わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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32、引き裂かれる

「どういうことですか」

 イレーネは混乱しつつも、父にそう聞き返していた。

「おまえとハインツの結婚はなしになった」
「そんな、突然どうしてっ……」

 動揺を露わにイレーネが理由を尋ねれば、父は鬱陶しい顔をしながらも教えてくれた。

「ハインツは罪を犯し、伯爵家の嫡男ではなくなる。あいつと結婚させても、何のメリットもない」
「罪? 一体どういうことですか」
「詳しいことは儂も知らん。だがいきなりあいつの弟が伯爵家の当主となることが決まったと伝えられた。ハインツは用済みでそちらで引き取ってもらってもいいと言ってきたから冗談じゃないと断ってやったんだ」

(ハインツ様の弟が……?)

 たしかに弟のアドリアンはハインツよりも優秀だと聞いていた。だが当主は先に生まれたハインツで決まっていたはずだ。最近の彼は生活態度を改め、跡取りとしての自覚も出てきたというのに、どうして今になって……

「とにかく。もうあいつがここへ来ても、おまえと会うことは禁ずる」
「そんな……急にそんなこと言われても納得できません。ハインツ様はわたしの婚約者です……!」

 娘がいつになく強気な調子で不平を唱えれば、父は苦々しい顔をした。

「儂は最初からあいつがおまえの婿になることは反対だった。他に目ぼしい相手がいないから渋々やつにしたが……やはり失敗だった。ディートハルトのように頭も切れんし、爵位だって落ちぶれかけた伯爵位でしかない。結婚しても、我が家には何の得にもならん」

 おまえも幸せにはならん、と言われてイレーネは言い返していた。

「ハインツ様はお優しい方です。たしかに、以前は軽薄なところがおありでしたが……でも、今は違うんです!」

 今までイレーネが父の決定に反発したことは一度もなかった。ディートハルトと婚約するよう言われた時も、素直に受け入れた。でも、今回は無理だと思った。

「お願いです。お父様。ハインツ様との結婚をお許しください」

 だが父は「馬鹿を言うな」とばっさり切り捨てた。

「ディートハルトならまだしも、あんな男に目をかけても余計な支出が増えるだけだ」
「今はお役に立つことができなくても、いずれは――」
「くどい」

 ぴしゃりと父は跳ね除けると、それ以上の言葉をイレーネに禁じた。

「おまえは儂の血を引くたった一人の娘だ。利をもたらす男でなければ認められん」

 どうして父はいつも損得勘定で物事を判断するのだろう。たまには情があってもいいではないか。

「まったく……こんなことになって、儂が一番損しておるわ。――いいか、イレーネ。次の結婚相手が見つかるまで、おまえは一歩も屋敷を出てはならん。食事もすべて、部屋でとるように」

 父はそう命じると、もう娘に構っている暇はないというように自分のやるべきことをやり始めた。

 イレーネは呆然としたまま部屋へ戻され、気づけば机の上に置かれていたペンダントを手にしていた。ハインツからプレゼントされた、彼と同じ瞳の色をしたペンダント……。

『イレーネ。おまえが好きだよ』

 彼女は顔をくしゃりと歪ませてその場に崩れ落ちると、肩を震わせて涙にかきくれた。

 こんなに泣いたのは、母のもとから引き離され、もう会ってはいけないと言われた日以来だろう。――いや、街でディートハルトに再会しかけた時も、泣いてしまった。

 だがあの時はハインツが慰めてくれた。他人に涙を拭ってもらったのは初めてだった。抱きしめてくれた腕の中でイレーネはとても安心を覚えた。

 でも、もうその人もいない。またイレーネの前から去ってしまった。ようやく安らぎを得られたと思ったのに理不尽に奪われた。

(どうしてこんなことになったの……)

 何がいけなかったの、とイレーネは何度もそう思ったが、誰もその問いに答えてくれる者はいなかった。

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