わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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51、真夜中の訪問者

(さっきの、どういう意味かしら……)

 いや、意味なんてないはずだ。

「おかあさん……?」

 寝台に横になったエミールは先ほどまで興奮できゃっきゃ騒いでいたが、今はもう目を開けているのも辛いというように瞼を重そうに瞬いた。

「何でもないわ。ほら、もう眠いんでしょう?」
「うん……ううん……」

 やがて穏やかな寝息を立て始めた息子に、イレーネはくすりと笑う。寝顔はハインツそっくりだった。

(ハインツ様……)

 ディートハルトの部屋へ行かなければならなかった。何をするつもりだろう。……想像はついたが、まさかと思う自分がいた。きっと何かエミールの前では話せないことをするために呼んだのだと、無理矢理自分を納得させようとしていた。

 ――だけど、もしそうでなかったら?

 今、自分が違うと思っていることを彼が望んでいるのだとしたら……――イレーネはどうしても行く気にはなれなかった。

(寝てしまったと、言おうか……)

 慣れない旅で疲れて、ずっと気を張っていて、横になったらうっかり寝過ごしてしまったと。もし大事な話だとすれば、明日、エミールが馬車で寝ている間に話してもらえればいい。

 そうだ。そうしよう。

 イレーネはすべてから逃げ出すようにエミールの隣で目を閉じた。眠れない、と思っても本当に疲れていたのか、すぐにうつらうつらし始めた。

 そしてどれくらい経っただろうか。ガチャリと扉の開く音でイレーネは目を覚ました。誰かが近づいてくる気配を感じて、一気に意識が覚醒する。

 今すぐにでも飛び起きて誰か確かめるべきだったのに、イレーネは恐怖と、恐らくその人物が一人しかいないということをわかっていたから、ただ死んだように寝ている振りをした。

 彼は自分のそばまで足音を極力立てずに近寄ると、顔を覗き込んでくる。突き刺さるような視線を全身で感じる。手の甲で頬にかかった髪を優しく払われる。耳元で、名前を呼ばれた。彼女は悪魔の囁きに聴こえて、必死で違うことを考えた。

 男の手がふっと遠のいた。イレーネは安堵した。これでもう大丈夫だ。だがそれは一瞬だった。ぎしりと寝台を軋ませ、男が上がってくる。横を向いていたイレーネを仰向けにさせると、跨って、お腹のあたりで結ばれている夜着のリボンを解こうと手をかけて――

「――なんだ。やっぱり起きていたのか」

 自身の手首を掴んだイレーネに、ディートハルトは笑うように言った。

「ディートハルトさま……これは一体、どういうことですか」

 身体を半分起こしたイレーネに、ディートハルトはそのままの体勢で答える。

「きみが俺の部屋へ来ないから、起こしに来た」
「……用事というのは、わたしを抱くことですか」
「そうだ」

 わかっていたが、いざ本人の口から聞かされるとイレーネは絶望した。

「今日は、やめていただけませんか」
「では、明日ならばいいのか」
「……正式に再婚するまでは、待ってほしいのです」

 ディートハルトは無理だな、とそっけなく答えた。イレーネは敗北しそうになる心を必死で励ます。

「わたしの望む通りに、と約束してくれたはずです」
「それはエミールに再婚することをいつ伝えるかはきみに委ねる、という意味での約束だ。抱かないとは言っていない」
「そんな……そんなの……」
「きみはいずれ公爵夫人となるんだ。拒む理由はない」
「でも……でも嫌なんです。お願いです。少しの間でいいんです。せめてこの旅が終わるまでの間だけでも……」

 ハインツだけの妻としていたいのだ。

「だめだ」

 イレーネの懇願をディートハルトは許さなかった。彼女は何か、何か彼の気分を変えられないだろうかと必死で考えた。

「あなたならば……一夜限りの相手をしてくれる女性が大勢いるはずです。そうなさっては、いかがですか」

 先ほどの食堂でも、身なりのよい婦人の視線を集め、実際に声もかけられていた。彼女は明らかに、そういうことをしてもいいという目でディートハルトを誘っていた。だから自分ではなく、他者を差し出して見逃してもらおうと思った。だが――

「イレーネ」

 気づけば押し倒され、ディートハルトの端正な顔がすぐ目の前にあった。射貫くように自分を見つめている瞳には怒りが込められていて、イレーネは息を呑んだ。

「俺が抱きたいのはきみだ。きみが嫌だというならば、ここで無理矢理事に及ぶまでだ」

 手首を押さえつけ、首筋に顔を埋めるディートハルトに、イレーネは待ってと言った。

「あなたの部屋に行きます……だから、ここではしないで……」

 ゆっくりとディートハルトが身を引き、寝台から下りた。イレーネはエミールの肌蹴た毛布を肩まで掛けなおしてやると、自分も床へと足をつけた。イレーネの行動が焦れったく思ったのか、ディートハルトは彼女を抱き上げる。

「あ、自分で歩けます」

 彼はイレーネの言葉を無視して、無言で部屋を出ていく。扉が閉まる瞬間、むにゃむにゃと幸福そうに寝ている息子の寝顔にイレーネは泣きそうになったが、どうすることもできなかった。

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