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49、お別れ
「おじいさまのところに行くの?」
「ええ、そうよ。お母さんと、お父さんの生まれ育った国。あなたのおじいさまとおばあさまもいらっしゃるの」
「へぇ!」
エミールが関心を持ってくれたことにイレーネはほっとしつつ、「それでね……」と続けた。
「もう、ここには戻ってこられなくなるかもしれないの」
「お家、帰れなくなるの?」
どうして、という無垢な瞳に胸が軋んだ。
「……おばあさまたちがね、あなたに会いたいと言っているそうなの。それで一緒に暮らすことにも、なるかもしれないから……」
ふうん、とエミールは机の上の鉛筆を転がした。息子は明日も変わらぬ日常を送ろうとしていて、今も司教から教えられた内容を復習していた。イレーネの選択は、そんな毎日をもう送れないことを意味している。
自分が選ぼうとしている道は本当に正しいのだろうか……もしディートハルトを選ばなかったとしても、いつまでも平穏な日々を送り続けることができるのだろうか……。
「お母さんも、会いたいの?」
「え?」
息子はじっと母を見つめてきた。
「お母さんも、おばあさまたちに会いたい?」
「……ええ、会いたいわ」
「わかった。じゃあ、ぼくも行く」
「エミール……」
エミールは椅子から飛び移るようにイレーネの胸に飛び込んでしがみついてきた。
「お母さんが行くなら、ぼくも行く」
だからおいていかないで、という息子の声が聴こえてくるようで、イレーネは強く抱きしめた。
「ええ、エミール。もちろんよ」
あなたがいれば、大丈夫だから。
イレーネはそう自分に言い聞かせるように思った。
イレーネたちが町を出るという話はあっという間に広がった。食堂での仕事もやめることになり、おかみさんにはたいそう驚かれたが、よかったじゃないとも言われた。
「ブルーノも真面目で悪くない男だけど、どうも嫉妬深くて独占欲が強いからね。あんたも断り続けるのが面倒だったでしょう」
どうやら彼女は彼のよくない面にもきちんと気づいていたらしい。それとも、イレーネが気づけていなかっただけだろうか……。
「あんたたち夫婦、本当はいいところのお坊ちゃんお嬢ちゃんだったんでしょう? あたしたち庶民みたいなのとつるむよりも、きちんとした人間と付き合っていく方がいいよ」
どこか突き放されたようにも感じたが、彼女に悪気はなく、同じ階級の者同士の方が上手くいくという助言でもあった。
「あの騎士様。何でもすごい方らしいじゃないの。うちで一番偉い司教様がぺこぺこ頭下げて相手していたそうだから、よっぽど偉い方なんだろうねぇってあちこちで噂になってるよ」
司教にはイレーネもハインツと駆け落ちしたばかりの頃、大変お世話になった。訳ありだった自分たちを正式な夫婦として祝福してくれたのも、彼のおかげだった。
だから、もしかしたら今回のことでも力を貸してくれるかもしれないと、イレーネは藁にも縋る思いで司教のもとへ足を運んだ。
しかし、結果はおかみの言う通りだった。彼はディートハルトのことを大変よくできた人物だと褒め称え、イレーネとエミールのことも幸せにしてくれる、ハインツもこれで安心できるだろう……とまで言われ、イレーネはもう何も言えなかった。
「しかもあれだけいい男ときたらねぇ……今頃町の女たちもみんなあんたと騎士様がどういう関係か知って、嫉妬に狂っている姿が目に浮かぶよ」
「わたしと彼はまだ……」
まだ、と言いかけてやめた。おかみが笑って、いいじゃないかと言った。
「ハインツもいい男だった。その男が惚れたあんたはいい女。いい女にまた別のいい男が惚れるのは当然ってもんだよ。自然の成行きなんだから、前の旦那に悪いなんて思う必要ないさ。むしろさっさと幸せになってくれた方が、あの世で旦那もほっとするんじゃないかね」
ハインツはそんなふうに思ったりしない。イレーネを一緒に連れて行きたいと言ってくれたのだから。
今も、幽霊でも何でもいいからイレーネの前に現れてそう言ってほしかった。
「――お嬢様。王都へ行かれるというのは本当ですか……」
「ネリー……ええ、本当よ」
そんな、とネリーは絶望したような、どうしてそんなことになったのか、と様々な感情が入り交じった表情をした。
「あなたには……あなたたち夫婦には本当に助けられた。感謝しても、感謝しきれない。本当に、今までありがとう」
「そんなお嬢様……わたしも、わたしもお供しますわ」
イレーネは微笑み、だめよと優しく断った。
「あなた、また妊娠したのでしょう? 二人も子どもがいて、夫もいる。王都に帰ることなんて、できないはずよ」
「でも……」
ネリー、とイレーネは彼女の手を握り、そっと顔を近づけて、彼女の額にこつんと触れさせた。
「遠く離れていても、もう会えなくてなっても、あなたの……あなたたち家族の幸せをずっと願っているわ」
「お嬢様……」
ぼろぼろと涙を流すネリーの頬を拭ってやりながら、イレーネは自分たちの家を彼女たち夫妻に譲り渡すことを告げた。家具もすべて、今後増える家族のために使ってほしいと。その代わり、ハインツの遺体が埋葬してある教会の墓地へ時々足を運んでほしいと頼んだ。もう、こちらへは頻繁に来られないだろうから。
いや、たぶんもう二度と帰って来られないだろう……。
(ごめんなさい、ハインツ様……)
