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31、熱
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屋敷へ戻ったブランシュは風邪を引いた。幸い一日で良くなったが、その間マティアスは無理をさせた自分に責任があると言いたげな顔でブランシュにつきっきりで看病しようとした。
着替えまで手伝おうとするので、さすがにブランシュは部屋から追い出し、早く治さねばと思った。そのおかげかどうかわからないが無事に治った。しかし今度はブランシュの風邪をもらったのか、マティアスが床に臥してしまう。
今まで滅多に風邪を引いたことがないと言っていた彼は、それゆえ辛そうに呼吸をして、顔を真っ赤にさせていた。ブランシュはひどく動揺してしまい、マティアスと同じように四六時中彼のそばについて、額に載せられた布を定期的に取り替えてやり、背中を支えて水を飲ませ、温かいスープをスプーンで掬って彼の口元まで運び、汗をかいた彼の身体を拭くなど……すべて自ら進んでやった。
「貴女がそんなこと、しないでいいですから……」
そう言ってマティアスはブランシュを遠ざけようとしたが、彼女は無視した。
「あなたもわたくしに同じことをしてくれたでしょう」
なぜ自分がしてはいけないのか。
「貴女は、王女で……」
「……わたくしはもう、王女ではないわ」
降嫁しているのだから、本当は殿下と呼ばれるのは相応しくない。
(あなたや周りは認められないから、そう呼んでいるんでしょうけれど……)
ルメール公爵夫人と呼ばれたことが、目が覚めてから未だに一度もないのがその証拠だ。
「せめてこういう時くらい、わたくしを頼って……」
妻の真似事をさせてくれとブランシュは呟く。薬の副作用で眠いのか、マティアスは目をしきりに瞬き、抗うようにブランシュを見つめる。けれどしだいにゆっくりと抵抗をやめて眠りに落ちていく。その際に何か言ったようだったが、小さくて聞き取れなかった。彼女は毛布を肩までかけてやり、はみ出していた腕を戻してやる。
「……知らなかったわ」
瞼を閉じたマティアスの顔を見ながらブランシュは言葉にする。
「病気の人間を看病するのって、とても大変なのね……」
知らなかった。
「あなたが苦しむ姿を見ていると、わたくしまで辛くなったの……」
たかが風邪だと言われても、ひょっとしたら深刻な病で、死んでしまうのではないかとさえ思ってしまった。
「お父様も、こんな気持ちだったのかしら……」
父だけでない。早くに亡くなった母も、それから母親代わりに育ててくれた乳母のイネスも、いつの間にか険悪になってしまった兄のジョシュアも、今のブランシュのような気持ちを抱いて優しく接してくれたのだろう。それなのに彼女は……
「ありがとう、って思えなかったの」
上手に思いを返すことができなかった。
「熱に浮されている時ね、懐かしいって思ったの。ああ、この感じ、昔も味わったな、って」
大丈夫とか、頑張れとか、可哀想とか、そういった言葉をたくさんかけられた気がする。もどかしかった。少し動けば、すぐにきつくなって、熱が出て、寝台の上に引き戻される。見慣れた天井の景色。薬品の匂い。白いシーツに、窓際やテーブルに飾られた薔薇は血のように赤く、美しい花は生きる象徴に見えた。
「周りがせかせか動いているのに、わたくしだけはベッドの上に縛り付けられている。みんなはそんなブランシュを可哀想って言ってくれるけれど、この苦しみは誰にもわかってもらえない……そんなふうに、思っていたんだわ」
熱で朦朧としたせいか、記憶の一部が蘇った。けれどそれは本当に一部で、戻ってもブランシュは自分ではない、他の誰かの記憶のように思えた。
「でもね、彼女の苦しみはわかるの……わかりたくないのに、共感するの……」
自分のことだから当然だが、ブランシュは切なく、悲しかった。そして怒りもあった。
(どうしてわたくしは……)
ブランシュはぎゅっと手を握りしめ俯いた。
着替えまで手伝おうとするので、さすがにブランシュは部屋から追い出し、早く治さねばと思った。そのおかげかどうかわからないが無事に治った。しかし今度はブランシュの風邪をもらったのか、マティアスが床に臥してしまう。
今まで滅多に風邪を引いたことがないと言っていた彼は、それゆえ辛そうに呼吸をして、顔を真っ赤にさせていた。ブランシュはひどく動揺してしまい、マティアスと同じように四六時中彼のそばについて、額に載せられた布を定期的に取り替えてやり、背中を支えて水を飲ませ、温かいスープをスプーンで掬って彼の口元まで運び、汗をかいた彼の身体を拭くなど……すべて自ら進んでやった。
「貴女がそんなこと、しないでいいですから……」
そう言ってマティアスはブランシュを遠ざけようとしたが、彼女は無視した。
「あなたもわたくしに同じことをしてくれたでしょう」
なぜ自分がしてはいけないのか。
「貴女は、王女で……」
「……わたくしはもう、王女ではないわ」
降嫁しているのだから、本当は殿下と呼ばれるのは相応しくない。
(あなたや周りは認められないから、そう呼んでいるんでしょうけれど……)
ルメール公爵夫人と呼ばれたことが、目が覚めてから未だに一度もないのがその証拠だ。
「せめてこういう時くらい、わたくしを頼って……」
妻の真似事をさせてくれとブランシュは呟く。薬の副作用で眠いのか、マティアスは目をしきりに瞬き、抗うようにブランシュを見つめる。けれどしだいにゆっくりと抵抗をやめて眠りに落ちていく。その際に何か言ったようだったが、小さくて聞き取れなかった。彼女は毛布を肩までかけてやり、はみ出していた腕を戻してやる。
「……知らなかったわ」
瞼を閉じたマティアスの顔を見ながらブランシュは言葉にする。
「病気の人間を看病するのって、とても大変なのね……」
知らなかった。
「あなたが苦しむ姿を見ていると、わたくしまで辛くなったの……」
たかが風邪だと言われても、ひょっとしたら深刻な病で、死んでしまうのではないかとさえ思ってしまった。
「お父様も、こんな気持ちだったのかしら……」
父だけでない。早くに亡くなった母も、それから母親代わりに育ててくれた乳母のイネスも、いつの間にか険悪になってしまった兄のジョシュアも、今のブランシュのような気持ちを抱いて優しく接してくれたのだろう。それなのに彼女は……
「ありがとう、って思えなかったの」
上手に思いを返すことができなかった。
「熱に浮されている時ね、懐かしいって思ったの。ああ、この感じ、昔も味わったな、って」
大丈夫とか、頑張れとか、可哀想とか、そういった言葉をたくさんかけられた気がする。もどかしかった。少し動けば、すぐにきつくなって、熱が出て、寝台の上に引き戻される。見慣れた天井の景色。薬品の匂い。白いシーツに、窓際やテーブルに飾られた薔薇は血のように赤く、美しい花は生きる象徴に見えた。
「周りがせかせか動いているのに、わたくしだけはベッドの上に縛り付けられている。みんなはそんなブランシュを可哀想って言ってくれるけれど、この苦しみは誰にもわかってもらえない……そんなふうに、思っていたんだわ」
熱で朦朧としたせいか、記憶の一部が蘇った。けれどそれは本当に一部で、戻ってもブランシュは自分ではない、他の誰かの記憶のように思えた。
「でもね、彼女の苦しみはわかるの……わかりたくないのに、共感するの……」
自分のことだから当然だが、ブランシュは切なく、悲しかった。そして怒りもあった。
(どうしてわたくしは……)
ブランシュはぎゅっと手を握りしめ俯いた。
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