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42、善意
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ハインツはイレーネの必死の看病も虚しく、死んでしまった。イレーネはエミールと一緒にたくさん泣いた。そして一年が経った。
「お母さん。司教様のところで、勉強してくるね!」
「ええ。気をつけて行ってくるのよ」
「うん! お母さんもお仕事頑張ってね!」
家の外にはネリーの息子が迎えに来ており、二人で一緒に元気よく出かけて行くエミールの後ろ姿にイレーネはほっと息をついた。そして今まで何度思ったかわからないことを今日もまたしみじみ思う。
(あの子がいてくれて、本当によかった……)
エミールの無邪気で元気な姿に、イレーネは絶望している暇もなく、しっかりしなきゃと前を向いていられる。
振り返ってみれば、ハインツがゆっくりと死へ向かっていく姿に寄り添っている時が一番辛かった。助けてあげたくても、自分には何もできなかったからだ。
でも、イレーネは最期までハインツのそばにいた。彼も、最期まで生きようともがき続けた。だからこの苦しみが、大切な人の死にきちんと向き合えたという後悔のない気持ちにいつか変わってほしい……少しずつ、今はそう思って生きていくことができるようになった。
(それでもまだ、辛いけれど……)
ハインツはイレーネに忘れられることを恐れていたが、イレーネからすればこの喪失は一生誰にも埋められないだろうと思った。置いていかれる苦しみや悲しみは、ハインツにはわからない。この気持ちを彼にぶつけることも、もうできない……。
(いけない。また暗くなってる……!)
イレーネは自分の頬を軽く叩くと、よしと気合を入れた。ハインツに託されたエミールを立派に育て上げると決めたのだ。彼を想うのは、家へ帰ってきてからにしよう。
そう思い、イレーネは出かける準備をした。
「――イレーネ! あっちのテーブルの皿、下げといて!」
「はい!」
「イレーネ、ごめん! 今手離せなくて! 向こうのお客さんお願い!」
「わかりました!」
「イレーネ! これ、洗っといて!」
「はい!」
エミールが教会で他の子たちと一緒に勉強を習っている間、イレーネは町の食堂で働いていた。残っていた宝石はすべて換金してしまい、内職だけでは食べていけなくなったからだ。
「イレーネ。毎日大変だなぁ」
「一番下っ端だからってこき使われてるんじゃねぇかぁ?」
昼間から酒を飲んでいる男性たちにそう言われ、イレーネはテーブルの皿を手際よく片付けながらいいえと答えた。
「今の時間は目が回る程忙しいんですの。むしろ下っ端でもお役に立てる絶好の機会なんですよ」
「へぇ、そういうもんかい」
「イレーネ! 旦那が亡くなったんなら、俺ンとこ嫁に来いよ! おまえなら大歓迎だぜぇ!」
イレーネはいきませんときっぱり断った。こういう時曖昧な態度をとれば、よけいに相手を喜ばせるだけだと学習したのだ。
「アンタたち! 食べ終えたんならさっさと仕事に戻りな! 他の客が待ってるんだよ!」
店の主人であるおかみさんが眦を吊り上げてそう怒鳴ると、彼らはぎゃははひでぇと笑いながら店を出て行った。まったく、とおかみはため息をつくと、イレーネの方へ向き直り、先ほどまで浮かべていた鬼の形相を一転して心配な顔へ変えた。
「イレーネ。悪かったね。あいつらも素面の時は気遣いってもんが備わっているんだけど、酒のせいでポーンと抜けちまって……嫌な思いをさせちまった」
「いいえ、気になさらないでください」
それより今は接客の方を優先しなければならないと伝えれば、おかみは困った顔をしながらもそうだねと同意した。
「でも、今は無理でも、いつかはきちんとした人と再婚しな。アンタまだ若いんだから」
イレーネは曖昧に笑って、答えをはぐらかした。
仕事はいつもあっという間に終わる。イレーネは残ったまかないを持ち帰ることができて、嬉しく思った。エミールがきっと喜んで食べるだろう。
