わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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70、違う存在

「イレーネ。あなた、ディートハルトに何か言った?」

 数日後。激務を終えて私室へ戻ってきたグリゼルダがそう問いかけてきた。イレーネが彼とのやり取りを打ち明けるべきか迷っていると、先にグリゼルダの方が「別に何でもいいんだけれどね」と話し始めた。

「反乱を鎮圧して土地を没収できれば、諸侯に分け与えることができて、その土地の人間を改宗させることもできるって、急に賛成の立場で周囲を説得し始めたから、何かよからぬことを考えているんじゃないかって気味悪くなったのよ」
「……彼に、もっと姫様の味方になってほしいと頼んだんです」
「ああ、それで」

 グリゼルダは理由がわかってほっとしたようだった。

「ああいう男が急にやる気を出すと、つい警戒してしまうのよね」

 何にせよ助かったわと言われ、イレーネは複雑な表情で女王のカップに茶を足した。

「なぁに。その浮かない顔は」
「いえ……」
「言いたいことがおありなら、はっきり言いなさい」

 イレーネは恐る恐る顔を上げ、思いきって尋ねた。

「姫様は、今の立場になられて後悔していますか」

 グリゼルダは優雅な手つきで茶を一口飲むと、「していないわ」とはっきり答えられた。

「なによ、その顔は。私が後悔しているとでも、おまえは思っていたの」
「そんなことは、ありません。ただ……」

 以前追いかけていた理想が消えてしまったと口にしていたから、てっきり女王に即位した今の状況を虚しく思っているのではないかと想像してしまったのだ。

「たしかに今の状況はとても大変よ。こんなものか、と思う自分もいる。女王になれたからといって、何でもかんでも自分の思い通りに事が進むわけではない。むしろ以前より縛られて窮屈さも感じる。……でもね、イレーネ。やっぱり欲しかったものを手に入れた瞬間は、最高だったの。もう後にも先にも、あの幸福は二度と味わえないでしょうね」
「……」
「それにね、自分が一番上というのは、いいものよ」

 グリゼルダは妖艶に微笑むと、いつかと同じように確信に満ちた口調で答えた。

「理想が消えたのならば、また作ればいい。すぐそばにあった存在が、自分が手に入れるべきものだと気づいたのならば、何度も追いかけ、また自分のものにしてしまえばいい。それが今の私にはできるもの」
「……何か、ほしいものができたのですか」
「ええ」

 イレーネはグリゼルダの笑みに、将来の伴侶だろうかとふと思った。

 今女王となった彼女のもとには、王配として、ひょっとすると女王を裏から上手く操ることができると邪な考えを持った男たちからの求婚が大勢舞い込んできている。

 その中にはもちろん他国の王族も含まれており、グリゼルダは自分の隣に立つ相応しい男をいつかは選ぶのだろう。

 彼女の相手が誰になるか――イレーネには想像もつかなかった。また、心のどこかではその中の誰も選ばない気がした。

「最初はとるに足らない存在でも、次第に気になって、気づけば何ものにも代え難い存在になっていた。私はこの国で誰よりも尊い存在であるはずなのに、ひどく愚かで、滑稽な存在に成り下がってしまっていた。――それでも、相手が手に入るならば、他人にどう思われようが、どうでもいいと思う自分がいる」

 若く美しい女王に心酔する人間は大勢いる。かつてグリゼルダの即位を支持した白の騎士団員は特にそうだ。

 団を解散させられて、今は側近中の側近として、日々の彼女を支えている者が多い。それは決して純粋な忠義心だけで成立するものではないと、そばで見ているイレーネにはわかった。

 しかしグリゼルダの方は、彼らをただの臣下としてしか見ていない。主君として、それは当然のことだ。だがもし……彼らの中に彼女の意中の相手がいれば、選ばれなかった彼らはどんな思いを抱くだろうか。

(彼女も彼も、彼らの気持ちはきっとわからない)

 グリゼルダとディートハルトは、似ている。苦労して手に入れたものが自分の思ったものと違えば躊躇なく捨てて、切り捨てられた人間のことなど歯牙にもかけない。

 そんな彼らと理解し合えると思うこと自体、無理な話なのかもしれない。

 ***

 ディートハルトの積極的な協力のおかげで、聖職者や諸侯たちの協力も得ることができて内乱は実に速やかに鎮圧された。

 無事に城へと帰還したディートハルトは会えなかった分を埋めるようにイレーネを激しく抱くと、久しぶりにまとまった休みがとれそうだからどこかへ出かけようと提案してきた。

「どこへ行きたい?」

 汗ばんだ肌を背中に感じながらイレーネは家へ帰ってゆっくりしたいと述べた。その答えが不満だったのか、彼は胸の飾りを弄りながら家にならいつでも帰れると言った。

「結婚して、まだ遠出もできていない」
「旅行なら、結婚するまでに済ませましたわ」
「きみと二人だけでどこかへ行きたいんだ……」

 今こうして二人で過ごしているのだから別にいいじゃないかと思ったが、ディートハルトは不満そうに頬や耳に口づけしてくる。

「わたしは家へ帰りたいです」

 振り向いたイレーネの顔をディートハルトはじっと見つめる。

「俺があの子たちと同じ年齢の時は、別に半年くらい会えなくても寂しくも何とも思わなかったぞ」

 イレーネはわかっているというように微笑んだ。

「わたしがあの子たちに会いたいんです」

 彼は黙ってイレーネを引き寄せると、額に口づけした。

「きみはそろそろ、子離れするべきだ」
「ええ、わかっています……だから、今だけはそばにいたいの」

 お願い、と甘えるように首筋や胸板に頬をすり寄せた。ディートハルトは結局、イレーネの言う通りにしてくれた。

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