ハインツのそばを離れるくらいなら、さっさと他の誰と再婚していればよかっただろうか。後悔しても、もうどうにもならなかった。
「ええ、そうよ。お母さんと、お父さんの生まれ育った国。あなたのおじいさまとおばあさまもいらっしゃるの」
「へぇ!」
エミールが関心を持ってくれたことにイレーネはほっとしつつ、「それでね……」と続けた。
「もう、ここには戻ってこられなくなるかもしれないの」
「お家、帰れなくなるの?」
どうして、という無垢な瞳に胸が軋んだ。
「……おばあさまたちがね、あなたに会いたいと言っているそうなの。それで一緒に暮らすことにも、なるかもしれないから……」
ふうん、とエミールは机の上の鉛筆を転がした。息子は明日も変わらぬ日常を送ろうとしていて、今も司教から教えられた内容を復習していた。イレーネの選択は、そんな毎日をもう送れないことを意味している。
自分が選ぼうとしている道は本当に正しいのだろうか……もしディートハルトを選ばなかったとしても、いつまでも平穏な日々を送り続けることができるのだろうか……。
「お母さんも、会いたいの?」
「え?」
息子はじっと母を見つめてきた。
「お母さんも、おばあさまたちに会いたい?」
「……ええ、会いたいわ」
「わかった。じゃあ、ぼくも行く」
「エミール……」
エミールは椅子から飛び移るようにイレーネの胸に飛び込んでしがみついてきた。
「お母さんが行くなら、ぼくも行く」
だからおいていかないで、という息子の声が聴こえてくるようで、イレーネは強く抱きしめた。
「ええ、エミール。もちろんよ」
あなたがいれば、大丈夫だから。
イレーネはそう自分に言い聞かせるように思った。
イレーネたちが町を出るという話はあっという間に広がった。食堂での仕事もやめることになり、おかみさんにはたいそう驚かれたが、よかったじゃないとも言われた。
「ブルーノも真面目で悪くない男だけど、どうも嫉妬深くて独占欲が強いからね。あんたも断り続けるのが面倒だったでしょう」
どうやら彼女は彼のよくない面にもきちんと気づいていたらしい。それとも、イレーネが気づけていなかっただけだろうか……。
「あんたたち夫婦、本当はいいところのお坊ちゃんお嬢ちゃんだったんでしょう? あたしたち庶民みたいなのとつるむよりも、きちんとした人間と付き合っていく方がいいよ」
どこか突き放されたようにも感じたが、彼女に悪気はなく、同じ階級の者同士の方が上手くいくという助言でもあった。
「あの騎士様。何でもすごい方らしいじゃないの。うちで一番偉い司教様がぺこぺこ頭下げて相手していたそうだから、よっぽど偉い方なんだろうねぇってあちこちで噂になってるよ」
司教にはイレーネもハインツと駆け落ちしたばかりの頃、大変お世話になった。訳ありだった自分たちを正式な夫婦として祝福してくれたのも、彼のおかげだった。
だから、もしかしたら今回のことでも力を貸してくれるかもしれないと、イレーネは藁にも縋る思いで司教のもとへ足を運んだ。
しかし、結果はおかみの言う通りだった。彼はディートハルトのことを大変よくできた人物だと褒め称え、イレーネとエミールのことも幸せにしてくれる、ハインツもこれで安心できるだろう……とまで言われ、イレーネはもう何も言えなかった。
「しかもあれだけいい男ときたらねぇ……今頃町の女たちもみんなあんたと騎士様がどういう関係か知って、嫉妬に狂っている姿が目に浮かぶよ」
「わたしと彼はまだ……」
まだ、と言いかけてやめた。おかみが笑って、いいじゃないかと言った。
「ハインツもいい男だった。その男が惚れたあんたはいい女。いい女にまた別のいい男が惚れるのは当然ってもんだよ。自然の成行きなんだから、前の旦那に悪いなんて思う必要ないさ。むしろさっさと幸せになってくれた方が、あの世で旦那もほっとするんじゃないかね」
ハインツはそんなふうに思ったりしない。イレーネを一緒に連れて行きたいと言ってくれたのだから。
今も、幽霊でも何でもいいからイレーネの前に現れてそう言ってほしかった。
「――お嬢様。王都へ行かれるというのは本当ですか……」
「ネリー……ええ、本当よ」
そんな、とネリーは絶望したような、どうしてそんなことになったのか、と様々な感情が入り交じった表情をした。
「あなたには……あなたたち夫婦には本当に助けられた。感謝しても、感謝しきれない。本当に、今までありがとう」
「そんなお嬢様……わたしも、わたしもお供しますわ」
イレーネは微笑み、だめよと優しく断った。
「あなた、また妊娠したのでしょう? 二人も子どもがいて、夫もいる。王都に帰ることなんて、できないはずよ」
「でも……」
ネリー、とイレーネは彼女の手を握り、そっと顔を近づけて、彼女の額にこつんと触れさせた。
「遠く離れていても、もう会えなくてなっても、あなたの……あなたたち家族の幸せをずっと願っているわ」
「お嬢様……」
ぼろぼろと涙を流すネリーの頬を拭ってやりながら、イレーネは自分たちの家を彼女たち夫妻に譲り渡すことを告げた。家具もすべて、今後増える家族のために使ってほしいと。その代わり、ハインツの遺体が埋葬してある教会の墓地へ時々足を運んでほしいと頼んだ。もう、こちらへは頻繁に来られないだろうから。
いや、たぶんもう二度と帰って来られないだろう……。
(ごめんなさい、ハインツ様……)
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