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50.揺れる心

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「王宮の外へ出て怪我人を治すのですか」

 国王陛下に呼び出されたナタリーは、突然の申し出に困惑を隠せなかった。

「うむ。そなたの力は真に素晴らしい。だから他にも病や怪我で苦しんでいる者をどうか救ってやって欲しいのだ」

 これまでどうやって患者が決められてきたか、ナタリーはわかっているつもりだ。そこには逆らえない身分の差があり、金が動いている。だから今回の国王の頼みは、少々予想外でもあった。

「陛下は我が国の民を救おうとおっしゃるのですね?」

 聖女の問いかけに、国王は慈悲深い笑みを浮かべて頷く。

「もちろんだ。民あってこそ、今の私たちが成り立っている。苦しんでいる者がいるのならば何とかしてやりたい。だが私には病人を治す力はない。……だからどうか聖女よ、王家に力を貸してはくれまいか」
「陛下……」

 ナタリーはしばし呆然としていたが、すぐに頭を低く下げた。

「神に多くのひとを救いなさいと言われました。ですから陛下がおっしゃったことは、きっとわたしの果たすべき務めの一つなのでしょう」
「では」
「はい。謹んでお受けいたします」
「おお、聖女よ!」

 この時ナタリーが顔を上げていれば、国王がどんな顔をしていたか見ることができただろう。あっさりと承諾の意をもらってほくそ笑む表情も、そばに控えて居る臣下たちと顔を見合わせて満足そうに頷き合う仕草も、すべて知ることができただろうが――ナタリーが気づくことはなかった。

 善良な彼女は国王の言葉に感銘を受けていた。自分だけではなく、彼にも国王という重い責務がある。逃げずに果たしたいと望んでいる。自分だけが悲嘆に暮れるのは間違いだ。

(わたしも多くのひとを救いたい)

 神からの命令ではなく、自分の意思で。

***

「ナタリー。どうか気をつけて下さいね」

 出立の前日。ナタリーはアリシアに呼ばれて激励の言葉をかけられていた。華やかで上等なドレスに身を包んだ王女は相変わらず美しく、自分よりもはるかに遠い存在だと突き付けられた気がした。

「ありがとうございます。王女殿下」
「お礼を申し上げるのはこちらの方だわ。あなたのおかげで王家は救われるのだもの」

 民ではなく王家という言い方に引っかかりを覚えたが、ナタリーは沈黙を貫いた。アリシアは扇で口元を隠したまま、聖女の後ろへと視線をやる。

「オーウェン。あなたもナタリーの護衛騎士として立派に役目を果たしてちょうだい」
「はっ、私の命に替えても聖女様もお守りいたします」

 オーウェンの忠誠がナタリーには苦しかった。彼には付き添いを固辞するよう言ったのだが、頑なに首を縦に振ろうとしなかった。

『ナタリー。最初は王女殿下からの命令であったが、今は俺の意思でおまえを守りたいと思っている』

「ふふ。おまえの忠誠心は立派だわ。わざわざお父様に願い出るくらいだもの。なにか特別な想いでもあるのかしら」

(やめて)

「ナタリーは私の幼馴染でもあります。守りたいと思うのは当然のことです」
「そう。羨ましいわね」

 ね、リアン。

 アリシアのすぐ後ろに控えて居た彼は、視線を落としたままはいと頷いた。

「私も同じ騎士として、殿下に忠義を尽くしたいと思っております」

 王女殿下の護衛騎士として、当然の答えである。それでもナタリーは胸が痛んだ。そんなこと聞きたくないと思った。

(リアン……)

 かつて彼と自分が婚約者であり、愛を誓い合った者同士など、誰が信じるだろうか。

(彼はもう、わたしの騎士ではない)

 裏切られたという思いがどこかにあって、聖女である自分がなぜ? と問いかける。だってナタリーからリアンを突き放したのだ。それを今さら後悔するなんてあまりにも勝手な話である。矛盾している。

(わたしが聖女などというならば、心など与えなければよかったのに)

 ただひたすら他者を救う心だけ与えればよかった。誰かを妬ましく思う気持ちなど必要なかったのに。

(国王陛下からお話をいただいた時は、自分のすべきことがはっきりと見えた気がしたのに……)

 リアンの存在を近くで目にして、動揺する自分がいる。聖女でなかった頃の、ただのナタリーが表に出ようとする。

(これも乗り越えるべき運命ということなのかしら……)

 嫉妬という醜い感情から解放された時、初めて聖女という神に近い存在になれることを許されるのだろうか。

「お互いに頼もしい騎士が守ってくれて、幸せなことね、ナタリー」
「……はい、王女殿下」

 だとしたらそれは一体いつになるのだろうとナタリーは思った。

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