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始まりの街のヴィヴィと勇者さま

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 泣き声が聞こえる。
 カンカンと激しく鳴り響く警告の鐘の音。
 ヒリヒリと肌を突き刺す悲しい叫びと、ビリビリと空気を震わせるほどの怒号。
 そしてそれらすべての絶望を押しつぶすほどの、耳をつんざく咆哮。

「誰か、助けて!」

 絶望に濡れたそんな叫びが、街中にあふれている。
 魔物を防ぐための高い壁は翼を持つ魔竜には意味がなく、砲撃を恐れてか砲台ごと壁の一部が脆くも崩されていた。
 今は魔竜の存在に怯えて近づいてこないが、周囲の森から魔獣が侵入してくるのも時間の問題である。

 非常時に市民や子供といった非戦闘員は神殿に逃げ込む決まりがあるので、ヴィヴィは早々に避難していた。
 次第に集まってくる住民で、神殿の中も庭も人でギュウギュウ詰めである。
 街の騎士団や自警団が魔竜を食い止めてくれると信じてはいたが、それでもやっぱり怖かった。
 時折聞こえる魔竜の咆哮に、身体の震えが止まらない。

「人が竜に敵うものか」

 近くで落ちた小さなつぶやきを、ヴィヴィの耳は拾った。
 隣を見上げると、一緒に逃げてきた男は魔竜のいる方向を見ていた。
 常日頃は無口で淡々とした印象のある男が初めて見せた、触れたら切れそうな鋭い空気にヴィヴィは目を見張る。

「竜ってそんなに強いの?」

 半年ほど前にふらりと街にやってきて、浮浪者のようなありさまで路地裏に住み着こうとした男だった。その場所が親から譲り受けた宿のちょうど裏側だったので、営業妨害だと言って住み込み従業員として雇ったのである。
 名前すら知らないが、男が話す気になるまではそっとしておこうとあえて聞くこともなかったので、いまだに名無しと呼んでいた。
 茶色の髪はボサボサで整えることもなく、目が隠れているから瞳の色すら定かではなく、顔立ちもはっきり見せないので年齢不詳の男ではあるが、おそらくはヴィヴィとそう変わらない。
 人間不信の気があるのか他人に気を許さず奥向きの仕事を淡々とこなし、ヴィヴィにも必要以上に近づいてこなかった。
 それがかえって信用に繋がっていたし、名無しは黙る事はあっても下手な言い訳や嘘を言わないので、その彼のいつもと違う様子が現状の恐ろしさを加速させる。
 チラリと自分の方へ顔を向けた男に、ヴィヴィはジッと視線を向けた。

「強い。普通の武器では傷ひとつつかない。騎士団は討伐ではなく、市民の退避に人員を裂くべきだろう」

 そう、とヴィヴィはうなずいた。
 それなら早々にこの街は終わってしまうだろう。
 街の外に逃げても、受け入れてくれる安全な場所なんてどこにもない。
 むしろ結界もなく、三年も持ちこたえられたのが不思議なのかもしれない。

 神に選ばれ、大神殿の大岩に刺さっていた剣を抜き、数多の魔物を屠った勇者はもういないのだから。
 封印から解き放たれた邪竜を討ったそののちに、褒賞を与えると呼び出した王家に誅殺されたのだ。
 王家は隠し通す気だったらしいが勇者を排した直後に、天から神の声が響いて国中の街々を守っていた結界のすべてという多大な恩恵が失われてしまった。
 王国にとどまらず、人類の愚行として歴史にも刻まれる出来事だった。

 もしも、夕刻までに魔竜が気まぐれで立ち去っても、今でもギリギリで侵入を防ぐのが精いっぱいである騎士団や自警団は疲弊してしまい、夜に来る魔獣に対応はできないと思われる。
 神殿の地下に籠城しても、結局は地上に出るきっかけすらつかめないだろう。
 そう思ったら震えが止まり、妙に割り切れてしまった。

「そっか、なら仕方ない。残念だなぁ、母さんの遺してくれた花嫁衣装、着たかったなぁ」
「着るだけなら、相手などいなくても、いつでも着れただろう」
「そうね、着てくればよかった。今なら名無しが居るし」

 あははっと笑うヴィヴィに、名無しは絶句しているようだった。
 しばらくの間、挙動不審で何かを言いかけ、口ごもり、その後で両手で顔を覆った。
 なにげに名無しの耳が赤いので、ツン、と肘でヴィヴィは小突いた。

