わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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77、逃げない*

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「――これで、わかったでしょう」

 胸を大きく上下して、ディートハルトの甘い尋問に耐えたイレーネはそう告げた。口の周りを手の甲で拭いながら彼はイレーネを見つめる。

「部屋へ、帰りましょう」

 不貞の証はなかったのだから。起き上がったイレーネは寝台を下りようとしたがディートハルトに腕を掴まれた。そしてまたしても組み敷かれた。彼女は静かに彼を見上げた。

「ディートハルト様。ここではやめてください」
「なぜ。どうせ使う予定だったのだろう」

 ――ユリウスと。

「使っていません」
「でも、そういう雰囲気にはなっただろう」
「それは……」

 実際使用しなかったとしても、あり得たかもしれないという可能性がディートハルトには許せないらしい。

「……ここは、マルガレーテ様の寝室でしたのよ」
「そうだな。ここで彼女を抱いた」

 傷つき、失望するイレーネの表情をディートハルトはじっと見下ろした。彼はさらに残酷な事実を明かす。

「戦争に行く前夜、彼女の処女をこの寝台で散らした」

 その後にきみを抱いた。

「……あなたって、本当にひどい人だわ」
「ああ。でもきみだって、あの夜あの男に身を任せようとしたんじゃないか」

 ディートハルトはやっぱりイレーネがユリウスと会っていたことに勘づいていた。内心驚きながらもイレーネは首を振った。

「わたしはあなたと違う。あなたたちと一緒にしないで」
「同じさ」

 イレーネの頬を撫でながら、端正な顔が近づいてくる。避けようとしても、あの時と同じで無理矢理奪われる。ねっとりと舌を絡まされ、食事で口にしたと思われる葡萄酒の香りに酩酊しそうな心地になる。酸欠になりそうなところでようやく解放され、耳元で囁かれる。

「きみは今でもハインツを想っているくせに、俺に抱かれて喘いでいる」

 胸元を肌蹴られ、白い乳房が彼の手によってぐにゃりと形を変えられる。くにくにと指の腹で尖らせた頂を押しつぶされ、摘ままれると彼の言う通り甘い声で啼いた。彼は微笑んでイレーネの唇をそっと塞いだ。くぐもった声と、唾液の絡み合う音に涙が出た。

「彼女がいれば、他には何もいらないと思っていた。それくらい愛していた女と抱き合った寝台で、今度はきみが抱かれるんだ」
「最低だわ……」
「そう。でも、きみはこんな最低な男に逆らえない」

 俺からは逃げられない。

 そう宣言すると、ディートハルトはいつものように――いつもより激しくイレーネを抱いていく。元妻の寝台で情事に耽る状況が興奮するのか、またはイレーネとユリウスとの関係に嫉妬したからか、わからないが、彼はイレーネを何度も絶頂に導き、同じくらい精を吐き出した。

 マルガレーテの寝台はぎしぎしと音を立てて軋んで、真っ新なシーツには結合部から溢れ出した愛液が染みを作り、獣のようにまぐわう姿がタペストリーの飾られた壁へと映し出される。

 仰向けから四つん這いにさせられ、力が抜けてシーツに沈み、後ろから抱きしめられ、胸を揉まれて、一つに繋がったまま、イレーネはディートハルトに好きだと言われる。

「可愛いよ、イレーネ……きみがかわいくて、仕方がない……」

 その言葉を聞いた瞬間、イレーネはディートハルトに対して憐れむ気持ちが湧いた。

(そんなこと言っても、意味、ないのに……)

 どんなにハインツと同じ抱き方をしても、どんなに同じ言葉を告げられても、何も響いてこない。ディートハルトはハインツではないから。ハインツだからこそ、イレーネは嬉しかったのだ。

 彼の代わりは、誰にもできない。ディートハルトにも、絶対に無理なのだ。

「はぁ、ぅ、んっ、んぅ、」
「ああ、また締まった……きみは本当に、淫乱だ」

 でもディートハルトもイレーネのそんな気持ちを見抜いている。だから徹底的に支配しようとしてくる。まずは身体から陥落して、その次に心を奪おうとしている。

 だが、それも彼にはできないだろう。

 心だけは、イレーネのものだ。そして、ハインツのものだ。

『――ハインツ様。わたしは確かに、将来誰かのものになるかもしれません。でも、心はあなたのものです。あなただけに、捧げます』

 ハインツにそう誓ったのだ。

「気持ちいいか、イレーネ……っ」
「あぁっ、はいっ、きもちいい、んんっ、いく、またいっちゃうっ……」

 逆らえないなら、逃げられないなら、もう諦める。一生彼に従順でいよう。

 イレーネは弱い存在だ。誰かに寄りかからなければ、生きていけない。相手に従うしかない。たぶん、どんな相手でも同じような態度をとっただろう。それは節操のない、意思の弱い人間だと非難されるかもしれない。