(今日は何を勉強してきたかしら)
早くあの子の元気な顔が見たかった。お母さんという声が聴きたかった。
「――イレーネ。今帰り?」
しかし浮かれた気持ちは、店の前で待っていた人物を見て一気にしぼんでしまった。
「ブルーノさん……」
ブルーノは家具職人で、イレーネの家の古くなった家具も新しく作り直してもらったりした。あの頃はまだハインツが元気で、多少の出費をしても二人で働いてなんとかなったから、家のあちこちを修繕したのだった。
『小さいベッドも最初は狭くて窮屈だって思ったけど、慣れると案外いいよな。おまえにくっついてられるし』
なんてことを言って、イレーネも照れながらそうかもしれないと答えて、だからしばらくはまだそのままにして、でもエミールが生まれると三人で寝たいと言い出したから……
「イレーネ?」
「あ……ええ、もう終わりです。ブルーノさんは? 今から休憩ですか?」
「いや、僕は……きみがそろそろ終わる頃だろうと思って、迎えに来た」
話がしたくて、と告げるブルーノの顔は緊張して真面目だった。だからこそイレーネは心苦しい気持ちになる。
「以前のお話ならば、お受けすることはできないとお答えしたはずです」
「きみがまだハインツを忘れられないということは十分よくわかっている。でも、まずは友人からでもいいんだ」
イレーネはかぶりを振った。
「わたしは誰とも再婚するつもりはありません。ですから友人としてお付き合いすることもできません」
余計な希望を与えて無理だと断るのは逆に残酷だとイレーネはあえて彼を突き放した。しかしブルーノはイレーネにそんな態度をとられても、諦めることはしなかった。
「イレーネ、僕は本当に本気なんだ……頼むよ。あの子も、僕が面倒を見てあげるから。きみ一人じゃ、大変だろう?」
「ごめんなさい、ブルーノさん。わたし、まだ用事があるので」
必死に自分に思いを伝えようとするブルーノを拒絶する罪悪感と少しの恐怖心が湧いて、イレーネは彼から逃げるように背を向けた。彼は名前を呼んだけれど、追いかけてくることはしなかったので、ほっとする。
ハインツが亡くなって、ブルーノにずっと好きだったと打ち明けられてもイレーネには困惑しかなかった。なぜハインツを失ったばかりの自分にそんなことを言えるのか、理解し難かった。
自分は誰とも再婚するつもりはない。一生、ハインツだけを愛して生きていく。
そう伝えても、周りは許してくれない。
女一人で子どもを育てるなんて無理だ。まだ若いんだから別の男と家庭を持った方がいい。
悪意ではなく、善意で再婚した方がいいと勧めてくる人たちの言葉の方が、ずっと胸に堪えた。
「お母さん。司教様のところで、勉強してくるね!」
「ええ。気をつけて行ってくるのよ」
「うん! お母さんもお仕事頑張ってね!」
家の外にはネリーの息子が迎えに来ており、二人で一緒に元気よく出かけて行くエミールの後ろ姿にイレーネはほっと息をついた。そして今まで何度思ったかわからないことを今日もまたしみじみ思う。
(あの子がいてくれて、本当によかった……)
エミールの無邪気で元気な姿に、イレーネは絶望している暇もなく、しっかりしなきゃと前を向いていられる。
振り返ってみれば、ハインツがゆっくりと死へ向かっていく姿に寄り添っている時が一番辛かった。助けてあげたくても、自分には何もできなかったからだ。
でも、イレーネは最期までハインツのそばにいた。彼も、最期まで生きようともがき続けた。だからこの苦しみが、大切な人の死にきちんと向き合えたという後悔のない気持ちにいつか変わってほしい……少しずつ、今はそう思って生きていくことができるようになった。
(それでもまだ、辛いけれど……)
ハインツはイレーネに忘れられることを恐れていたが、イレーネからすればこの喪失は一生誰にも埋められないだろうと思った。置いていかれる苦しみや悲しみは、ハインツにはわからない。この気持ちを彼にぶつけることも、もうできない……。
(いけない。また暗くなってる……!)