「照れないでよ、恥ずかしい」
「からかうなよ、俺も男だぞ」
「え? 知ってる。からかうほど、今、余裕ないし」
「なんでまた……物好きすぎるだろう」

 二十歳すぎる頃に両親を病で相次いで失くし、自分一人で切り盛りするにも失敗続きで、限界が近づいていたあの日。
 路地裏に光を見たのだ。
 ボロボロで、薄汚くて、何の希望もない様子で座り込む名無しが、なぜか光輝いて見えた。
 その光はとても優しくて、清廉で、手を伸ばせと何かがささやいてくるようで、神の恩恵だと思い自宅に引き入れた。
 近所のものには散々不用心だと言われたが、その直感は間違っていなくて、無口な名無しは指示しなくてもよく働き助けてくれた。
 愛かと尋ねられたら、家族愛を越えてちゃんと異性として好意を持っているし、言い訳も嘘もなく尽くしてくれる相手に好意を持たないのは難しい。

「物語みたいな燃えるような愛じゃないけど、貴方はもう、あたしの家族だもの。貴方以上に信用できる人って、この先も現れないって思うし、一緒に死ねるならマシなのかもね」

 う~んと考えた後でヴィヴィが「ちょうど神殿に居るし、司祭様は忙しそうだけど誓いだけでもしちゃう?」と上目遣いでパチリと片眼を瞑ったら、グッと名無しは唸った。
 右手で左胸を押さえて、軽く悶絶している。
 スーハーと何やら数回深呼吸して、改めて尋ねられた。

「生きたいか?」
「一人じゃいやよ。貴方には感謝してる」

 あははっと明るく笑うヴィヴィに、グゥと名無しは唸った。
 なんだか言葉に詰まってクラクラしている様子で、胸を押さえて動かない。
「大丈夫?」と覗きこめば「抱きしめたい」と小さくつぶやかれ「どうぞ」と手を広げたら、先ほどより長くグゥゥっと唸ってフラフラしている。

「本当に、俺でいいのか?」
「ねぇ。もうすぐ死んじゃう時に、嘘つく必要があるの? どうせなら、明るくバカみたいに笑いながら、幸せな気持ちで死にたいわ」

 ぼさぼさの髪の毛からのぞいている、耳や頬や顎はりんごよりも赤くなっていた。
 しばらくして立ち直ったのか、キリッと居住まいを正した名無しはヴィヴィの肩をつかんで言った。

「言い訳はしない。あとで必ず話す。君だけには嘘をつかない。だから、少し離れることを許してほしい。しばらくここで待っていてくれ」

 周囲は避難してきた人々があふれて阿鼻叫喚の状態なので、イチャイチャしている二人の様子はかなり浮いていて、市民たちからは少し遠巻きにされていた。
 だから、意を決したように名無しがヴィヴィの肩を両手でつかみ、真剣に伝えた言葉を多くの者が聞いていた。
 そして、戸惑うヴィヴィの「え? いいけど?」とよくわかってない返事も、不思議と周囲に響いて目立っていた。

 だから、人々は驚愕した。

 ヴィヴィから離れた名無しが、一蹴りで空高く跳ねた。
 風のよりも早く魔竜へと向かっていく姿は、光り輝く流星に似ていた。
 その右手には、いつの間にか光り輝く長剣があったことも目に焼き付いた。
 一刀のもとに魔竜の首をバッサリ斬り捨てて、白銀の鎧をまとった姿でとんぼ返りして片膝をつくまで、瞬きを忘れて息を止めて見ていた。
 ヴィヴィの左手を取ってその手の甲にひとつ口付けを落としたところで、ようやく正気に戻って人々は歓声を上げた。

 それはまさしく、失われたはずの勇者の姿だった。
 光り輝く勇者の再来に街はわいたが、すぐに沈黙に包まれる。

 天から神の声が、再び響いたのだ。
 それは、言い訳にも満たない望み。
 紡がれたのは、生まれたばかりの愛を守る言葉。
 誅殺から逃がし、人間不信になった愛し子が再び人を愛せる事への、ささやかな祝福だった。

 街の者は驚きと呆れと喜びを持って、神の願いを受け入れた。

 そして。
 神の導きによって、勇者は旅立ったという噂話があちこちへと流れて行った。
 御伽噺よりも作り物めいて語られる魔竜退治だが、めくりめく現実だったからこそ物語のように広まっていった。

 どこにでも現れて、どこにもいない勇者は、物語の住人と同じ。

 新たな勇者の活躍が、水増しされながら他国にも広がっていく中。
 魔竜に襲われた街は、始まりの街と呼ばれるようになっていた。

 その始まりの街で宿屋を営むヴィヴィは、神様の意向で時々は旅に出る愛する夫と一緒に、末永く幸せに暮らすのでした。
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