 だが一方で、それもまた一つの強さだと今のイレーネは思う。支配されることに慣れていく強さは、心の平穏に繋がっていくから。

「ああ、イレーネ、俺も、もうっ――」
「あぁぁっ――」

 ディートハルトはイレーネの心まで塗り替えられると思っているみたいだが、恐らくそれは不可能だ。むしろ抱かれるたびに、ハインツを忘れたくないと、忘れられないと心に強く刻みつけられていく。彼を想い続ける心は誰にも侵すことはできない。

 いっそのことイレーネの心を壊してしまった方が、ディートハルトの望み通りに演じるだろうに……それでは意味がないときちんとわかっているあたりが、近頃は不憫にも思う。

「イレーネ……俺はきみを離さない……きみは一生、俺のそばにいるんだ……」

(ああ、今のは彼自身の言葉だ……)

 再会してからイレーネはディートハルトを強く憎んでいた。でも両親が亡くなった時にそばにいてくれたことも、エミールの後継者問題で強い後ろ盾になってくれたことも、事実だ。そんなの恩を売っているだけだと、突っぱねて強がり続ける図々しさはイレーネには持てなかった。だって彼がいなかったら、きっと何もできなかっただろうから。

 でも、完全に恨みが消えたわけではない。思い出したように、裏切られた時の苦しみが胸に蘇る。だが、長続きはしない。そうした感情にぐるぐる振り回されることも含めて、ディートハルトに支配されている。

「イレーネ……イレーネ……」

 身体を押しつぶされ、根本までずっぽりと萎えない陰茎を挿入され、ディートハルトはまたイレーネの子宮に子種を蒔こうとする。いまだ自分たちの間には子どもができなかった。

 以前体調が悪くなって薬を飲もうとした時、ちょうどディートハルトが部屋へ入ってきて、ものすごい勢いで取り上げられたことがある。何の薬かと詰問され、避妊薬ではないと説明しても没収された。

 あんなに抱かれて注がれているのに……ちっとも実を結ばない事実に、近頃の彼は焦れているようだった。

 他にも……白濁を注ぎ終わったあと、いつからか平らな腹を撫でてくるようになった。今も――

「ディートハルトさま、もぅ、だめ……はいらない。あふれて、おなか、いっぱい……」
「だめだ。まだ、残さず全部、飲み込むんだ」
「あぁ、ぁぁあ……」

 実を結べと念じるようにきつく抱きしめられる。熱い飛沫が中にどくどくと長く、吐き出される。

 ディートハルトの執念を感じるが、イレーネはそこまで彼との子を強く望んでいなかった。むしろ自分たちの子ができたことで――その子が男の子だった場合、ヨルクの立場が不安定になるくらいならば、欲しくないと思っている。

 エミールとヨルクがいるのだから、それで十分だった。

「あっ……ディートハルトさま、また……」
「はぁ、きみが、締めつけるから……」

 一度捨てられた恐怖は簡単には消えない。あんなに愛していたマルガレーテすら彼はあっさりと捨てたのだ。イレーネだって、また同じ運命を辿るかもしれない。そうなれば生まれた子も、道連れになってしまう。

「イレーネ……逃がさない。きみが手に入るまで……」

 だからずっと、逃げ続ける。ディートハルトも、今のところは、ずっと追いかけ続けるだろう。もしこの先、心まで完全に明け渡してしまったら……その時、自分は自分のままでいられるだろうか。それは今の自分と同じだろうか……。

「――イレーネ。明日にはもう、屋敷へ帰ろう」

 もう腕を上げる力もないイレーネを愛おし気にディートハルトが抱え込む。啄むように額や目尻に口づけを落とされ、恋人同士のような親密な触れ合いなのに、どこか寒々しい思いになる。

「やっぱり、屋敷に帰らせればよかったな……ここにはきみを狙う人間が大勢いる……だが、きみが帰ってしまえば今より会えなくなるのが辛い……」
「……」

 彼を見ていると、まるで愛し方を知らない獣を見ている気になる。イレーネよりずっと強くて恐ろしい存在なのに、どこか歪で欠けている人間……

(きっとこの人は、一生このままなんだ……)

 たとえマルガレーテが自分の思い描く理想とは違っていたとしても、それまで心の支えになっていたのは変わりないのに……諦めて一緒に過ごしていけば、いつかはかけがえのない存在に変わっていたのかもしれないのに……そんなこと、すべて意味がないと彼は切り捨ててきた。非道で傲慢な、でもそうならざるをえなかった人生を彼は歩んできたのだろう。

 ふと、ハインツの言葉を思い出す。

『――イレーネ、俺にはわかるんだよ……きっとおまえは他の男に奪われる……だっておまえは俺みたいなクズでも見捨てず、一緒に生きる道を選んでくれた……どんな化け物じみたやつだって受け入れてくれる懐の深さがあるから……だから、きっと奪いにくる……俺じゃあ、敵わないくらいの恐ろしい男がおまえを……』

 いつか、ハインツの言う通りになるのだろうか。諦めて、歪な姿をすべて受け入れるのだろうか。でもそれは、果たして愛と呼べるのだろうか……。

「イレーネ……俺はきみが……」

 イレーネはそんなことを思いながら、ディートハルトの口づけに応えるのだった。

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