イレーネは自分の頬を軽く叩くと、よしと気合を入れた。ハインツに託されたエミールを立派に育て上げると決めたのだ。彼を想うのは、家へ帰ってきてからにしよう。
そう思い、イレーネは出かける準備をした。
「――イレーネ! あっちのテーブルの皿、下げといて!」
「はい!」
「イレーネ、ごめん! 今手離せなくて! 向こうのお客さんお願い!」
「わかりました!」
「イレーネ! これ、洗っといて!」
「はい!」
エミールが教会で他の子たちと一緒に勉強を習っている間、イレーネは町の食堂で働いていた。残っていた宝石はすべて換金してしまい、内職だけでは食べていけなくなったからだ。
「イレーネ。毎日大変だなぁ」
「一番下っ端だからってこき使われてるんじゃねぇかぁ?」
昼間から酒を飲んでいる男性たちにそう言われ、イレーネはテーブルの皿を手際よく片付けながらいいえと答えた。
「今の時間は目が回る程忙しいんですの。むしろ下っ端でもお役に立てる絶好の機会なんですよ」
「へぇ、そういうもんかい」
「イレーネ! 旦那が亡くなったんなら、俺ンとこ嫁に来いよ! おまえなら大歓迎だぜぇ!」
イレーネはいきませんときっぱり断った。こういう時曖昧な態度をとれば、よけいに相手を喜ばせるだけだと学習したのだ。
「アンタたち! 食べ終えたんならさっさと仕事に戻りな! 他の客が待ってるんだよ!」
店の主人であるおかみさんが眦を吊り上げてそう怒鳴ると、彼らはぎゃははひでぇと笑いながら店を出て行った。まったく、とおかみはため息をつくと、イレーネの方へ向き直り、先ほどまで浮かべていた鬼の形相を一転して心配な顔へ変えた。
「イレーネ。悪かったね。あいつらも素面の時は気遣いってもんが備わっているんだけど、酒のせいでポーンと抜けちまって……嫌な思いをさせちまった」
「いいえ、気になさらないでください」
それより今は接客の方を優先しなければならないと伝えれば、おかみは困った顔をしながらもそうだねと同意した。
「でも、今は無理でも、いつかはきちんとした人と再婚しな。アンタまだ若いんだから」
イレーネは曖昧に笑って、答えをはぐらかした。
仕事はいつもあっという間に終わる。イレーネは残ったまかないを持ち帰ることができて、嬉しく思った。エミールがきっと喜んで食べるだろう。
(今日は何を勉強してきたかしら)
早くあの子の元気な顔が見たかった。お母さんという声が聴きたかった。
「――イレーネ。今帰り?」
しかし浮かれた気持ちは、店の前で待っていた人物を見て一気にしぼんでしまった。
「ブルーノさん……」
ブルーノは家具職人で、イレーネの家の古くなった家具も新しく作り直してもらったりした。あの頃はまだハインツが元気で、多少の出費をしても二人で働いてなんとかなったから、家のあちこちを修繕したのだった。
『小さいベッドも最初は狭くて窮屈だって思ったけど、慣れると案外いいよな。おまえにくっついてられるし』
なんてことを言って、イレーネも照れながらそうかもしれないと答えて、だからしばらくはまだそのままにして、でもエミールが生まれると三人で寝たいと言い出したから……
「イレーネ?」
「あ……ええ、もう終わりです。ブルーノさんは? 今から休憩ですか?」
「いや、僕は……きみがそろそろ終わる頃だろうと思って、迎えに来た」
話がしたくて、と告げるブルーノの顔は緊張して真面目だった。だからこそイレーネは心苦しい気持ちになる。
「以前のお話ならば、お受けすることはできないとお答えしたはずです」
「きみがまだハインツを忘れられないということは十分よくわかっている。でも、まずは友人からでもいいんだ」
イレーネはかぶりを振った。
「わたしは誰とも再婚するつもりはありません。ですから友人としてお付き合いすることもできません」
余計な希望を与えて無理だと断るのは逆に残酷だとイレーネはあえて彼を突き放した。しかしブルーノはイレーネにそんな態度をとられても、諦めることはしなかった。
「イレーネ、僕は本当に本気なんだ……頼むよ。あの子も、僕が面倒を見てあげるから。きみ一人じゃ、大変だろう?」
「ごめんなさい、ブルーノさん。わたし、まだ用事があるので」
必死に自分に思いを伝えようとするブルーノを拒絶する罪悪感と少しの恐怖心が湧いて、イレーネは彼から逃げるように背を向けた。彼は名前を呼んだけれど、追いかけてくることはしなかったので、ほっとする。
ハインツが亡くなって、ブルーノにずっと好きだったと打ち明けられてもイレーネには困惑しかなかった。なぜハインツを失ったばかりの自分にそんなことを言えるのか、理解し難かった。
自分は誰とも再婚するつもりはない。一生、ハインツだけを愛して生きていく。
そう伝えても、周りは許してくれない。
女一人で子どもを育てるなんて無理だ。まだ若いんだから別の男と家庭を持った方がいい。
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