

 彼女たちの中で一番若くて綺麗だから、ひょっとすると本気でハインツに懸想しているのかもしれない。婚約者だとハインツの口から告げられた目を見て、間違いないとイレーネは確信した。

「ハインツ様。わたし、先に戻っていますわ」

 イレーネは笑みを浮かべながらそう言うと、ハインツを取り囲む女性たちに軽く頭を下げて失礼した。

 後ろから「あ、おいイレーネ! ちょ、離せって!」と言って、「いいじゃない」と引き留められるやり取りが途中まで聞こえたが、イレーネは足を止めなかった。

 ハインツの言う通り、やっぱり来なければよかった。自分みたいな人間は屋敷でじっとしていて、誰かが来るのを待っていればよかったのだ。

 イレーネは付き添いのメイドや護衛に帰ることを告げると、沈んだ心でとぼとぼと歩いていた。時間が経つと、ハインツを一人置き去りにしてきてよかったのかしら、と罪悪感のような気持ちがわいてくる。

(でも、あの場所にわたしがいたって……それにハインツ様だってあんな顔して……)

 イレーネは彼のことで振り回される自分に苛立ってもいた。今までの自分なら、別に気にしなかっただろう。ディートハルトにはそれ以上の酷いことをされて――

「ディートハルト!」

(え?)

 思わず立ち止まる。心臓が早鐘を打ちながら声のした方を見れば、目立たない色のマントに、フードをすっぽりと頭から被った少女が背の高い男の方を見上げて、何かを伝えていた。

 顔は見えないが、長いストロベリーブロンドの髪の毛はこぼれ落ちていた。そして男の方の顔は遠目からでもわかるほど整っていた。少女に微笑んでいる表情がすれ違う女性たちの視線を惹きつけている。

 イレーネもまた、呆然と突っ立ってその様を見ていた。

(そんな顔、するのね……)

 今まで自分が見た表情はいつも皮肉を込めた、どこか人を見下した嘲笑ばかりだった。あんな穏やかな顔もできるなんて知らなかった。あんな、愛おしくてたまらないというような目で――頭を強く殴られたような衝撃があって、何も考えられなかった。従者にどうしましたと声をかけられても地面に足が縫い付けられたように動けなかった。

 だが不意に、あの紫色の瞳がこちらの方を見ると、イレーネの拘束は解けた。そばにいた者の制止は耳に入らず、本能の従うまま駆け出していた。彼から逃げていた。

 半ば混乱したまま、何度も人にぶつかりながら、イレーネは逃げ続けた。どこへ向かうのか、一人で大丈夫なのかとか、そういうのは一切頭に浮かばなかった。ただディートハルトから遠ざかりたかった。

 でもどんなに走っても、ずっと彼が追いかけてくるような錯覚に陥る。今こうして逃げていても、もうすぐそこまで――

「イレーネ!」
「いやぁっ」

 パシッと手首を捕まえられ、イレーネは反射的に悲鳴を上げていた。暴れるように彼の手から逃れようともがいていた。

「ちょっ、落ち着けって!」

 ――だからその声がハインツのものだとわかった時、彼女は全身の力が抜けた。ハインツはずるずるその場に座り込もうとするイレーネにまた慌てたようで、しっかりしろと抱きとめた。

「なんだよ。ようやく見つけたと思ったら必死に逃げてるし、暴漢に遭ったみたいに驚かれるし」
「ご、ごめんなさい。わたし、てっきり……」

 怯えた顔をするイレーネに何か事情があると悟ったのか、ハインツは「とりあえず深呼吸しろ」と言い出した。抱きしめてきて、背中をぽんぽん叩いてくる。イレーネはそれで幾分落ち着きを取り戻し、もう大丈夫ですと小さな声で答えた。

「本当に?」
「はい」
「よし。じゃあとりあえずあいつらがいるところへ戻るか。その様子だといきなりはぐれて、向こうも焦ってるだろうし」

 つい先ほど気まずい別れをしたことも記憶から抜け落ち、イレーネは素直にこくりと頷いた。今はもうディートハルトのことでいっぱいだった。

 ……冷静になれば、別にディートハルトから逃げる必要なんてない。彼はもうイレーネの婚約者ではないのだから。マルガレーテの婚約者なのだから。

(あの様子だとお忍び来ているようだったから……わたしなんかに構っている暇はないのに)

 きっと見ても、知らぬ振りをするだろう。

 そう思っても、不安は消えない。

「おい、大丈夫か?」
「ええ。だいじょう、ぶ……」

 イレーネは視線の先、人混みに紛れてこちらへ近づいてくるディートハルトの姿に息を呑んだ。彼は何かを探しているようだった。

「おい。どうした?」

 ハインツはイレーネが見ている方を見て、目を丸くした。そしてすべて納得したようだった。

「こっちこい」

 イレーネを隠すように抱き寄せると、ハインツは勝手知ったる様子で路地裏へと入った。あまり清潔とは言えず、家庭や店で出たごみが散乱されており臭いもきつかった。

 しかしイレーネはそんなことよりもディートハルトの方が恐ろしくて、縋るようにハインツの服を掴み、ぴったりと身体を押しつけていた。

 イレーネが震えているのが伝わったのか、ハインツが自身のマントの中にイレーネを招き入れ、そのまま覆い隠すようにきつく抱きしめてくる。彼の匂いに包まれ、イレーネはただ固く目を閉じてその時が通り過ぎるのを待った。

「――よし。あっちに行ったみたいだ」

 しばらくして、ハインツがそう言った。

「イレーネ。怖い狼は、もういなくなったぞ」

 彼女は全身の力が抜けて、その場にずるずると座り込んだ。ハインツも一緒になって引きずられる。彼は足を開き、股の間に座っているイレーネの両頬を挟んで、自分の目を見るよう告げた。

「もう大丈夫だよ、イレーネ」

 その言葉になぜかぽろりと涙が零れた。一度流れた涙は堰を切ったように溢れ出す。ハインツは何も言わず、黙ってイレーネの涙を掌で拭い続け、やがてもう一度自分の腕の中に抱き寄せたのだった。

 まるで誰にも見つからないように。今ここにいるのは俺とおまえだけだというように。

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